既にないもの、未だないもの

坂本は、先を歩いている銀時の肩の輪郭を見ながら、老けたな、と思っている。
或いは、大人になった、と思う。




*






毒々しい店々を無機質なシャッターがぴったり覆い隠した昼下がりの歓楽街は、まるで死んだ蛹のようだった。人の姿もなく閑散として、その道は急ぐ車が幹線道路へ出るための狭苦しいバイパス程度の意味しか持っていない。
運送会社のトラックがギリギリの幅員を無茶な速度でしかし危なげなく過ぎて行くのを、銀時はシャッターに塞がれた店の軒下にすいと身を寄せて当たり前に避ける。呼吸でもするかのようにスムーズな動作だった。
坂本は感心して、なるほど、こいつはここで生きるものとしてすっかり適応しているのだな、と、何でもなく歩き出した銀時の肩をまた眺めた。


子供であった当時は自分が子供であることに気付かないが、年数を経てみると、間違いなくあの頃が子供であったとわかる。逆をいえば、当時と比べて今の自分が子供でなくなった事がわかる。
坂本はそれを、先に歩く銀時の肩の稜線をぼんやり眺めるだけで如実に知った。

「今日は寒いの」

「ああ、そうか?」

「いやぁ、寒い」

「風邪でも引いたんじゃねえの、馬鹿のくせによォ」

けけけ、と嫌らしく笑う銀時は半袖の腕を坂本が寒いと感じる外気に平気で晒していた。

肩もそうだが、腕もそうだ。
坂本が眺める銀時はその体の外形で時間の経過をありありと示し、それが当たり前の事であると否応なしに納得を迫る。

経年による変化を拒むわけではない。ただ、その抗いようのない変化をこのように目で見える形で提示され、坂本はひたすらそれに感心するのだ。


「お前、老けたの」

揶揄でもなく思ったままを口にすると、銀時は坂本に背を向けたまま

「そうだな、お前もな」

と言って、そして歩きながら振り返った。

「それが、なんか悪いか」


銀時は昔からその性質に皮肉な所があり、それが時に他人の反感を買っては嫌われる要因になったりしたものだが、今現在見る皮肉を含んだ表情は、どこかにあっけらかんとした素朴な冗談を含んでいるような、なんというのだろう、感情ののびしろというか、余裕のようなものを感じさせた。

つまり、子供でなくなるという事はこういう事なのだろうか、と坂本はやはり感心させられる。
外形にも精神にも余裕という名の幅が出る。


「結局、お前が俺の何をどう思って『そう』なのか、俺は昔も今も知らねぇし、知ろうとも思わねぇけど」

銀時は言いながら、雑居ビルと雑居ビルの間の路地とも言えぬ隙間に入る。坂本は、ビルの壁に切られた勝手口のドアノブに腰をぶつけながら後を追う。
雨樋やエアコンの室外機を避けて器用に進んで行く銀時はまさしくこの場所に住み慣れてこの場所に体を適応させた生き物で、坂本はそのような銀時の中にやはり蓄積した時間を見、そして素直に感心するのだ。

「…お前が『そう』だって事は、知ってんだよ」

「うん、それで十分じゃ」

坂本は笑って、プロパンガスのボンベに阻まれて狭い隙間を体を横にして通り抜ける。通り抜けかけた時に、コートの布地が何かに引っかかって小さく裂ける音を立てたが、気にしなかった。

ケロッと笑う坂本に銀時もほんの少しの間を置いてから低い笑い声を立てた。そして笑いながら

「オメーはほんと馬鹿だよなァ」

と言った。

「馬鹿じゃったらいかんか?」

「いいも悪いもねぇよ。馬鹿だっつう事だけが、昔も今も変わらんねぇってこった。死なない限り治らねぇらしいぜ馬鹿は。お前どうするよ?死んでみるか」

「死ぬくらいなら馬鹿でおる」

「俺もだ」

そう言った銀時の口調は、何かしらの実感を伴った上で発言されるからこその奥行きがあって、例えばこのような言葉の外に意味を含ませる会話は、若い時分であれば成立しなかっただろうと坂本に思わせた。


銀時の肩や腕、表情や口調に現れる蓄積した時間を坂本は丹念に読む。
銀時の上に流れた時間は物理的に離れていた坂本の知らないものだ。
丹念に読む事が、自分が不在であった間の銀時について補填するとは到底思わないし、坂本にそんな少女趣味はない。
ならば何故読むのかといえば、それが現在そこにいる銀時を間違いなく構成しているからだ。
銀時の時間を読む事は、今の銀時を読む事だった。今の銀時を読むという事はつまり、とりあえず今そこにいるお前を寄越せという極めて即物的な欲求の現れで、それは昔も今も変わらずしかも死なないと治らない馬鹿であるからそんな事を思うわけで、じゃあ死なない限りはこうなのだろう、と坂本は、白い着物が日の射さない暗がりに動くのを頼りに銀時を追った。




*






前を歩いていた銀時が立ち止まる。
脚を振り上げ、行き先を塞ぐ積み上がったダンボール箱を蹴りつけて崩した。

「乱暴じゃの、相変わらず」

「俺におしとやかにしろってのか」

銀時が崩して散らばった箱を坂本が大柄の体を屈めて横に積み直す。中身は新聞紙を丸めたものが詰まっていて、さして重くもない。
坂本の軽い非難を無視して銀時はダンボールの向こうに押し込められていた膨らんだいくつかのゴミ袋を掻き分ける。ゴミ袋の中身も丸められた新聞紙だった。
一番奥にあったゴミ袋の口を銀時が解く。がさつに腕を突っ込み、更にビニールとガムテープで梱包された小ぶりな包みを取り出した。

