「腕を出せ、長谷川」

悲しげな声でそう命じられる坊っちゃんが抜かれた刀もまた、この地下に充満する赤い光に染まっている。乱れた刃紋が薄い血に染まったように見えた。

「次は手首だと言ったけれど、手首じゃ到底赦せない」

肩から下。腕を全部。
庭鋏じゃあ切れないね。…次は何と言って誤魔化そうか、ねえ長谷川。

「さすがに今度は、僕に切られたと言うかい?」

暴虐な主人は、血に染まったような抜き身で床に座り込む自分の肩口を撫で、涙で潤んだ大きな目を微かに笑わせた。

「………」

答えられず、ただ無様に震えるだけの体は少しも自由にならなかった。指の一本たりともが、痺れて自由にならない。不思議なことに、斬られ、無くなったはずの人差し指にまで痺れを感じた。

「あなたは、…あなたは何をなさろうとしているんです。その、汚らわしい白痴に何を唆されたと言うんです」

喘いだ喉がようやく絞り出した言葉に坊っちゃんは小首を傾げられた。仕草は小鳥のように愛らしいが、その手が握る刀は人の腕を切り落とそうとしている。

「唆す?僕は別に唆されたりなどしていないよ。僕はただ、自分のものを正しく統治しようというだけだ。それが、主人たる者の務めだと、このまえ一兄様が仰っていたからね」

敬愛されている従兄様のお名前を口にされる坊っちゃんの視線や口調には一分の迷いもない。

「お父様やお母様に言いたければ言うがいい。僕が得体の知れぬ男を囲って、それに狂い、お前の腕を落としたんだと言えばいい。僕はそれで腹を立てたりはしない」

「坊っちゃん、私は」

「…腹をたてたりはしないけれども、だがその時はもう、お前は僕のものじゃない」

坊っちゃんは、ご自分のなさる事、そして他者からご自分に対して向けられる愛情に、一分の迷いも疑いも持たれてはいなかった。
疑いもなく迷いもなく、他人の腕を切り落とそうとされている。

肩口を撫でていた赤い刃が、すうと天井に向けて持ち上がる。切っ先がランプの光に鈍く煌いていた。
両手で握る剣を振りかざして、坊ちゃんは

「動くと死ぬよ」

と、仰られた。




「待てよ」

声は低く、しかし確かに制止をした。
坊ちゃんが、剣を振り上げたままの姿勢で振り返るでもなく、なんですか、と応えられる。
応えられた口調は、夜の川で聞いたものと同じに、ひどく子供っぽいものだった。他ではついぞ聞くことのない、甘ったれた口調だ。

「新八。だからお前は駄目なんだ」

肘を立てて半身を起こした白痴は、坊ちゃんのお名前を馴れ馴れしく呼び捨てにした。まるで、やくざ者が情婦を呼ぶような口調で。華族の嫡男であられる坊ちゃんを、我の情婦のように。

「なにが。なにが駄目なんですか」

「詰めが、甘ぇ」

そう言ってから白痴は腕を伸ばし、布団の上に転がっている、己の指を切り落そうとした小刀を拾い投げた。
小刀は粗末な畳の上を血を落としながら少し転がり、刀を振り上げる坊ちゃんの爪先の前で止まった。

「それでやれ」

白痴は、にこりともせず言った。

「そいつは、鈍らのそれで俺の指を捻じ切ろうとした。その仕置きに、そんな切れ味のいい刀を使ってどうする。釣り合わねぇだろう」

白痴はそう言って、それからゆっくりと顔を笑いの形にした。

「でも。そんなものじゃ、腕は切れません」

「切れないじゃねぇ。切るんだ」

笑う白痴は、乱れた浴衣の裾をそのままに立ち上がった。
割れた綿布の間から覗く脹ら脛や大腿は白く、滑るように白く、まさしく地中から引きずり出した白い蛇だった。白く、湿った、奇形の蛇だ。
そして、その奇形の蛇の付け根近くにまでに、深い歯形と鬱血は及んでいる。
坊っちゃんが白い蛇にすがり、そこに歯を食い込ませる情景を思った。

