玄関マットを踏むように、或いは歩道の縁石を踏むようにまるで何でもなく銀時の素足が踏んだのは、倒れて天井を向いた男の額だった。
あっという間に叩き伏せられた3人の男達はばらばらに床に転がった。あまりに呆気なかった。

新八は部屋の隅に避難して、膝を抱えて座りその様子を見守った。
銀時は蹂躙される者でなく、蹂躙する者であるのが相応しい。たとえどれだけ卑しい事をしようと、他人に下るのは銀時に似合わない。汚泥にまみれた顔を不遜に威張らせて、偉そうにしているのが相応しいのだ。

わかったか、アホ共。



「どうしたよ?らしくなく調子に乗ったんじゃねえの?」

自分の頬を繰り返し張って勃起していた男の額を道端の縁石代わりにした銀時が、眼前に蹲る前歯を折られた男に言った。男は血だらけの口を掌で押さえている。その手指の間から、濁った血がぼとぼと滴っていた。

「てめえは、へったくそでちんこが無駄にでけぇ以外、払いはいいしマナーは弁えるし結構良い客だったのによ」

ガッカリしたぜ、と銀時はさしてガッカリした様子もなく呟き、男の額に載せた素足を退け、退けるなり踵で強かに蹴った。

「この、ろくでもないお友達にうっかり同調しちゃったか?」

「てめえがそんなもん連れて歩くのが悪ぃ」

前歯のない男の発音は若干不明瞭だ。銀時は獰猛な犬のように眉間と鼻の横に皺を寄せ、

「ああ?!聞こえねぇよ!はっきり喋れ!」

と吐き捨てた。

「…売りもんじゃねえなら、連れて歩くな。気になって仕方ねぇだろうが」

男は、セックスはへたくそだが肝は据わっているらしい。不機嫌があからさまな銀時に、ごくごく正論に近い反論をした。
その反論を銀時は鼻で笑い飛ばす。

「ホテトル嬢が連れてる犬に勃起するのはてめえが変態だからだ。ホテトル嬢も犬も悪くねぇやな」

今日はよく犬扱いされる日だと思う。新八は、わん、とでも鳴いてみたくなった。

「ホテトルだ?こんな暴力ホテトルがあってたまっか」

ある。
但し、このホテトルはホテトル嬢とヤクザが同一人物だ。
だがそれを重々わかって銀時を買っていた男に、それに関して文句を言う権利はない。



「なんにせよ、お客さん」

銀時が細かい血飛沫が点々とする木刀を持ち上げ、床と水平に一振りする。壁に血が飛んで、元から染みだらけの壁紙に新しい模様が付いた。

新八はワクワクしていた。
ほんの今まで銀時に触れていたせいで上擦る呼吸をあからさまに、壁に付着した染みに胸を躍らせる。
先程見た銀時の目は怒りでぎらついていた。普段、行動のみならず感情まで緩いような銀時が、滅多に見せない怒りを見せた。
本気で怒った銀時がこいつらにどう思い知らせるのか、それを思うとワクワクしてしょうがなかった。

新八の胸の内にあった銀時に対する感情はこの上なく大切なものだ。
こいつらは、新八も、そしておそらくは銀時もが知っていながら知らないふりをしてきたそれを勝手に引っ張り出して晒し、あろうことか見せ物扱いした。
自分も銀時も見た事がなかったそれを、笑いながら見たのだ。

ちょっと木刀の先で撫でられただけで許されるはずがない。許されるはずがないし、許されるべきではない。
新八はこちらに背を向ける銀時を見た。大いなる期待を持って続く言葉を待ったが、次の瞬間、新八は耳を疑った。



