からす 1

少女の体つきは華奢だった。

少女は十四歳だった。
早い者なら女の匂いをさせ始める年齢だったが、彼女は薄っぺらい胴体に痩せっぽちの手足を生やしたままだった。



少女の母親が死んだのは彼女がまだだいぶ幼い頃だった。
弱くない雨が降っていた。折れた雨樋から漏れた雨水がガラス窓に噴き付けていた。多量の雨水が集まって雨樋が揺さぶられ、がたがた音を立てていた。雨水は雨樋の折れたところからさかんに噴き出し、窓ガラスにぶつかっては滝みたいにざばざばいっていた。

その音を聞きながら、彼女はベッドの横で膝立ちになり自分の目と同じ高さにある母親の顔を見ていた。

母親は目を閉じて口を薄く開けていた。薄く開いた母親の口は息を吸ったり吐いたりしていた。
臨終の細い息は単調で機械的だった。母親が行っているのは、呼吸ではなく単なる物理的な空気の出入りだった。
冷たく湿気た貧しい部屋の空気は母親という狭い空間に摩擦しながら入って行き、摩擦しながら排出されてまた湿気た貧しい空間に拡散した。

雨樋ががたがたいって、雨水がごぽごぽ噴出し窓ガラスにざばざばぶつかって、母親の呼吸が細く単調だった。聞こえるものはそれだけだった。
彼女の耳の中で母親の呼吸の音は、折れた雨樋の音と溢れる雨水の音を従えた主旋律だった。

主旋律は次第に細くなった。単調であったものが不規則になった。不規則な呼吸はやがて途切れがちになり、途切れる間隔が長くなり、遂には途絶えた。

最後に母親の口は空気を長く吸い込んだ。そして吸い込んだきり吐き出さなかった。少女は病にやつれて骨と皮ばかりの体に縋って母親を呼んだ。しかし、いくら呼んでも母親の中に入った空気は二度と吐き出されなかった。

彼女の耳に聞こえていた音は主旋律を失った。

主旋律を失った音は伴奏も消えるべきであった。全てが消えてしまうべきであった。しかし彼女の悲嘆を他所に、主旋律が途絶えた瞬間から、それまで伴奏であった雨樋と雨水の音が主旋律になり変わった。
無慈悲な音は消えることなく淡々と続いていった。

耐え難い何かが起こり、そしてそれをいかに嘆こうと世界は消えてくれなどしないのだと、絶望のうちに彼女は知った。


 
母親が死んでから、彼女の身近には女があまりいなかった。
手本にするものがなかった。だから彼女には『女のやり方』がわからない。そもそも、『女』がどういうものかもよくわからない。
わからないものにはなれない。

なれない彼女は、十四歳を過ぎても、薄っぺらい胴体に痩せっぽちの手足を生やしたままだった。



電気が点いたままの和室の炬燵で、銀時が寝ていた。
横向きで横たわり首まで炬燵布団に埋まっていた。目を閉じて薄く口を開けていた。薄く開けた銀時の口は息を吸ったり吐いたりしていた。
神楽は薄やれした靴下を脱いでそのへんに放り、炬燵に潜り込んだ。
狭い炬燵の中で神楽の脚が銀時の脚に触れた。
神楽は銀時と同じ横向きの姿勢を取って向かい合わせになり、自分の目と同じ高さにある銀時の顔を見た。
熟睡する人間の呼吸は臨終の人間の呼吸に似て、単調で機械的だった。     

兄ともども、父から打ち捨てられていた小さい神楽は母親が死んでほんとうに独りになった。
独りになってからの神楽は、闇雲に怯えては牙を剥き、腹が空けば食う、ただそれだけで生きた。野獣に等しかった。
野獣の嗅覚で食い物の臭いを追って流れるうちに偶然ここに行き着いた。ここで、神楽は独りでなくなった。独りでなくなった神楽は自然と野獣でなくなっていった。
野獣でない生き方を見て、知ったからだ。

銀時は起きない。心臓のある側を下にして、両手を顔の前に交差させた形で投げ出している。

床に潰れる頬が痛んだ神楽は体を深く曲げ、投げ出された銀時の掌の上に頬を載せた。
眠る人間の低い体温と弾力のある薄い肉の感触が頬に伝わった。
銀時の掌は広い。神楽の頬をすっぽり覆った。
神楽はそれを感じながら目を閉じた。


 
神楽は、母親を失って女の手本を失った。

もしも銀時が死んだら、今度は人間の手本を失う。




*






両手が岩に挟まれて抜けなくなる、筋書きのない感覚だけの夢に魘されて銀時は目を覚ました。

投げ出した手の上に神楽の頭が載っていた。
どれだけの間圧迫されていたものか、指先は痺れて感覚がなかった。掌には生温く涎まで垂らされていた。
手首を持ち上げると神楽の頭は畳の上にずり落ちた。それでも目覚めない神楽の半開きの口と銀時の掌に、透明な涎が糸を引いて伸びた。