「新八」

坊っちゃんの背後までを歩いた白痴は、まだか細い少年の肩に腕を回し、丸い頭の天辺にある行儀のよいつむじに口付けるようにして、またその名を呼び、そして言った。

「うまくできたら、…褒美をくれてやる」

この、蛇め。

少年を誑かす蛇は、ちぎれかけた指を坊っちゃんの肩から二の腕、そして手まで這わせ、その手が握った刀を奪った。白痴の指が動いた通りに、坊っちゃんの腕の上が血で汚れた。

「…でも」

「やれ」

命じられた坊っちゃんは、白痴に抱かれたまま操られるように踞り、白痴の血で汚れた小刀をその指に拾われた。




逃げることも、声を上げることも出来なかった。

卑しい見世物風情が、自分が大切にお守りした高貴な御曹司を誑し込んでいいようにしている。その怒りは勿論あった。
しかし、自分の身を縛るのは怒りなどではない。
ようやくわかった。この震えは、怒りでも、恐れでもない。

「新八」

白痴は、刀を手に持つ腕に坊ちゃんを抱き、耳の傍に口を寄せ、そのあたりの皮膚に唇を触れさせながら、また一度、坊ちゃんの名を呼ぶ。今度は、やくざが情婦を呼ぶ口調ではない。
あたかも、我が子を穢れない愛で導こうとする親のような声だ。

地階は赤いランプの光が作る幾層もの影が満ち、重なり合う淡い影は微かな空気の流れで揺らめいた。
影を揺らめかせる空気の流れは白痴が坊ちゃんを呼ぶ声だ。
その揺らめく影のヴェールの中で、坊ちゃんの身体は背後から白い腕に抱かれている。
まだ、この世の悲しみも喜びも知らぬひたすら清浄な子供の身体が、汚泥の底から這い出ていながらにして白い、異様に美しく白い蛇に巻かれている。

この世ならぬ光景だ、とまた思った。
深夜、小川のほとりに見たのと同じ、この世ならぬ、美しい悪夢のような光景だ。
その光景が眼前にあって、そして、自分のような凡百の者を供物として要求している。

自分を縛るのは、怒りなどではない。ましてや恐れでも。
自分を縛るのは、美しい悪夢に供物として選ばれた事の、歪んだ誇りと被虐的な歓びだった。




まるでそれを望むかのように差し出す自分の肩に、坊ちゃんが鈍った小刀を乗せられた。
着物越しに刃物の金気を感じ、殆ど性感に近い震えが走る。

「切り落とせ」

白痴が、腕に抱く少年に命じた。
白痴が握ったままの白刃は坊ちゃんのすぐ喉元にある。

瞬間、肩に焼けるような感覚があった。
焼けるような苦痛は、そのまま快楽だった。下履きの中で明らかに興奮している自分を感じる。
呻き声を上げ、しかし、差し出した肩を引くなどということは、思い付きもしなかった。
卑しく美しい蛇と清らかで暴虐な少年に片腕を捧げる。その歓びに勝るものなどないように思えた。




ふいに痛みが去った。

いつの間にか閉じていた目を開くと、坊ちゃんが両手をぶら下げて呆然と立っておられた。その足元に、柄までが血に塗れた小刀が落ちていた。
坊ちゃんの長い睫毛が、いっぱいの涙を溜めている。

