やみにかくれていきる
くそったれ、と銀時は思った。
下顎内側に食い込む形で喉を締め上げてくる力は、その角度のために嘔吐も誘わず呼吸もさして塞がなかったが、頸の両側に走行している大きな血管を同時に押さえ、意識が徐々に遠のくようだった。
大きく広げた手の親指から人差し指にわたるアーチ型を喉への圧迫で感じながら、銀時は遠のきかける意識の端で、くそったれ、とまた思った。
プレイなどという範疇をとっくに超えた、坂本はおそらく本物のサディストだ。
坂本の気配は、虫を捕まえて足を一本ずつ引き抜く子供の気配に似ている。それは苦痛を見たがるなどという、正統をわざと迂回してみるような、そんな高等な情動ではない。単純な好奇心や探究心が、偶然に性欲として顕現したといったものだ。
だから坂本の腫れぼったい一重目蓋の下から覗く視線は、今に限らずどんなにバカをしていようと理性的で、常にどこかが醒めている。
坂本は、性質として、熱狂しないのだ。
銀時はその異常性に心底辟易している。昔から。
「のー、金時。これは、どうか?」
どうか、じゃねぇ、ふざけるな。
虫の足を抜くように猫の耳をちょん切るように、性行為の最中に頸を締められて最低の気分だった。
どうか、などと言いながら坂本は銀時の喉に指を渡した手をぐいと起こした。固い指のアーチで下顎が更に押し上げられ、血管への圧迫もより酷くなる。頸で堰き止められた血液が頭の中に充満して眼球を後ろから押すようで、とてもではないが瞼を開いていられなかった。血中の酸素が薄いせいか、舌の根っこまでが痺れてくる。
「ウ、…ァアッ、アッアッ」
そのような状態で体がずり上がるほど全く手心を加えた風もなく突き上げられ、銀時は痺れた舌で無様な声を上げながら、自宅のソファの上、坂本の下でのたうった。身動ぎの拍子に薄く開いた目には、天井の見慣れた木目が爬虫類の腹のように蠕動しながら歪んで映る。吐き気を誘発するその光景を瞼を強く閉じて遮断した。
坂本は、目を閉じた銀時の表情をつぶさに観察しながら腰を使う。
金を動かすのが楽しいのと似た感じで、坂本は銀時を弄るのが楽しい。
金の在り方や金というものの本質、そういった哲学にはそれほど興味はない。し、普段考えもしない。魅力があるのは、あくまでもそれを動かす具体的な方法論だ。銀時についても同じで、銀時そのものに対する興味というよりは、例えばこのようにして彼を具体的に運用する事に坂本は魅力を感じる。面白いと思うのだ。
坂本が生きる上で準拠している何ものかがあるとすれば、それは間違いなく『面白さ』だと言えた。逆を言えば、他の事柄にはあまり価値を見出せない。面白いかどうかが坂本にとって唯一の価値基準だった。
銀時はその基準に照らしてなかなかに優れていて、それであるから坂本は昔、金儲けに銀時を誘ったし、今現在もこうしてちょくちょく構うのだった。
「ハ」
銀時が、締められたままの喉から掠れた息を吐いた。
固定された喉を支点に胸と腹をぐっと上げて強張らせ、坂本の手の甲に触れる下顎骨は曖昧に咀嚼するように戦慄いた。射精を止めるため自前で握り込んでいる性器の先端が濁った分泌液を溢れさせ、生々しいそれが妙に白い腹筋の上に粘っこく落ちた。
見下ろす坂本は、唇を突き出すようなおどけた表情で言う。
「おお、気持ち良さそうじゃのー」
ぱ、と喉を締めていた指を解放すると、銀時が嘔吐するような音で咳き込んで身を捩った。
「…や、やかましい。死ね、すげえ苦しい死に方をしろ」
「アッハッハ」
おどけた表情で笑う坂本の、その目はしかし全く笑っていない。