そのまま転がって仰向けの姿勢になりぼんやりと天井を見上げる。

今日は小雨が降って薄暗い日だったので、電気は昼から点けっぱなしだった。
見上げる目に、長いこと交換していない蛍光灯がそれでも煌々と白く眩しかった。電気の明かりを眩しく感じる程に周囲が暗くなっている。寝ぼけた目を何度か瞬きして焦点を合わせながら時計を見ると、7時半を回っていた。

銀時は炬燵の端を掴んだ。それを頼りに機敏さとはかけ離れた動作で体を起こす。炬燵の上に置いてあった湯飲みやその他のものが振動して音を立てた。
炬燵の上にのめるように上体を丸め、寝起きに動作したせいで胸に溜まった息を深く吐いてから、もう一度時計に目をやる。
7時半を回っている。

覚醒しない意識に焦るでもなく、しばらくぼんやりと二本の針を眺めた。眺めているうちに欠伸が出た。目が潤み、時計が示す時間がぼやけて見えた。
潤んだ目を何も考えずに擦ると、目の周りが粘ついた。

掌に神楽の涎が付いていたのを忘れていた。



洗面所で顔を洗う。
開栓された蛇口から水が勢いよく流れている。それを掌に掬い、顔面に浴びせかけて糞餓鬼の涎を洗い落とした。
顔を上げると目の前にある鏡に自分が映っている。濡れた顔に前髪が張り付いていた。伸びて、うるさくなってきた。そろそろ切ろうかと思いながら後ろに撫で付けると、だらしなく伸びた髪に隠れていた額がすっかり露出した。

銀時の額が露出するのはこうして顔を洗った時か風呂の時くらいだ。
基本的に誰にも見せる事がない。自分しか見ない。
額が露出したこの構図は銀時にとって極めて個人的なものだった。単に人に見せる機会がないというだけで深い意味はないが、ともかく、露出した額は銀時のプライベートだった。

銀時の露出したプライベートには傷痕がある。古いものではない。
右眉の上からこめかみに向かって一筋、皮膚が生々しい血の色に引き攣れている。その周囲は青黒く鬱血していた。


 
和室に戻ると、さっきまで横向きだった神楽の姿勢が手足を広げた大の字に変わっていた。
炬燵布団から裸足の足首から先が突き出ていた。そんな姿で涎に濡れた口を開け放し、鼻で鼾をかいていた。自由にも程がある。
銀時は窓の障子を閉めるためその横を通り過ぎるついでに、布団から突き出ている華奢な造りの少女の足を爪先を使って布団の中に押し込んだ。

神楽は自分自身を雑に扱ったが、銀時もまた神楽を雑に扱った。
それは神楽が好戦的で猛々しい、恐ろしく頑強な種族の血を受け継ぐからではない。神楽が何者であるかという事とは全く別に、単にある程度長く生活を共にしている者に対してその存在に慣れ、丁重でなくなったというそれだけの事だった。

丁重ではないが配慮がないわけではない。
窓の障子を閉めた銀時はそのまま和室から出た。
隣室の、神楽の寝床になっている押入れの下段では大きすぎる犬が寝ていた。
尻から下が押入れから完全にはみ出していた。見るからに窮屈そうだったが犬というものはこれ位が安心するらしい。
銀時は犬の尻尾を踏まないように気を付けながら肌布団を引っ張り出し、和室に戻って万歳をしている神楽の上にかけた。かけ方はやはり無造作で雑だった。
つまり、丁重にするなどという気を遣わずともそうした配慮が出来る程度に、その存在に慣れている。
 


あと10分余りで時計は8時を示す。 
8時から用事があった。しかし目が覚めたのは偶然だ。
神楽が銀時の手を枕にせず銀時が間抜けな悪夢に魘されて目覚めていなければ、寝過ごしていた。用事を忘れていたわけではないが、寝過ごしたなら寝過ごしたでいいと思っていた。その程度の用事だ。

その程度でも用事は用事であるので、銀時は鴨居にかけてあった上着を取り羽織った。
冬はそろそろ折り返しにかかっていたが、寒さを感じなくなるのはまだ当分先であろうと思われた。暖房が切れていれば空気は冷たく、室内であっても吐く息がうっすら白い霧になった。
上着を羽織った襟元が心許なかったので、電気の点いていない居間のソファの背に置いてあったマフラーを拾って巻き付ける。マフラーは新八が忘れて行ったものだったが、暗がりで手に取ったせいで銀時は自分のものと間違えた。

