10

銀時は、知らないふりをすればよかったのだ。



することもなかったので、くだらないワイドショーを垂れ流すテレビを付けっぱなしにして袋菓子を食べる。
背中をソファの背もたれに深くずり落とさせた、だらしない姿勢で菓子を噛む新八の視界にふと銀時が入った。
先程ようやく起きてくるなり風呂場に向かった銀時は、濡れた頭にタオルをかけていた。昼間の明るく活動的な空気にはあまり似合わない、甘い湯気の匂いと湿気を漂わせている。

「来る?」

と銀時は言った。
唐突な言葉の意味がわからず、新八は菓子でいっぱいになった口をもぐもぐ動かしながら銀時を見た。

「来るのか?」

銀時は同じ言葉を繰り返した。

どこに。
という質問をしようにも、口の中が菓子でいっぱいで喋れない。
新八は口をもぐもぐさせながら、風呂上がりの銀時をぼんやりと見た。

その頸には、爪が擦った小さな傷があった。
先日、逆上して銀時の頸を締めた新八の爪が作った傷だ。

あの時、新八は売春の現場に立ち会わせろ、と銀時に要求した。

新八は口の中でいっぱいになっていた菓子を無理矢理嚥下した。乾いた菓子はやたら喉に引っ掛かった。

「…いく」

そう答えた新八を見る銀時の目が、ほんの一瞬、視線を泳がせた。



到底、まともな要求ではない。
銀時は知らないふりをする事も出来たはずだ。新八ごときの、しかも異常な要求などいつものような適当な態度で受け流し、知らない顔をする事も出来たはずだ。

しかし、銀時はそうしなかった。
新八の異常な要求に、素直ともいえる態度で応えた。素直というか馬鹿正直というか、とにかく銀時は応えた。新八に『来るか』と訊いた。

銀時は何故応えたのだろうか。
自分ごときに何を見られようと別に平気だという事なのだろうか。

やっぱり僕は、この人に馬鹿にされているのかな。

ぼんやりと銀時の後ろを歩きながら新八は思った。

「…来るなら、」

前を歩く銀時が振り返らないまま言う。

「約束しろ」

「何をです」

「お前が何を見たとしても、それはお前とは関係ない。だから、関わるな。絶対に」

「ああ、はい。わかりました」

新八の返事は拍子抜けする程に素直だった。銀時が歩きながら少し振り返る。
振り返った銀時に新八が言う。

「そのかわり、銀さんも約束して下さい」

「何を」

「僕はそこで起こった事には関わらない。けど、あんたを監視してる。目に余ったら口を出す。その時はあんたは僕の言う事を聞いて下さい」

銀時が立ち止まった。

「それは、関わってんじゃねぇか」

「違います。そこで起こった事には関わらないけど、あんたには関わるって言ってんです」

「同じ事だろう」

「違います」

「…わかんねぇな」

「わかんねぇのは、あんたが馬鹿だからだ」

新八は立ち止まる銀時を追い越した。3歩程追い越した所で立ち止まる。そして、背後で自分を見詰める気配を感じながら、

「約束して下さいよ」

と言った。

「邪魔はしません。けど、あんたの行動が僕の判定に触れた時は、僕の言う通りに行動を修正して下さい」

「それは邪魔してんだろ」

「審判は口出しするけどゲームの邪魔はしないでしょう」

「お前は審判なのか」

「遊びの草野球にだって、審判がいるだろうが」

たとえ馬鹿にされていようと、ゲームにおいての審判は絶対だ。
無茶なゲームをする銀時を守る方法があるとしたら、ルールとそれを司る審判を置く事だけだ。

「俺がやる事のルールは俺が決める」

背後の銀時がにべも無く言った。

冷たい冬の名残の風が吹いて、立ち向かう新八の頬と鼻の頭を冷やした。新八は、姉のお下がりのミトンに包まれた手で寒風から顔を守った。あまり女らしくない色調の化繊で編まれたそれの毛羽立ちが、ぴりぴりと皮膚に刺さる。
新八の姉は決断力と実行力に優れ、そして頑固な人間だった。男の新八よりも姉はずっとそうだ。
姉のお下がりは、皮膚を刺したが冷えた風からは守った。
新八は、ミトンで顔を覆ったまま言った。

「…それでいい。ルールはあんただ。僕は、あんたがあんたのルールを破らないかを見張るだけだ」

銀時のルールなら誰よりもよく知っている。時に、それを見失いがちになる本人よりも余程。

新八は銀時を管理する。但しそれは銀時のルールに基づいてだ。新八のルールではない。新八は、自分のルールを違いがちな彼の番をするだけだ。

「約束してよ銀さん」

姉のミトンを通した新八の声は迷いがなく、頑固だった。
銀時が逆らえない数少ない人間である姉の物の力か、背後の銀時が溜め息を吐いたのはすぐだった。

「わかったよ。約束する」

「僕も、約束します」

新八は銀時の売春とは無関係だ。
但し、銀時が間違いそうになったら行動を正す。



結ばれた契約は堅固だったが、対立する相互の条件の境界があやふやだった。
2色の染料を水に落とした時のように、その境界は色が混ざり合っている。

少しの振動でそれは全体が混ざり合ってしまうだろう。



そして、事実、それはそうなったのだ。




*






どうして、知らないふりをしなかったんですか。

新八が小さく問う。

僕の言った事なんか知らないふりをして、もうやめたんだって嘘を吐く事もできたのに。

問われた銀時は新八よりも小さな声で答えた。

そうしたくても、出来なかった。

銀時の答えは答えになっていない。

「どうして出来なかったんですか」

少し声を張って新八が言った。
銀時は答えない。

新八はもどかしかった。
おそらく自分は核心に触れかけている。酷く苦労して手繰り寄せた縺れた糸の先のそれを、逃がしてしまいたくなかった。

「銀さん」

新八が呼んだ。

呼ばれた銀時がゆっくりと頸を曲げて新八の方を向く。
新八は自分を見る瞳の奥に、銀時の中を流れる血の色を見た。
銀時は、それとはわからない程に薄い表情で笑っていた。