うっかり見てしまった銀時はぞっとする。付き合いが長すぎて麻痺しているが、改めて考えれば坂本ほど恐ろしい人間もそうはいない。
昔つるんでいた何人か、銀時も含めたその何人かが、口調は様々ながらも、坂本は恐ろしい、敵に回したくない、と口を揃えて言っていた。当時の話ではあるが、今その何人かが集まる事があれば、やはり坂本をそのように評するだろう。
抜け目がなさ過ぎて油断できない、というわけではないし、殊更冷酷だというわけでもない。それどころか、とんでもないところで間抜けをやらかすし、ひとに対しても過剰に近く面倒見がいいし、小まめだ。なにより性格は底抜けに明るいし。
そうであるのに何故か、皆が皆、坂本を恐ろしいと思うのだ。
理由を上手く説明する事はできない。
敢えて言えば、何が起ころうと何とも思っていなさそうな感じ、その辺が得体の知れなさとして感じられるからかも知れないが、どうであろう。
底抜けに明るい真っ青に晴れた空の奥は、生物の生存さえ許さない真っ暗な静寂だ。
坂本がまた銀時の喉に指を回した。今度は明らかに苦痛を与える事を狙って、厚い掌が喉仏を潰しにかかった。
その圧迫に苦鳴を上げる間もなく、真上を向く程高く引き摺り上げられた下半身では、挿入されて既に広がりきった部分に脇から指を突き込まれている。銀時は大きな口を開けて硬直した。
内心で毒吐く余裕も失った。
このような坂本は、そうは見えないが、社会生活において莫大な権力を持っている。
具体的には、金、というやつだ。
坂本と金という組み合わせは、ひどくグロテスクで醜悪だったが、坂本の陽性の気質がその醜悪さを見事に相殺していた。
実体の禍々しさを忌まれる事もなく、子供のように無邪気に振舞い、日々ひとから好意的な口調で『バカ』と呼ばれては親しまれている。
*
先日銀時がちょっとした経緯でぶちのめしたチンピラは、町の裏で手配師をやっていた。
指が両手で三本ほど足りないあからさまに堅気でないその男は、やはり残り少ない指が惜しかったらしく、銀時がそういう交渉を行ったら意外と早く必要な情報を吐いた。男の所有であった刃物は、男自身の親指の骨に当った所で止まった。
男は銀時に、
今日見た事を黒駒の兄貴に言うのだけは勘弁してくれ
と泣き、足りない指で手を合わた。
そして、銀時と銀時がその辺に待たせていた子供二人に、何故か焼き肉を奢ってくれた。
男の手を離れた指三本は、めるちゃんの飼い主が預かっているのだそうだ。
やくざも親指だけは取らない。箸が持てないと飯が食えなくなるから。
などという、男が話すどうでもいい雑学に適当に感心していると、やがて男は肉を焼きながら自分の仕事の愚痴をこぼし始めた。
男の仕事は、いわば企業の下請けで、しかも子請け孫請け更にひ孫請けと、どんどん下って下り切った底辺の所でそこに溜まった汚泥を浚うような仕事だった。
男は、いくつかある元請けの中でも、とある企業のやり方がえげつない、というのだ。
「そんなん、どこも同じだろうが」
「でもね旦那、ありゃあ駄目です、汚い中でも、一番汚いのはやっぱ駄目です」
やくざが何を言うか、と半ば呆れて生焼けの肉を網の上で突く銀時の箸の先を、男の左手が使う子供用フォーク(さっき親指を負傷したために右手が箸を使えないので店員が気を利かせたのだ)が押さえた。
「旦那ね、忠告するけどね、そういうのを連れて歩くんだったらね、あすこ関連の件には手を出さない方がいいよ」
そういうの、と言いながら男は、新八と神楽に斜視ぎみの視線を向ける。
新八は骨付きカルビを鋏で切断しており、神楽はラーメン鉢ほどの茶碗に山盛られた白米を掘削していた。どちらもやくざと銀時の話など興味のない顔だったが、その実耳はしっかりと働かせている事を銀時は知っている。