戸外へ出た。
玄関の引き戸を後ろ手に閉めた銀時の目より少し上の高さで、半月が白々と照っていた。夜の空は半月に照らされ青いほどで、雲一つなかった。
晴れていると余計に寒い。
銀時は着込んだ上着のポケットに両手を突っ込み、肩を竦めて前のめりに階段を下り始めた。

その腰には、木刀がなかった。




*






何気なく首を掻いた時に、新八は自分がマフラーを巻いていない事に気付いた。
忘れてきたのだ、と思い小さく舌打ちした。

明日は休みなので万事屋には行かない。明日丸一日と、明後日の出勤の際にマフラーがないのは心細かった。
ついさっき、帰ってくる時には首を剥き出しにして平気だったものが、ないと意識した途端に先の行動に対しての不自由を感じた。
若干ではあるが癇症の気がある新八は、一旦気になった事を看過しにくい。

選択肢は、取りに戻る、この一つしかなかった。
面倒だが面倒だという思いに流されるのは性分が許さない。難儀な事であるが性分なのだから仕方がなかった。
自宅は既に目と鼻の先だったが、新八は体の向きを180度変え、来た方向を戻り始めた。



新八が万事屋を出ようとした時、銀時は炬燵で寝ていた。
神楽は道端での子供っぽい遊びが盛り上がっているのか、日が沈んでだいぶ経つというのにまだ戻っていなかった。夕食の当番である事は忘れているか、忘れた事にしているのだろう。神楽は新八と違って、得な性分に生まれ付いている。

新八は帰宅する旨を告げるために銀時を起こすか起こすまいか、眠る銀時の頭の横に立ったままで少し迷った。あまりによく寝ていたから気の毒に思ったのもあるが、それよりも、銀時にあまり接触したくないという思いがあるからだった。

先日、新八は銀時の非常に個人的な行動に介入した。
銀時は介入された事を知らない筈だ。新八は銀時の知らないところで勝手に介入した。持ち前の癇症が、新八に銀時の行動を看過させなかった。
つくづく、自分は損な性分に出来ていると新八は思った。

介入した事自体に後悔はない。そうしなければしないで、しなかった事を後悔しただろうから。ただ、介入した事で新八は以前と同じように何の抵抗もなく銀時に接触する事が難しくなっていた。
銀時に対して幻滅でもすればよかったのか。そうして自分を幻滅させた事に怒りを覚えればよかったのか。

しかし新八の内心には幻滅も怒りも生じなかった。

生じたのは、どうしたわけか、優越感だった。

誰に対する優越感なのか。
神楽か、その他か。
誰にであれ、優越感を覚える自分は何かがおかしいと思えた。そもそも、どういう理由で生じる優越感なのかすら不明だった。

銀時に対する自分のおかしさを意識しながら彼に接触するのは、酷く困難を伴う作業だった。

「銀さん。僕、帰りますから」

俯いて銀時を見下ろし、新八は銀時に声をかけた。
結局、面倒で困難でも、すべきだと思っている事はしないと気が済まない。
銀時は閉じていた瞼を重く開け、目玉だけを鈍く動かし新八に向けた。

「…気をつけてな」

銀時は半分眠りながらどうにかそれだけを言い、すぐまた目を閉じた。
閉じた目の上、右眉の上からこめかみに向かって斜めに、赤く引き攣れた傷跡が確認できた。傷の周りは青く鬱血していた。
新八は傷が出来た経緯を知っている。髪に半ば隠れているそれを見逃さなかったのはそのためだった。

傷を見た瞬間、新八はまた正体不明の優越感を覚えた。そして、そのような自分を持て余した。



通りに面した神社の鳥居の脇には厄年を列挙する看板が立ててあった。日没をとうに過ぎているために書き示された内容は読み取れない。
その前で新八は軽く立ち止まった。車が行き交う通りを挟んだ、向こうの歩道によく知った人影を見たからである。

人影は道に沿って立ち並ぶ雑多な店舗から漏れる明かりに照らされ、特徴的な制服だけでなく顔形まではっきり見て取れた。
土方は供も連れず一人だった。警らであれば複数で歩くのが通常であるから、別の用事なのだろう。

新八は以前から土方にどことない親しみを覚えていた。
公的な人斬り集団の要職にある土方と新八とでは比べられる所が無いほど異なっているが、たった一つ似通った点があった。新八が土方に親しみを覚えるのはそのせいだ。
親しみというよりは、同情という方が近いかもしれない。

おそらくは土方も、軽い癇症持ちだ。

向こうの歩道を行く土方から、新八は早々に視線を外した。
視線を投げる者の存在に気付くくらいの事は土方なら簡単にするだろうと思ったからだ。

新八は、銀時に接触したくないように、土方とも接触したくなかった。









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