※(チャコさんからのお願い)今更かもしれませんが、暴力表現が苦手な方は閲覧しないでください







長持の縁に手をかけて、押す。長持の底と蔵の床が擦れ乾いた音を立てる。
地階への入り口は、さほどの努力も要さずに姿を現した。
入り口の蓋になっている嵌め板の切れ目を、その脇に立って見下ろした。

あれが何なのかはわからない。
だが少なくとも、俺が育てていたあの子はただの子供だったのだ。
それがどうだ。あれをここに運び入れてからというものの、あの子は。
…あれは良くないものだ。
白痴のふりなどをして一体何を企んでいるものか、知った事ではないが、あれをここに運んだのは間違いだった。

嵌め板を持ち上げて外す。現れた入り口から伺うと、下は先日と同じようにランプの赤い光が暗く満ちていた。
軋む梯子をゆっくりと踏み、降りる。畳や調度を照らす暗く赤い光に揺らぎはなく、何かがいる気配はない。
ないが、いるのだ。
何もできぬ何もわからぬ呈を装って、発する気配すら白痴に似せてそこにいるのだ。
まるで、穴に潜んで何かを呑むための機を伺う蛇のように。

「いるんだろうが、そこに」

梯子を降りつつ声を上げるが応答はない。構わず頼りない足場を伝って梯子を降り切り、赤く暗い地階を見回す。
薄い畳、簡単な調度、布団。子供が悪戯で設えたそれら。
幾重にも重なる影に塗られたそれらの奥、柳行李の隣にそれはいた。両脚を前に投げ出し、両手は体の脇に投げ出し、首を折って半ば俯き、置かれた物共のひとつであるかのような、打ち捨てられた人形であるかのような佇まいでそれはいた。

まるで意思があるとも思われぬ素振りだが、あの夜に自分は確かにこれの声を聞いた。
甘える坊ちゃんの問いにこれは確かに応えていた。剣呑な、それこそ蛇のような笑いを浮かべながら、坊ちゃんを喜ばせる言葉を選んで声にしていた。

足早に床を鳴らして近付き、俯いた後ろ頭を見下ろす。

「お前は何を企んでいる」

問うた言葉にも白痴は首を折って脱力したまま動かなかった。

「人形のふりなど止めたらどうだ?単純な子供を騙して、お前は何をしようとしている」

俯けた首を髪を掴んで仰向かせる。
上を向いた赤い目は焦点が合っておらず何も見ていない。意思などない、この異形の内部にはただ空虚だけが満ちているのだと表明するかのような表情だ。先日に、脚を広げてその間を犯してやった時とそのまま同じ様子だった。

俄かに、断ち切られて短くなってしまった指が疼く。
こいつは、白痴の素振りで犯されながら、溺れる自分を白痴などではない蛇の目で観察していたのだ。主人に対する背信を陰で行う自分を、面白く眺めていやがったのだ。

腹の底から激昂が湧き上がり、千切れた指のある手を振り上げてその頬を打った。
白痴は抵抗するでもなく頬を打たれ、上体を倒して物のように床に転がった。その目線は何に留まる事もなく、ただ倒れる体に従って同じように移動した。
転がった白痴の後ろ襟を掴み、そのまま布団の上まで引き摺る。それでも白痴は脱力したまま全く動かず、そんなものを引き摺る感覚は米袋でも運んでいるかのようだった。

「いつまで芝居を続けるつもりだ」

白痴は引き摺られてきた形のまま布団の上に俯せ、身動きもしない。
再び髪を掴んで布団に埋もれた顔を上げさせる。覗き込んだ顔にやはり表情はない。目は何も見ていない。
その何も見ない目の前に、力の入っていない白痴の手を持ち上げて置いてやる。

「…続けられるのなら続けてみるがいい」

白痴の指は白く、しかし形は骨が太く関節が張っている。
これは、何もできぬものの指の形ではない。何らかの目的のために動き、そしてその目的のために変形した、そういう指だ。これは、間違いなくかつて『何か』を行ってきたものの形だ。
こんな指を持つ人間が、無力な白痴などであるものか。

何も見ない目の前に置いてやった手から親指と中指を掴んで分け、人差し指を独立させる。
そして、腰のベルトに差し込んでいた庭仕事に使う小刀を抜き出して、独立させた人差し指の第二関節に刃を当てた。
庭木の枝を落とすのに大分使ったものだ。相当に鈍っているだろう。真剣は一瞬で断ち切ったが、果たしてこれだとどれだけ手間がかかるのか。

指に粗造な刃物を押し当てられた白痴はしかし、やはり何の反応も返さなかった。
恐怖を表すでもなく、手足を眠るように脱力させ、己の指が落とされようとする様子を何も見ない目にただ映していた。
脅しだとでも思っているのか。



白々しい芝居を続ける白痴の指に押し当てた刃物に、迷わず垂直の力を加えた。




*





これは、良くないものだ。
何かはわからぬが良くないものだ。と、そう思っていた。
だが、何故これが何かわからなかったのか。

これは、蛇だ。

見世物小屋の口上は何と言っていた?
『これは白蛇の祟りを受けてこのような姿に生まれた』

つまりこいつは蛇だ。
これは、蛇なのだ。




白痴は、喉の奥から絞るような音を漏らした。
布団にこぼれ出た血が染みを作る。
案の定、刃物は鈍っていた。坊ちゃんの振った真剣が一息で自分の指を断ったのとはわけが違い、鈍った刃物は目的を達する為に何度もその上を行き来しなければならなかった。