銀時は箸の先を煩そうに跳ね上げて男のフォークを振り払った。
「なんでよ」
「あすこんとこは特別やり方がいやらしいから、玄人の中でもタチの悪いのが集まるの。危ないよ」
「ふうん」
「…都合の悪いもんを下の方へ捨てるのはみんなやってる事だけどさ、あすこは捨て方が汚えんだ」
「どんなふうに」
「なんつうか、嫌な感じよ。罪悪感、が、まるで無ぇみたいな感じなんだ」
ぷっ
と、新八が思わずといった様子で小さく吹き出す。
確かに、やくざがひとの事を罪悪感がないと非難するなど笑い話以外の何でもない。
普通なら。
「だから俺も、あすこの仕事は一回きりでもう手出さないようにしてんだ」
長年この仕事をやっているが、夜、思い出して眠れなくなったのはあすこの仕事くらいだ。
銀時は笑えなかった。
やくざに罪悪感がないと非難されているのは、坂本の系列企業だった。
*
「アッアアアッ!ァア!」
銀時が、合間合間に絶叫に近い声を上げる。
喉を締めると黙るが、離すとまた喚く。それの繰り返しだ。
階下のバアさんの迷惑だろう、と思った坂本は少し首を傾げて考えてから、襟元に巻いていたスカーフを解いて丸めて銀時の口腔に突っ込んだ。両端は口の外に出しておく。喉頭がスカーフの端を深く飲み込みでもしたら窒息してしまうからだ。
しかし、そうした気遣いなど銀時には関係がない。
そもそも気付くだけの余裕がない。
こんなもんは苦痛以外の何でもない。
限界に僅かに触れかける、そのポイントを的確に見極めて、頸を締めたり緩めたり、緩んだ所で助かったと思って体が弛緩すると今度は挿入した性器で内臓を殴打するように突き上げられる。
わけのわからないままにもう何度も絶頂した痕跡が、内股と下腹部に無残な程の量こびり付いている。
しかも、絶頂の痙攣を全く無視して更に押し込まれるのだから、もう自分が何を何の為にやっているかすらわからなって、ただ苛められる犬のように大柄な男の体の下で喚くばかりだった。
許容を超えて押し付けられる感覚と呼吸困難と喉を潰される苦痛に我を忘れて、もう何回となく普段の自分なら屈辱に舌を噛みたくなるような無様な懇願をした。
しかし、銀時がそうする度に坂本は
「聞っこえん、のー」
と、相変わらず何でもなさそうなおどけた口調で笑うのだった。
ソファの横に置かれたテーブルの上に、さっきまで神楽が落書きをしていたチラシと鉛筆が転がっている。
目的の無いあみだくじと、お花と、りぼんを付けた兎、あと『ばか』という文字が描かれているが、その筆致は神楽の14という歳から考えると大分幼い。彼女の言動や挙動を思うに、夜兎というのは、情緒はともかく知性は人間より若干遅く発達するのかもしれなかった。
ひゅ、と呼気だか吸気だか判別できない音が銀時の胸の底で鳴った。
「…っ」
同時に、口の中に押し込まれていた坂本のスカーフを奥歯で強く噛み締めて銀時は、衝撃に対する反射でしかない、快感を伴わない射精をする。
神楽の落書きを載せたテーブルを銀時の震える掌が縋って滑り、押されたテーブルが床を擦りながらずれた。その拍子に卓面から鉛筆が床に落ちる。鉛筆はそのまま床を転がり、坂本の裸足の爪先に当って止まった。
「このまま、出しても、ええか」
嫌だと言ってもそうするのだろう。
わかってはいたが、それでも銀時は許可をする気になど到底なれない。
塞がれた口の代わりに、まだ坂本に掴まれている頸を横に二度振った。
坂本は聞き入れなかった。その顔は相変わらず好奇心を剥き出しにして、何かにのめり込む子供のようだ。
「んっ、…ぅう」