「できない」

と、普通の少年に戻られた声で坊ちゃんは呟かれた。

「できないよ。怖い」

弱々しい声で泣かれ、そして皮膚の間近にある刃物を恐れる様子もなく、自らを抱く白痴を振り返られた。

「怖い」

抱かれたまま身を捩らせ、身体の正面から白痴に抱きつくと、か細い悲鳴を上げられる。

「怖い、怖いんです」

二人を前に、魂を抜かれたように座り込む。
小刀が抉った肩が、ようやく真っ当な痛みを訴え始めた。掌でそこを押さえ、白痴と坊ちゃんを見上げた。

白痴は首に抱き付く坊ちゃんの頭を掌で覆い、ちぎれかけた指で真っ直ぐな髪を優しく撫でた。坊ちゃんのさらさらした髪が、血に濡れて束になるのが見えた。

「許して」

坊ちゃんは涙に混ぜてそう言われた。

「そうか」

白痴は、慈愛に満ちた声で応え、坊ちゃんの髪を撫でている。

「…許してくれますか?」

他者から自らに対して向けられる愛情に、一分の疑いも持たないはずの少年の声は不安に掠れていた。

「ああ」

短い白痴の声が言い終わるのを待たず、坊ちゃんは首を上げ、爪先立ち、白痴の口を吸った。

白痴の指が開き、握っていた刀の柄を離した。刀は微かな音を立てて薄い畳に突き立ち、それからゆっくりと傾いで畳の上に落ちた。
空いた手を白痴は爪先立つ坊ちゃんの背中に腕を回し、その身体を抱え上げるようにする。坊ちゃんはそれに応えてますます白痴に抱き付かれた。
見上げる自分の目に、合わさった唇の合間に濡れた舌が絡んでいるのが映った。

白痴がゆっくりと膝を折る。重力に従って腰を薄い畳の上に落とした白痴の前面に被さるように、坊ちゃんが膝を付かれた。
唇は合わさったまま、坊ちゃんの喉が嬰児が乳を吸うような音を立てた。
自分の座り込んで曲がった脚のほんの一尺先に、白痴と坊ちゃんの、合わせて四つの足がある。その、ほんの一尺の距離を横たわる抜き身の真剣が断絶している。

「ア」

女のような声を上げた白痴の喉の下で、坊ちゃんの形の良い歯が、白い胸に深く喰い込んでいた。

「…あんたは、僕のだ」

坊ちゃんが白痴の胸に歯を喰い込ませたまま強く仰った。
その言葉を聞いた白痴は、深く笑い、そして、うつけのように座り込む自分に一瞬だけ視線をくれると

「俺はお前のだ、新八」

と囁き、坊ちゃんの手を取ると、穢れを知らぬそれを白い大腿の付け根に導いた。
指を白痴の大腿に触れさせた坊ちゃんは、うっとりとした溜息を吐かれた。

赤い灯りに淡い影が層を成す地階で、憑かれたように見守る自分の前、白痴は触れさせる少年の掌に喉を晒して、何度も震える声を上げていた。




*





憑かれてしまったのだ、自分は。
あの蛇に、蛇に狂わされている坊ちゃんに、あの異様な二人の悪夢に憑かれてしまった。
いずれ腕と言わず首をも落とされるかも知れない。
しかし、それでもいいとすら思える。

坊ちゃんは、あの地階から地上に上がれば何事もなかったかのように大人しい少年に戻り、屋敷の中で本などを読まれている。
赤い光が充満した地階で白い男に行っていた事などなかった事だと言わんばかりに、屋敷に遊びに来た姉君のご学友に挨拶をされ顔を真っ赤にしたりされている。
自分も、あの夜の川で、地階で見た事などはなかった事だと言わんばかりに、大人しい少年の従者として振る舞った。

あの一振りの刀が一体何であるのか。
あの悪夢どもが一体何をするつもりなのか。

わかりはしなかったが、心はもう決まっていた。
自分はあの悪夢どもの供物になる。
誤った道を進む坊ちゃんを正してさし上げること、恩義あるこの家に潜む得体の知れぬものを排除すること、そうしたまともな判断に、自分の劣情が勝った。
ただ、それだけの事だ。




そうしているうち、事件は突然起こった。

あの見世物小屋が、焼けたのだ。













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