「やっぱり僕を馬鹿にしてたんですか」

「違ぇよ」

銀時は薄い笑いを保持したまま言った。

「俺はさぁ、怖かったんだよ」

「怖かった?」

聞き返された銀時は、曲げていた首を戻して上を見上げた。

怖かったんだ。…多分ね。

赤い血を透かす瞳は微笑に細まっていて、そして眦が僅かに滲んでいた。




*






銀時が横向きに倒れた。

倒れた銀時は床の薄いカーペットの上で胎児の形に手足を縮め、鈍く呻いた。
下腹部を押さえた手を血が濡らしていた。瞳と同じ色のそれが銀時の体から溢れ、汚いカーペットに沁みていった。

新八は、自分が叫んだと思った。

それが意味のない音だったのか、何かの言葉だったのかは自分でもわからなかった。ただ、叫んだ、それだけを辛うじて認識した。



肩を抉られた男が傷を掌で庇いながら、壁際に這うように逃げる。前歯を失い血塗れの顔は苦痛のためだけでなく歪んでいた。

「なんで、僕は、なんで、」

目の前の子供は、世界が終わりでもしたかのような絶叫を上げた後、魂を抜かれたように突っ立っている。虚ろな口調で意味のない呟きを繰り返していた。

一時的に気が違っている。

しかもその手は未だ凶器を握っていた。
気違いに刃物。これ程恐ろしいものはない。



「…止めとけ!」

いざり寄って壁に縋るなり、男は血を吹きながら叫んだ。
痣の男が気の違ったガキに掴み掛かろうとしている。
そんな危ねぇもんに触るな。
前歯がない男の叫びは間に合わなかった。

痣の男は腿を撃ち抜かれて声を上げ、もんどり打って倒れた。狙いは正確だった。
拳銃を手にしたまま気の違ったガキの意識は、それを使う事にのみ特化されている。
床でのたうつ男の真上から、その額に正確な照準が向けられる。

かしゃ、と驚く程軽い音を立てて撃鉄が起きた。



嗜虐の性質の男が体を起こして、新八の足首を掴もうと腕を伸ばしていた。
その側頭部を包むように、掌がべったりと覆った。
掌は血塗れだった。
男の起き上がりかけた体が押しのけられる。



なんでこうなるんだろう。

僕は銀さんを大切にしたいだけなのに、なぜか、それだけの事が出来ない。
いつも間違う。いつの間にか間違っている。
間違うのはなんでだ?

眼下に、口元に殴打の痣を作った男がうずくまっている。
情けない、取るに足らない、くだらないもの。
こんなものが、自分を追い込んだ。

この街で生きる銀時は、この街で生きる者として当然の行動をした。
それで不利益を被ったこの街で生きるこの男が銀時を殺そうとし、殺そうとされた銀時は男を返り討ちにした。
命は取らなかった。それが、この街にある不文律だからだ。
銀時は金で身体を売っていた。この街ではよくある事だった。
男は金で身体を売る銀時を犯して気を晴らそうとした。
それでは収まらなかったので、新八を使って銀時を嬲った。

この痣の男。
くだらなく醜い有り様を晒すこの男。そしてくだらなく醜い有様を晒すこの街が、大切な銀時を嬲って、自分を追い込んだ。
こんなものが。
こんなもののせいで。



引き金にかかった指が力を込めかけたその瞬間、新八の襟が後ろから強く引かれた。
首が締まった新八は怒り狂った動物の声を上げ、後ろを振り返る。
同時に、引き金に指をかけたままの拳銃を素早くその方向に向けた。



「え?」

新八の開けっ放しの口が間抜けな声を漏らす。

自分が拳銃を向けた先には銀時がいた。
左側の腹から太腿までが真っ赤に濡れていた。
白い着物を濡らしているものと同じ色をした目が、新八を見ていた。

その視線は揺らぎなかった。新八の力なく萎えた脚を立て直したあの目だった。



銀さん。



凄まじい音が暗い室内に響いた。

新八の体が、床に叩き付けられた。
吹き飛んだ眼鏡が、壁にぶつかって落ちた。
口の中に血が溢れる。
衝撃のために頭蓋の中で揺れた脳が、瞬間的に目眩を起こさせた。
右手が軽い。手にしていた拳銃は少し離れて床に転がっていた。

「この、馬鹿」

銀時が、絞り出すように呟いた。
新八を張り倒したその掌は血塗れだった。
張られて痺れる頬に新八が指をやると、指先に赤くぬるつくものが付着した。

大きな涙の粒が、ぼろっ、と音でも立てそうに重たく落ちた。
銀時を仰向けに見上げる新八の目尻から、それは頬を伝う事もなく直接カーペットの上に落ち、繊維の中に吸われて消えた。

「…」

銀時は震える息を一つ吸うと、傷を押さえて身を屈ませた。

「…この、馬鹿」

苦痛に歪めた唇で繰り返す銀時の膝がゆっくりと折れた。
新八は血で粘つく口で銀時の名前を弱々しく呼んだ。
銀時は応えなかった。

深く屈ませた上体が、糸が切れたように新八の脚の上に崩れた。









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