「ウ、ゥ、ア」

刃物が行き来する毎に白痴の喉が音を鳴らす。
だが、それだけだ。
指を落とそうとする刃物を払い退けるでもなく、逃げようともがくでもなく、それどころか己の指が落とされようとしている光景から目を逸らすことさえせず、ただ潰れた声だけを漏らしながら焦点の合わない赤い目を前に向けていた。

「…芝居と引き換えに指を失う気か」

「あ、ア」

表情は歪んでいる。歪んでいるが、それは単に苦痛で歪んでいる。白痴の反応は、何が起こったかもわからず受ける刺激に反射的に泣きわめくだけの、生まれたばかりの嬰児のような反応だった。刺激の元を恐れる様子はない。残酷な光景から目を逸らそうとさえしない。

「………」

果たして、まっとうな神経の人間がここまで取り繕えるものか。

しかし、ほのかに覚えた疑念には気付かないふりをした。
小刀は既に硬い物に突き当たり、後は鈍った刃に頼らない力技での切断を待っている。
刃物を握る力を込める右手の人差し指が痛みを感じる。こいつに触ったがために自分の指は切られてしまった。こんなものに触ったせいで、逆上したガキに切り落とされたのだ。

「お前のせいで」

こうなれば、芝居を止めさせる事は二の次だ。
芝居であろうとなかろうと、この、良くないものに思い知らせてやりたい。

そもそも、蛇には、指など不要だろうが。

怒りに任せ、関節を割ろうと小刀を指に抉り込ませた瞬間、声がした。



「逆恨みだぜ、長谷川さん」



声は、そのように言った。
それは、あの夜に庭のせせらぎで聞いた声と同じ声だった。
見下ろした先で、苦痛に顔を歪ませた白痴が、蛇のように笑っていた。




*





「誰の許しだ」

我に返ったのは、そのたった一言でだった。
背後から投げられた低い声は静かなくせに鋭く、意識を現実に立ち返らせるには十分だった。

「僕はお前に、それに触るなと言わなかったか?」

それ以前に、ここに立ち入るなと言ったはずだ。
坊ちゃんはそう仰って、厳しく躾けられた挙措そのままにこちらに近寄ってこられる。

「血が、こんなに」

俯せる白痴を抱えて起こし、しゃがんだ膝にその体を抱き込まれた。白痴は喉を喘がせて、抗うでもなく子供の胸に収まった。坊ちゃんは、犬や猫を愛しむのと同じやり方でその癖の強い髪を撫でられ、それから、半ば切り離されて血が止めどなく流れる指を自分の着物の袖を引っ張って包み、優しく握られた。
かわいそうに、どれだけ痛かったろう、としきりに呟かれ、何度も白痴の髪を撫でられ口付られた。

布団に尻を付いて、その様子を間近に見る自分の体は、震えが止まらなかった。
これは、何に対する震えだ。

「長谷川」

胸に抱き込んだ白痴の髪に顎までを埋めながら坊ちゃんが自分を呼ばれる。
そして仰られた。

「お前は、指だけじゃわからなかったんだね」

そう仰る坊ちゃんは、眦に涙を浮かべておいでだった。

殺される。

瞬間的にそう思ったが、だが、それよりも、この子は自分が大きくしてやった愛しい子なのだ。風邪を引けば介抱し、叱られれば慰めてさしあげた、可愛い子だ。
この子は、騙されているのだ。
この、得体の知れぬ蛇に騙され、惑わされているのだ。

幼い主人の胸で愛玩犬のように抱かれる男を指差し、叫ぶ。

「坊ちゃん。それは、白痴などではない」

「それが、何?」

自分の震える爪先のすぐ向こうで白痴を抱く坊ちゃんは、当然のように仰られた。

そう仰いながら、身動きしない白痴の髪を、肩を、愛しく撫でている。白痴の乱れた浴衣から覗いた白い肌には、無数の痣と噛み痕が散っている。

「夜、川で、それが口をきいているのを聞きました。それは、人並みに、喋っていた。坊ちゃんと話をしていた。そして、現に今、私に」

「…ねえ、長谷川。これの頭がまっとうかそうでないかは、重要じゃないんだ。お前は、僕のものに傷をつけたんだよ。二度と触るなと言ったにも関わらず、それを破って、あまつさえ指を切り落とそうとした」

この前、次にやったら手首を貰う、と言った事は覚えているな?

そう仰った坊ちゃんが白痴の体を布団の上に丁寧に横たえられ、そして立ち上がられた。
横たえられた白痴は、横たえられた形のままで天井を見上げ、動かない。動かないが、その口元は微かに笑っている。

「…そいつは蛇です。迷信はお嫌いかもしれませんが、あの口上は嘘ではなかった。それは、蛇だ。何かを企んで、子供のあなたを騙している」

立ち上がった坊ちゃんは、やはり行儀のよい乱れぬ足さばきで二三歩を歩かれ、そして柳行李の前に止まると、身を屈めてその裏に手を伸ばされた。

「迷信は嫌いだ。それに、その事も、今は関係がない」

細い少年の腕が行李の裏から掴み出したのは、先日に自分の指を断った、そしてこの白痴のために持ち出された、あの刀だった。












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