「てめえらが調子乗ったせいで過剰になった分、その分のサービス料を払え」



銀時がそんな風に言ったからだ。




*






今、銀時は何を言った。

銀時に触れた事、その怒りを目の当たりにした事、更には報復の期待で否応なく上がっていた体温が急激に下がる。首筋に悪寒が走った。
新八は呆然とした。
たった今、深くわかり合えていた銀時が突然、遠いところにいる他人になってしまったように感じられた。悪寒が立て続けに走り、膝を抱える腕に鳥肌が立った。

銀時は、この愚か者共の行いの代償に金を請求した。
金などという薄っぺらい口実で許してしまうつもりか。ろくに思い知らせる事もなく、ほんのちょっと木刀で撫でてやった、ただそれだけで許してしまうつもりか。
これは、この街でありふれた儀礼的な挨拶ではない。形だけ整えて、なかった事にしてしまえるような、些細ないざこざではない。
自分も銀時も見た事がなかったものを勝手に見世物にして、笑ったのだ。許せない。

少なくとも新八はそう思っている。なのに、銀時はそう思っていないのか。銀時にとってこれは、形だけ整えればなかった事に出来るような、そんな些細なものなのか。

まただ、と新八は思った。
僕はまた、裏切られた。



座る新八の爪先の向こうに、痣の男がうつ伏せに倒れている。背中のシャツがめくれ、裸の背中と腰が無様に露出していた。
その腰に、黒い革製の何かが見える。
先日、路地裏で銀時を撃とうとした銃。

黒い革は、それが収められたホルスターだった。




*






「何言ってんだ」

響いた低く抑えられた声に、銀時が振り返った。

「ふざけるな。金で、なかった事にする気か」

新八の口調はいつになく攻撃的だ。

「どういう意味だ」

新八は部屋の角、壁と壁の作る直角に体を入れて座り、膝を抱えている。銀時を見上げたためにずり落ちかけた眼鏡を少し俯いて直す。
そして首を俯けたまま、変わらぬ低い声で続けた。

「…あんた、僕まで売る気ですか」

銀時が片方だけ眉を上げた。



「これは、あんたの商売とは関係ない。僕が舐められたんだから、僕の問題です。それをあんたが勝手に金で解決するのはおかしい」

実際には銀時も舐められたのだ。だが、銀時がその責任の追及権を放棄するというのなら、もういい。勝手にすればいい。
今までと同じだ。銀さんは勝手にするし、僕も勝手にする。

新八は今まで、銀時が害されるのを待つだけだった。あくまでも新八は傍観者の立場だったからだ。
だが今回は違う。強引に引っ張り込まれたにしろ、傍観者でなく直接的な関係者になったのだ。黙る必要はない。堂々と、自分の意見を述べられる。

「それとも、どうあっても僕を売りたいんですか」

銀時が押し黙った。

座り込んで立てた膝を抱え、淡々と述べる新八は薄く笑った。
『勝った』と思ったのだ。

銀時の身売りに付き添うなどというクソッタレなこの状況にであり、何よりこの状況を作り出した銀時本人に、勝った、と思った。
それは酷い快感だった。



「おじさん」

俯いたまま、新八は前歯の折れた男に呼びかける。

「殴ってごめんなさい」

「新八」

銀時の声が、微かに揺れていた。新八に、自分を売るのか、と問われた事に動揺している。
軽々しく不用意な事を言うのが悪い。

「うるさい。黙ってろ」

その軽い口をそれ以上開くな。

銀時に無礼を働いた責任を追及する気は銀時にはないらしい。だから、銀時自身の分はもういい。
これは、自分の分だ。
新八は今まで自分の事など考えた事はなかった。なかったのだ、という事に今更気付いた。
銀時が害される事は、銀時自身の損害だとばかり思っていた。だが、あの男は言ったのだ。『お前は、あの淫売に惚れている』と。
つまり、あの淫売が受ける損害は、あの淫売に惚れているらしい自分の損害にもなるではないか。自分のものが受けた損害は自分のものだ。
そして、愚かなあいつらは僕の身分を傍観者から当事者に昇格させた。