体の中に射精される気持ちを知ってっか。
最低だ。
「ああ。出してしもうた」
坂本は全く遠慮なしに銀時の一番奥まで挿し込んで出し、ゆっくりと時間をかけて出し切ってから、銀時を覗き込み、すまなさそうに、しかし笑って言った。
坂本が大きな手で鉛筆を拾い上げ、まじまじと見る。
「かわいいろうが」
何が、と銀時が疲労しきった目で見上げると坂本は、テーブルの上のチラシを手に取った。不器用に描くから、神楽が何かを描いた紙は必ずくしゃくしゃになる。坂本は紙をテーブルに置き直すと、広い掌でその皺を丁寧に伸ばした。
「よう懐いとる」
「…犬猫じゃねぇんだ」
神楽にしろ新八にしろ、ガキはガキだが銀時との関係性は親子のような一方的な庇護関係ではない。親子というには歳の離れ方も微妙であるし。
銀時にしてみれば、かわいいガキを拾ったつもりはなく、偶然つるんだ奴らが(かわいいかどうかはともかく)ガキだったというだけだ。ガキどももそのつもりだろう。
銀時は最低限の身仕舞だけをしてソファに横向きに寝転がり、何をする気にもなれずに、歳の割に幼すぎる落書きの紙をだるい目で見詰めた。
*
「ベムが」
ベム、というのは、この前焼き肉を奢ってくれたやくざで、右手の指の数が妖怪人間と同じだったからそう呼んでいる。
もし銀さんがあのまま親指落としてたら『チョキ』になってましたね、あの人。
と新八が面白くもなさそうに言ったのは記憶に新しい。
そのベムがどうしたというのか。
銀時は財布の中の小銭を数えるのを止めて茶を運んできた新八を見上げた。
新八は盆から湯呑をどん、と銀時の前に置いて言った。
「死んだそうです」
「…ああ、そ」
「朝、神楽ちゃんが定春の散歩の時に、めるちゃん連れた黒駒さんに会ったんですって。そんで『迷惑かけて悪かったな』って謝られたんだって。何の事かわからなかったから聞き返したら、黒駒さん、指をこう」
右手の小指と薬指を曲げて見せる。
「して、『もう迷惑かけんさかい』って言ったそうです」
別に迷惑かかってないネ
まっずい焼き肉食わしよったろ。定春くんの飼い主に失礼なもん食わせて、ほんま恥ずかしいやっちゃ
なあ、めるちゃん
「責任取らせたそうです」
焼き肉がまずかった事の責任なのか何なのか知らないですけど。
新八は嫌そうな顔をしている。
単純に、最近共に食卓を囲んだ人間が殺されたのが不快なのだろう。その感覚は、極めてまっとうだった。
「神楽の奴、余計な事言ってねぇだろうな」
あのやくざがどうなろうと知った事ではないが、全くつまらない別件で関わってしまった事で、こちらに謂れの無い累が及ぶのはごめんだった。
自分たちは、やくざがあの日にしていた事が黒駒に知れたら何故まずかったのか、そんな事すら知らない完全な部外者なのだ。
極めてまっとうな感覚を持って生きている、部外者なのだ。
「…定春がダッチワイフ食った時にレントゲンに人体みたいなものが写って大騒ぎになった話と、めるちゃんのレントゲン写真が胴体長すぎて端っこ切れた話だけしてバイバイしたって言ってました」
新八は、でかい黒目が心持ち小さく見えるような目付きで銀時を見下ろし、言った。
この頃のこいつの生意気さはどうしたことだ、と銀時は腹が立つ一方で、なにかしら可笑しく思う。
「めるちゃん、半端ねぇな」
銀時は机の上に最後の一円玉を積み上げた。
10円分の円柱3本と、4円分の低い円柱。34円。小銭入れがぱんぱんになる筈だ。
「これやる」
「いりません。言っとくけど、それ給料だって言ったらぶっ殺しますよ」
*
「この前」
