14
神楽が自分の体の上にうつ伏せになって寝ている。
顎の下にある頭のてっぺんに鼻先をこっそり埋めると、物干しにかけた洗濯物や原っぱに似た匂いがする。
みぞおちに押し付けられた神楽の胸は微かだが膨らんでいて、その二つの隆起を感じながら銀時は、いい加減あまりにくっ付いてくるのを止めさせなければ、と思った。
妹だとか娘だとか、そういうものはこんな感じなのだろうか、と肉親のない銀時は日光の匂いがするつむじに鼻を付けながら想像した。兄だとか父だとかはこんな気持ちになるものだろうか。
だが普通、妹や娘の兄や父は身体を金に換えたりはしない。
「銀ちゃん」
「んん」
「銀ちゃんは、どうしてそんな事するアルか」
つけっぱなしのテレビの音が聞こえる居間でのだらけた午睡の合間、銀時の上に臥した神楽が半分寝ながら言った。
「…そんな事?」
「うん。…そんな事」
銀時も半分寝ている。神楽の発言は夢の続きのように現実感がなかった。
「新八か」
浅い微睡みの中で銀時が言った。
「新八?誰アルかそれ」
二人ともが寝言を言うような口調で、しかし話す内容は夢などではなく、血が滲むような現実のものだ。
「俺が嫌になんないのか」
「別に。なんないアル」
「…畜生」
話しながら銀時は上に載る神楽の感触に違和感を覚え始めていた。細く柔らかい体が、まるで強力な毒を染み込ませたもののように自分に触れてくる。或いは、自分の毒が柔らかい神楽に染みていくようだった。
銀時は自分の上に乗る神楽を退かそうと神楽の肩を押した。
しかし神楽は夜兎だ。純粋な腕力だけなら銀時よりずっと強い。神楽はその腕力で、退かそうとする銀時の体にしがみついた。脇腹に神楽の指が痛いほど食い込んだ。
「私ネ。銀ちゃんがダメでも、バカでも、どんなに呆れても、それでも銀ちゃんがいいヨ」
「…そらどうも」
「銀ちゃんがいいんだヨ。銀ちゃんじゃないとダメなんだヨ」
銀時は上手く喋る事が出来ない。
微睡みのせいではなく、舌が痺れ唇が震えた。
「神楽」
うまく回らない口で銀時が言う。
「何アルか」
「降りろ」
「イヤ」
銀時の縺れる口が発する命令など、神楽はききはしない。
何だとも特定できない感情だった。
知られたという絶望だとも、新八の裏切りに対する怒りだとも、神楽の愛情に対する哀しみだとも、自分に対する嫌悪感だとも特定出来なかった。おそらくは、それら全てが混ざり合って、何とも言えない感情になっている。
何だとも言えないが、耐え難いものである事に間違いはない。銀時の体の上に載る軽い体が、この世の何よりも重い。
銀時は、神楽を押しのけようとしていた腕を下ろした。
諦めたのだ。
「止めろって言わないのか」
新八があれを知った時は半狂乱になった。しかし神楽は変わらぬ寝ぼけたような口調で
「言わないアル」
と言った。
「どうして」
理解できない銀時は、自分の半分程しか生きていない少女に質問した。
銀時の半分しか生きていない少女は銀時の上に臥して脇腹に指を食い込ませたまま
「だって、止める時がきたら勝手に止めるダロ。そうでない時は何言ったって止めないダロ。お前はそういう人間ダロ。だから私は、別に言わないヨ」
と答えた。
銀時はその通りだと思った。
神楽は、新八には自分が銀時にバラした事は伏せておいてくれ、と言った。
「そこの窓から」
と目線で窓を示し
「突き飛ばして、知ってる事を教えなきゃ落とすって、私を独りにするなって泣いたネ。泣いたら、あいつは喋った。私、新八を脅迫したんだヨ」
新八は銀時を脅迫した。しかし新八も神楽に脅迫された。
ものの報いはめぐりめぐって我が身に返る。
だがそれならば、と銀時は思った。
全ての原因を作ったはずの俺の報いはどこにいったのだろう。
「私、新八に嫌われたくない。銀ちゃんにも嫌われたくない。なのに私、新八を窓から突き飛ばしたアル。銀ちゃんが私に知られたくないって思ってる事を知っちゃったアル」
神楽は、私を嫌わないで、と言った。
独りになるのは嫌だ、と言った。
「お前さ」
銀時は腕を持ち上げ、毒を含んだ体で、毒を含んだ神楽の体を緩く抱いた。