僕は僕の主張をする。
もう、銀時にも口を挟む余地は無い。



「…銀さんはあんな事言ったけど、いいですから。お金はいりません」

新八はゆっくりと立ち上がった。
目の前にあった、銀時の木刀に打たれて倒れている痣の男の体を跨ぎ越した。
呆然と立つ銀時の前に進み、足を止める。
くしゃくしゃになった髪を指で梳いて整え、大きく開いた胸元を左右の襟をきっちり寄せて隠してやった。

「すいません、おじさん。帯を取って下さい」

銀時は腑抜けたようにされるままだった。男も同じ様子だ。
言う通り差し出された帯を、新八は銀時の腰に巻き付けた。帯は銀時の腰回りを何周かし、そして巻き付ける度に、最初に銀時の腰から木刀を引き抜いた時と同じやけに乾いた音を立てた。

ぐっ、と殊更きつく帯を締められた銀時が表情を歪めるが、新八は構わず、きつく締めたまま銀時の腰の後ろに両腕を回した。回しながら向き合う体を密着させ、半ば抱くような形で新八は銀時の腰の後ろで帯を結んだ。

帯を結いながら密着した身体の前面に、銀時の体温と鼓動、呼吸が直に伝わってきた。深い慈しみと幸福を感じて新八は溜息を吐いた。
これらが、僕の思いを完全する。
僕の中の生まれながらに欠けていた部分に、これらは誂えたようにしっかり嵌まり込む。さっき口の中に滑り込んできた舌の形や動きが、嵌まり込むという事を確かに証明した。

「お金はいりません」

銀時の胸に額を付け、新八は幸福感にうっとりしながら言った。

「そのかわり」

新八は抱き締める腕を返して銀時を突き飛ばした。
銀時は驚く程簡単にバランスを崩し、床に尻を付いた。

「お前ら全員、死んで詫びろ」

新八は倒れた痣の男の体を探って奪っていた拳銃を隠していた襟元から引きずり出した。

胸の内にあった銀時に対する感情はこの上なく大切なものだ。自分の欠けた部分に嵌まり込んで自分を完全する、自分の一部だ。

それを見せ物扱いされた。
自分も銀時も見た事がなかったそれを笑いながら見た者を、生かしておくわけにはいかなかった。

銀時がやらないのなら自分がやる。




*






「馬鹿!止めろ!」

床に尻を付いた銀時が叫ぶ。

銀時の叫び声に被さるように、痣の男が新八の背後からその両脇を羽交い締めていた。いつ目を覚ましたのか、羽交い絞められた新八は舌打ちした。
男は羽交い絞めながら銃を握る新八の腕を掴んだ。

「…使い方も知らねぇガキが、持つもんじゃねえ」

「あの時あんたが撃った弾は、銀さんの着物を焦がしただけだった。知ってても使えなかったら一緒だろ」

「口の減らないガキだ」

男に掴み上げられた腕が痺れる。腕力の差は明らかだった。
銃把を握る指が緩み、揉み合う両者の足元に重たい鉄の固まりが落ちた。

落ちたそれに一番近かったのは銀時だった。座り込んだ脚を伸ばして素早く拳銃を引き寄せ、手に取る。
新八は瞬間的に激しく身動いで背後の男を振り払った。そのまま倒れるように銀時の前に膝を付く。床に膝を付いた新八の目と同じ高さに、尻を付いた銀時の目があった。
瞳が赤い。
それは眼底の血が透けているからだ。

「…」

銀時が何か言いかけるが、言葉にならない。
言う前に、新八の掌が銀時の頬を張っていた。

尻を付いた上体が勢いよく床に倒れる。
拳銃を持つ銀時の手首を新八が踏み付けた。関節に割り込むように加えられた力に銀時が声を上げる。

構わず新八は、指を広げたその手から凶器を毟り取った。

「なんつう危ねぇ奴だよ」

飼い主に噛み付きやがった。

前歯をなくした男が血だらけの口で叫び、再び拳銃を取った新八に低い姿勢から躍り掛かる。
新八は男の開いた口を真っ正面から思い切り、踏むように蹴った。歯が折れた口を更に痛め付けられた男が悲鳴を上げて仰け反った。