ゴミ袋から転がり落ちた新聞紙に、見慣れた筆跡のメモ書きを見付けた坂本は、その一枚を広げていた。
『10時、録画 ぜったい』
テレビ欄の10時の部分をぐるぐると何度か囲んである。
汚い筆跡も昔と変わらないと坂本は思った。筆跡から馬鹿が滲み出ている。

あの、起きて半畳寝て一畳な自宅で銀時が新聞紙にこのメモをした。そしてメモを残した事も忘れられた新聞紙が、こんなところに運ばれ、丸められてゴミ袋に詰められてこんな事に使われたのかと思うと、無性に可笑しかった。


「どうぞ、社長さん」

しゃがんで新聞紙を眺める坂本の頭を銀時が手にした包みで二三度したたかに叩いた。

「止めんか、これ以上馬鹿になったらどうするがじゃ」

「困るのかよ?」

「困る。会社が出来んようなる」

「へえええ、そりゃあ大変だな」

「失業じゃ、お前のせいで」

「なんならウチで使ってやろうか」

それもいいかも知れない、と内心で思っても、別に口に出す程の事ではない。

坂本は渡されたビニールの包みの梱包を剥ぎ取り、中身を慎重に確認する。抜かりなく、どのような違和感も逃さないように。

「なに、信用できませんか」

壁に半身を凭れ、嫌な笑い方をしながら銀時がわざとらしく訊いた。


これは仕事だ。
坂本が銀時に依頼した。
ちょっと必要な物があって、それが偶然銀時の手が届きそうな位置にあったから、坂本は銀時にちょっと取って来て欲しいと頼んだ。

いきさつは単純だが、物は単純ではない。こんな入り組んだビルの合間に隠し置かなければならないような物だ。
そんな仕事を依頼する坂本も坂本だが、受ける銀時も銀時だった。
しかも、このような事は今回が初めてではない。

妙な事になってきた、と坂本は思う。若い時分には、何のしがらみもなく犬がつるむような単純なものであった銀時との関係が、自業自得とはいえ、ある部分で際どい緊迫感を伴うようになっていた。

「ほんの儀式じゃき」

信用するしないでなく、単なる形式だと律儀に返答した坂本を銀時が笑った。
つまり、坂本はおちょくられたのだ。
際どい緊迫感を銀時はこうして遊びに使う。そして坂本は遊ばれて悪い気はしない。
新しく出来上がった関係性は両者の共犯関係と暗黙の了解の内に成り立っていた。


「こんなもんがお役に立つんですか」

「立つから頼んだんじゃ」

「何に使うんだ」

「意固地になっちょる取引先の脇の下をちょっとばかり擽る」

「怖ぇなァ」

まるで他人事だ。


坂本は一通り中身を改めた物を懐に仕舞う。多少かさばったが、何とか収まった。
銀時は坂本に背を向けて、散らかした新聞紙を再びゴミ袋に詰めている。

その丸まった背中の幅、俯いた首筋、肩の稜線を坂本は見る。銀時の上に経過した時間、現在の銀時を構成する要素を見る。

「お前、老けたの」

銀時は新聞紙を片付ける手を止めず、振り返りもせず、

「そうだな、お前もな」

と答えた。


前に屈めていた上体を突然後ろに引っくり返され、バランスを崩した銀時は湿った新聞紙の玉の中に背中から倒れた。
仰向いた目に映る、聳えるビルとビルの壁に細く長く切り取られた空が、青い、と思った。

体を強く押さえ付けられるせいで頭が新聞紙に埋まり、顔の上にこぼれてきたその内の一つのせいで、青い空は見えなくなった。

顔の半ばが間抜けな新聞紙に埋もれた銀時の口を頬を掴んで開かせ、坂本は開いた部分に当然の権利のように自分の口を重ね合わせる。
中に収まっていた舌は意外にも酷く素直に坂本に応じ、それどころか積極的に動きさえした。

銀時の手は大きい。よく動く関節の高い長い指を広げてみせれば、坂本の手に劣らず大きかった。
その手が、上に被さる坂本の顔を広く覆った。
目どころか鼻まで覆われ、坂本がたまらずに銀時の口を解放すると、自由になった銀時の口が言った。

「確認させろ」

「何を…」

「お前が、ちゃんと馬鹿なんかどうかをだよ」


銀時の視界は新聞紙に埋もれて塞がれていて、坂本の視界は銀時の広い掌に塞がれている。
時間の経過で変化をしない何かを見据えるなら、確かに視覚は邪魔だった。

視覚を奪われた坂本は、両腕に囲い込んだ銀時の形に、銀時の上に流れた時間を明らかに感じている。

銀時の要求は、囲い込んだ時間分の奥行きを持っていて、若い頃には想像もしなかった感情を呼び起こした。
老けた、或いは、大人になったのだ、と思った。
銀時もだが自分もだ。

「それが、なんか悪いか?」

銀時が浅い呼吸に混ぜてそう言い、


俺は馬鹿だ、だからお前も馬鹿でいろ、


と言葉の端で呟いた。









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