「お前はやっぱ女の子だな」
と言って、掌で神楽の襟足を撫でた。そこはまるで、小鳥の胸のように小さく、柔らかく儚く温かだった。
「お前が強いのは女の子だからかな」
女で、子供だからなのだろうか。自分とは、異質の生き物だからなのだろうか。
「私、弱虫ヨ。怖くて悲しくて仕方ないんだヨ」
「それを口に出せるのは強いからだ」
嫌わないでほしい、独りは嫌なのだと神楽は言った。はっきりと、誤魔化さずに。
神楽は、自分とは違う。
「銀ちゃんは口に出せないアルか」
神楽が言った。
銀時は深く息を吸い、吐いてから言った。
「出せねぇ」
「どうして出せないアルか」
「…もう下りろ。重てぇ」
「銀ちゃん」
下りようとしない神楽に銀時は諦め、彼女を撫でていた手をソファの横に落とし目を閉じた。
「口に出すと、本当になっちまうだろ」
「口に出さなくても、本当の事は本当アル」
神楽の中には『本当の事』という、あるがままの事実しか存在しない。
事実が事実になるから口に出さないとは、一体どういうことなのか。口に出そうが出すまいが、事実は事実だ。
単純な神楽には、銀時の言う事がわからなかった。
「だから、…本当の事が本当になるからだ」
銀時の言う事がわからない。
銀時の爪が床の板張りに擦れる音を聞きながら、神楽も目を閉じた。
胸の下には、呼吸で上下する銀時の胸があった。神楽は上下するそれに、自分の呼吸を合わせた。
神楽は夢を見た。
自動販売機から、お釣りを取り出そうとする夢だった。
お釣りの取り出し口は硬くて狭く、望む小銭はなかなか取り出せなかった。
自動販売機で自分が何を買ったのかは覚えていない。
短い夢から醒めると、神楽の指は寝ている銀時の半開きの口に突っ込まれていた。
*
新八は、神楽が銀時に話した事を知らない。
「神楽ちゃんには、やくざの喧嘩に巻き込まれたって言っときましたから。良かったですね、素行が悪くて。こういう時にすぐ納得して貰える」
『入院された患者様へ』という冊子を捲っている新八はすっかり普段の調子を取り戻していて、普段どおりに憎たらしかった。
眼鏡のない目を細めて冊子を読む新八を見ながら銀時は、そういえばこいつの視力はどれ位なんだろう、と思った。
見えているのかいないのか。見えているなら、一体どれだけ見えているのか。
「売店は地下にあるみたいですよ。コアラのマーチが食いたいなら、自分で買いに行って下さい」
「おなかを鉄砲で撃たれた人にそういう事言うか、普通」
「足は無事だろうが。僕は足を撃った覚えはないですよ」
でかい目を見えにくそうに細めているせいで、新八の人相は悪く見えた。そのような顔に嫌味な薄笑いを浮かべて冊子を見ている。
何という可愛くなさ。
銀時は溜め息を吐いた。
今、知らない事があるのは、三人の中で新八だけだ。
一番最初に知った新八が、結局、最も知らない者になっている。
新八は銀時を裏切り神楽に伝え、神楽は新八を裏切り銀時に伝えた。
ならば銀時は、神楽を裏切り神楽の行動を新八に伝えるのが、或いは順当で、フェアなのかもしれないが。
さっき銀時に札束を渡す前、新八はその内の何枚かを抜いて懐にねじ込んでいた。視界の端で銀時は目敏く見ていた。
こいつはアホだから、俺が全く気付いてないと思っているだろう。少なくない金を俺に渡して、得意になって気持ちよくなってやがるんだろう。
銀時は底意地悪い笑いをこみ上げるまま顔に浮かべた。
「見えるのか」
「ええ?何が」
「目がさ。前から思ってたんだけどよ、お前の目はお前の本体にどんくらい頼ってんだ?」
「そんなには頼ってないです。こんな冊子くらいなら読めますから。でも、あるとハッキリするから」
「ふーん。じゃあ、さっきお前が抜いた金は新しい眼鏡代にしろよ。ちょっと多いけどな」
「…見てたんか」
ぎょっとして銀時を見た新八は、顔どころか首までを赤くした。人相悪く細められていた目が、いつものようなでかいまん丸になっていた。
しょうもねぇな、と銀時は思い、そう思うと余計に可笑しくなった。
そのでかい丸は、まさしくぬいぐるみに縫い付けられた丸と同じだった。