握り締めた拳銃の安全装置のピンを抜き、撃鉄を起こす。
使い方も知らない、と揶揄された新八は実のところその使い方を知っていた。使った事がないというだけで、使い方は知っているのだ。
使用法さえ知っていれば、あと必要なのは明確な殺意だけだ。
離れた位置から手を汚さずに、自らを危険に晒すこともなく人を殺す、卑怯極まりないと普段なら忌避するはずの凶器を持った新八は、引き金を引かせる殺意を既に備えている。



新八は気付いていない。
これは最早、この3人の男達だけに対するものではない。
姉に忘れ物を届けたあの日から蓄積し続けた感情が、3人の男達に対する殺意として現れているに過ぎなかった。



まずは目の前のこの、しばらくはまともに物を噛む事はできないであろう男。こいつだ。
人は迷いがなくなると冷静になる。
どこかを妙に冷めさせた新八が引き金を引いた。

銀時が何か叫んだ。
何を叫んだかは新八には聞こえなかった。
聞こえなかったが、知った事ではなかった。




*






穴が開いたのは、人体ではなくヤニで汚れた天井だった。

新八の腕を危ういところで痣の男が背後から掴み、照準をぶれさせていた。
咄嗟に振り返った新八を痣の男が殴る。新八は背中を床に叩き付けられ呻き声を上げた。それでも凶器を掴む指は離れない。

「返せ、いい子だから」

嬲る言葉を吐く男の声はしかし、嬲る余裕を失って本気だ。男は、血が混じった唾を床に吐いて起き上がろうとする新八に覆い被さった。
もがく子供の体を押し倒し、過ぎた凶器をその手からもぎ取ろうとする。

大の大人の体は重く、どうもがこうと到底はねのけられない。新八は激しく胸を上下させながら、なすすべなく組み敷かれた体勢で天井を見詰めた。

銀時は、と思った。
銀時はいつもこの部屋を使う。
男に組み伏せられた彼が見ていたのは、この煤けた天井なのか。

その天井には、自分が撃った銃弾が小さな穴を開けている。

天井を見上げる新八の視界の端には、自分に被さり拳銃を奪おうと身動ぐ男の左耳が入り込んでいた。
新八は銀時が見ていたであろう天井を見上げながら、口を開けた。

無防備な男の耳に躊躇わず噛み付く。
男が悲鳴を上げて、新八に圧し掛かった身体を上げた。舌の上に苦い血の味が広がって、新八は眉を顰めた。

解放された新八は上体を起こした。



「馬鹿!…馬鹿ッ!」

銀時の声は最早悲鳴に近い。
拳銃が、刃物や木刀や素手の暴力と決定的に異なるのは、一旦引き金が引かれてしまえば銀時の得意な『死ぬ死なないの見極め』が出来ないところだ。



銀さん、なんで?

あんたは僕の想いよりも、あんたを犯した奴らの命を尊重するんですか?




*






銀時の悲鳴と同時に、二度目の銃声が空気を裂いた。



銃弾は、撃ち手の意思を裏切った。
あの日、痣の男が撃った弾が彼を裏切ったのと同じに、銃弾は新八を裏切った。
銃弾は男を捉えはしたが、その肩を抉るにとどまりそのまま逸れていた。

銀時が制止しようと立ち上がりかけていた。
その脛を、失神から醒めた嗜虐の男が掴んだ。
銀時の体は平衡を失って倒れた。



その位置は、歯を折られた男の肩を抉って逸れた銃弾、その弾道の同一直線上にあった。



新八が撃った銃弾は、男を捉えなかった。
かわりに、倒れる銀時を捉えていた。









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