胎児のように体を丸めて動かなかった銀時がそう言ったので、坂本は「起きとったのか」と言った。銀時は坂本の反応を無視して言葉を続ける。
「お前んとこの会社の廃棄物的なものの最終処理的な事に従事してる業者のおじさんに出会ったんだけどよ」
黒駒が坂本の系列企業と組んで何かをやっているらしい事は以前から知っていた。但し、そういう通りを歩いていれば自然と耳に入る噂話としてだ。
だから、やっている何かというのが何なのかは全く知らないし、知ろうとも思わない。
銀時が生きるために使う武器は、究極的には『知らない』でいる事だ。
「評判悪いのな、お前の会社」
「ほうかの」
「限りなく最悪だ」
「そりゃいかんのー」
坂本は、別に悪いとも思っていなさそうな完全に他人事の口調で言い、銀時の唾液でべとべとになったスカーフを膝の上で畳んでいる。
銀時の口から引きずり出して放ってあったそれを、あろうことかまた首に巻こうとしたのを殴ってやめさせたのだが、膝の上で畳むあたり何故殴られたのか理解していないのではないか。
「まあいいけどな。…それより、」
銀時は強張って重たい上体を軋ませながら起こす。さりげない動きにもいちいち過敏に震える筋肉が情けない。
行きがかり上、他に男を知らないわけではないが、坂本のセックスはどう好意的に考えても突き抜けて特異だ。
普通、皮膚と皮膚が接するような事をすれば、問答無用で相手との距離が縮まるような感覚があるものだが、坂本の場合は逆だ。しない方が近くていられる。というか、する度に、間に横たわっている得体の知れない距離を見せつけられる感じがする。
そういう感覚は坂本との交渉の間だけにあって、果たしてそれは坂本の性質が特異なせいか、自分と坂本の関係が特異なせいか、わかりはしないが、とりあえず酷く体力を使う事に間違いはない。
オメーのサドっぷりは一体なんだ、と顎を押さえ付けられ続けて調子の悪くなったこめかみを揉む銀時に、坂本は、わしはお前のようにひとを苛めてちんこ勃てたりはせん、と返答した。
じゃあ一体、お前のちんこは何で勃つんだ?
スカーフを畳む坂本の鼻先に、掌を上にした手が突き出される。
「それより。出せよ。金。5万」
坂本は銀時の手を見、そして顔を見、心から悲しそうな表情をした。
赤ん坊が見ても『悲しいのだな』とわかるような、わかりやす過ぎる程にわかりやすい表情だ。
別に作っているわけではない、と付き合いの長い銀時は知っている。
本心だ。心から悲しいから、心から悲しそうな顔になる。
これだから皆がこいつに騙されるのだ。銀時は舌打ちでもしたい気分になる。
明るく単純でポジティブな本心が素直に顔に出るからといって、そいつが善人だとは限らない。
飾らないオープンな本心、その性質は確かに明るく単純でポジティブかもしれないが、例えば明るくて単純でポジティブな闇、みたいなものがあったとしたら、果たしてそれは懐中電灯で照らせるか。
「…そがなふうにされると、まるでわしがお前を金で買ったみたいで悲しくなる」
「みたい、じゃなくてそうだろうが。散々人の事オモチャにしといてよ。対価を支払え、対価を」
「なんでじゃ。金とセックスとは別の話ろう」
「ああ?!」
「お前、金は『貸せ』言うたろう」
言った。
確かに言ったが、その言葉に坂本は「ほいじゃ、やるかの」と返したのだ。
別に銀時はそんなつもりで言ったのではなかったが、そのように返されたものだから、ああそうなのかと思って、それで頸まで締められたのだが。
「勿論お前の頼みじゃき、なんぼでも貸す」
坂本は懐から財布を取り出した。取り出された長財布は銀時のものと違い薄っぺらく、小銭入れなど付いていない。34円どころか、1円だって入りはしないだろう。坂本の財布はどうやら、硬貨を貨幣として認識しない造りらしい。