わけのわからない生き物が内部で胎動しているとしても、こいつはぬいぐるみだ。生き物がぬいぐるみを裂いて外に出てくるまでは、ぬいぐるみなのだ。
銀時は、ぬいぐるみに言う。
「見てたね。手際が悪ぃんだよ、未熟者が」
「…畜生、見てろよ。いつか絶対ぎゃふんと言わせてやっかんな!」
しかし、銀時がぬいぐるみに話し掛けるその声は、ことごとくがぬいぐるみの中にいる生き物の胎教になるのだ。
銀時は自分で、自分を食おうとしているものを育てている。
それを承知の上で、銀時は言葉を続けた。
「眼鏡を買え。そんで目をハッキリさせろ。お前の目がボンヤリしてると困るんだ。俺も、…神楽もな」
銀時の言葉を聞いた新八は、瞬間的に、神楽は銀時に話したのだ、と悟った。
銀時は知らない顔をして、首を掻いている。
指の間から、赤い痕が見えた。今までより色が濃くなっているそれは、罪科の証拠であった今までとは意味合いが変わっている。銀時が寝ている間にこっそり新八が変えた。罪科ではない、別の何かの証拠に。
そんな部分をわざわざ掻いてみせる銀時は、或いはその事にすら気付いているのかも知れなかった。
「あんたは狡い」
自分や神楽が身を切るような思いで行った背信を、銀時は思わせぶりな発言によって匂わすだけで行った。いやらしく責任を回避しながらそれを行った。
卑怯で図々しく、100年経ってもかなわないような気がした。
「なにが狡いんだよ」
「…絶対、言わせてやるからな」
「なにを」
「ぎゃふんと言わせてやる!」
ぎゃふんと言わせ、抱いてくれとかそういう事を言わせてやる。
「出来るもんならやってみろよ」
銀時は悔しさに真っ赤になる新八を、底意地悪い顔のままで笑った。
新八は手にしていた『入院された患者様へ』を、その顔に向けて思い切り投げ付けた。
*
神楽がまずい病院食をがつがつ食っている。
新八は病室の窓の仕組みが珍しかったので調べていた。
銀時は結局新八に買って来させたコアラのマーチの空き箱を眺めていた。
新八が調べるために開けた窓の下は駐車場になっている。そこから『わっ』という悲鳴が聞こえた。悲鳴に続いて、『なんだこれ。犬か』という声がした。
「連れて来たのか」
銀時が呆れて呟いた。
神楽は病院食のトレイを持って窓際に行き、残しておいた皿の中身を窓の下にぼとぼと落とした。
犬が喜ぶ声がした。
「そろそろ帰ります。定春がお医者さんとか食っちゃったら大変ですから」
「ちゃんと寝てろヨ。看護婦さんにいやらしい事したら、腹の穴に傘突っ込んで傘開くからナ」
空恐ろしい発言をするガキどもは、いつもの通りだった。
しかしいつもの通りである事、これ以上のものはない。
銀時は、何かに執着するという事がつくづくなかった。
金や権力や、正義、そういった事に対して全く興味を持てない。些かも欲しくはなく、どうでもいいとすら思っている。そういったもののために一生懸命になる人間が理解できない。
執着をしない銀時はただ、死なないから生きているだけだ。別に悲壮感もなくそう思う。
周囲を見回すと、時にそういう自分は人としての何かが欠落しているのではないかと思う。しかし、このガキどもがそういう自分を何故かはわからないが肯定してくるものだから、肯定する者がいる以上、別に自分はそれ程おかしくはないのかもしれない、と思える。
殆ど執着というものをしない銀時を捕らえる何かしらのものがあるとすれば、自分を手放しで肯定してくれる日常、これ位のものだった。
言い方を変えれば、このつまらない日常だけが銀時を繋ぎ留めている。
銀時は病室を出て行こうとする二人の日常の背中に言った。
「もう二度としない」
日常が振り返って銀時を見た。
その視線が突き刺さるように感じられた。俄かに左の脇腹の傷が痛み、銀時は無意識にそこを押さえる。
押さえた圧力で、体の奥から溢れるように声が出た。
「ごめんな」
ついぞ聞いたことのない銀時の謝罪を聞いた二人は、銀時を見据えたまま声を揃えて言った。
「「別に」」
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