そんな形でありありと示される坂本という個性に、銀時は不快になる。
別に卑屈になっているわけではない。確かに『バカヤロー』とは思うが、そういうほのかな悔しさは不快と呼べる程のものではない。
この不快は、あの時新八が、やくざが死んだ事に対して示した不快感と同じものだ。
自分がまっとうであるが故の不快だ。
「じゃが、借りたもんは返すもんやき」
坂本は薄い財布から万札を慣れた手付きできっちり5枚抜き出した。
そして、目の前に差し出されている銀時の掌に1枚ずつ数えながら載せていった。
「5万、な」
「………」
銀時は無言で掌に載せられた紙幣の角を揃え、左手の中指と薬指の間に挟んだ。
そして折り返した端を唾を付けた親指で弾き、正確な動きで札勘する。
体を使わせた見返りは得られず、負債もきっちり負わされた。
銀時が5枚目を弾き終わるなり、坂本が珍しく低い声を出した。
「だいたい、高いと思わんかったか」
「…何が」
「5万は高い」
何が、なのか答えないままに坂本が立ち上がる。
「また来るき」
歯を見せて、底が抜けたような笑顔で言った。
やはり、目は笑っていない。視線はあくまでも理性的で、冷えている。次はどうしようかと、機械的な段取りを着々と組んでいる。
貪欲な好奇心や探究心を身の内に抱える坂本は、その巨大なエネルギーを喰らって無限に動き続けるのだ。悪意もなく卑しさもなく、徹底的に楽しんでいる。
銀時は、もう来るな、と思ったが、言うと金を踏み倒す事になってしまうので言わない。
ただ、消耗した意識の端に引っ掛かった疑問を口にした。
「聞くけどよ。…お前、何で俺に構うの」
昔からだ。坂本は銀時に何故か構う。
桂にも高杉にも言わなかった事を坂本は何故か銀時に言ったし、よく考えてみればあの糞真面目な二人を面倒がる事が度々あった銀時の横にはいつの間にか坂本がいた。
当時は別にそれでよかった。しかし、今はそうはいかない。
「構われたくないがか」
坂本の影響下、その因果の末端で命を失ったやくざ。
そして神楽の幼い落書き、新八の生意気な目付きを思った。
「構われたくないね」
突然、坂本が普段から大きい声を更に大きくして笑い出す。
銀時はそのでかい声に眉間を狭くした。
「お前、ほりゃあ嘘ろう」
体を折り曲げて腹を抱え、目を潤ませる程の爆笑だった。
「お前は面白い、まっこと面白い奴じゃ」
面白い、面白い、と坂本は耐えられずに笑い続けた。
「やかましい。帰れ」
笑う坂本に、銀時が怒鳴りながら手に持っていた紙幣を投げ付けた。それは坂本の顔にぶつかる前に空中に散って、虚しく舞った。
坂本には、自分が世の中からずれている自覚がある。
しかし、それを言えば銀時もまた昔からずれ続けているのだ。
それだからこそ坂本は銀時を面白いと思う。
そして、世の中からずれている事の孤独は、同種でなければ理解できない。
そんな事はわかっているだろうに、自分が負った業の種類などわかっているだろうに、こんな所で泥にまみれて子供を養ってみたり、おまけに犬まで飼い始めるような銀時が、そのような銀時を構う事が、坂本には面白くて仕方がなかった。
是非、今後とも曲げる事なくそのように生きて行って欲しい、と坂本は心から願った。
「また来るき」
治まらない笑いを堪えながら、坂本は床に散らばった紙幣を拾う。
きれいに揃えて、それをテーブルの上にある、子供の落書きの上に載せた。
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