19


8階建の屋上から落とされた痣の男が次の瞬間に見たのは、排ガスに煙る空の灰青色だった。

天国かなどと考えるような情緒は男にはないし、天国の空はスモッグに淀んでいたりはしない。すぐに心が感じたのは、何かの罠か、という警戒だ。同時に、あの殺人者はしくじったのか、とも推測する。
どちらにしろ、いつまでもこんな所に転がっているわけにはいかない。どんな理由であれ、際どいところで拾った命をみすみす捨てるつもりはない。

コンクリに仰向けていた体を起こしかけた男の胸で携帯が震えた。

「日付が変わるまでどこかに身を隠せ。日付が変わったら7丁目の映画館裏の駐車場に行け。迎えが来てる」

携帯の淡々とした声はそう指示し、すぐに切れようとした。

「待て、万事屋。どういう事だ」

男が言うと、銀時はうるさそうに、

「そう伝えろと言われたから伝えただけだ。俺の仕事はそこまでで、後は知らねぇ。知りたきゃ、メルちゃんのパパに訊きな」

「…誰だと?」

「3貰ったら7返す、ダサがりのオッサンだよ」




男は、ガキの頃から自分を食わせてくれた組織を黒駒に売ろうとしていた。
万事屋と拗れてからこちら失態を繰り返した挙げ句の行動だったが、男の事情など黒駒にとってはどうでもよかった。

「最近なぁ、畑やるん流行ってるやろ。ロハスいうんか。それで、わしもひとつやってみたろか思うててな」

暗い事務所で男と向かい合った黒駒は、膝の上の座敷犬を撫でながら唐突にそんな話を始めた。

「せやけど、畑始めたんはお隣さんの方が先や。お隣さんが立派な葉っぱ生やしとる横で、しょうもない葉っぱ生やすんも格好悪いし、どないしようか思ててなぁ。それに、わしが育てた葉っぱ、お隣さんが勝手に抜いていかんとも限らんしなぁ。それで、わし、なんやかやでお隣さん引っ越してくれへんかな思ててん。引っ越す言うか、いっそ消える言うか、してくれへんやろか思ててん…」

黒駒は、膝の上の座敷犬にテーブルの上のクッキーを摘まんで与えた。
犬は小さい形(なり)でまるで野獣のように牙を剥き出すと、与えられた菓子を貪り食った。

「…なぁ、お隣の兄ちゃん。あんた、葉っぱの上手な育てかた知っとんのやろ?それ、ビギナーのわしに教えてくれへんか」

知っているも何も、男がガキの頃からやってきたのが『葉っぱ』の生産と販売だ。
男がそう返答すると、黒駒は、

よっしゃ

と両手で膝を叩いた。驚いた犬の口からクッキーの欠片が落ちる。
男の自らの半生に対する裏切りは、黒駒が漏らしたそのたった一言で成った。




黒駒は、犬の散歩で会った神楽を通して銀時に依頼をした。

わしんとこでヘッドハンティングした兄ちゃんが苛められんように見張ってといてくれ。

組織は失態を繰り返す男を消そうとした。
ただ、自らの手で直接『子』である構成員を消す事は嫌であったようで、形式として、何でも屋である銀時を使う事を思い付いた。黒駒と以前から面識のある銀時を選任したという事は、おそらく組織は男の浮気相手が黒駒である事を知らなかったのだろう。
銀時が男の組織から男を消してくれと依頼されたのは、銀時が黒駒の依頼を承諾したその日の夕方だった。

銀時は、知らない顔で組織からの依頼を受け、その上で、黒駒の依頼に沿う行動を取った。

「先着順だからですか?」

新八は、銀時が何を基準に黒駒を優先させたのかがわからなかった。
問われた銀時は新八の質問に対し、

「うちは、いつそんなシステムになったんだ?」

と、質問で返した。




起こった事は、単にそれだけだ。

新八は、押し入れから這い出た男が立ち上がるのに手を貸してやりながら思った。
こいつは惨めな虫けらで、そのうえ裏切り者だ。しかも、以前に命を取ろうとした人間の家の押し入れなんかに匿われてビクビクしている。

男が立ち上がるのに子供の手を借りなければならないのは、先日男の大腿が子供に撃たれたために脚が上手く動かないからだ。
新八は不自由に立ち上がろうとする男に貸した手を払いのけてやろうかと思ったが、そうはせず、かわりに立ち上がろうとする男を冷えた目付きで見下ろしながら吐き棄てた。

「とことん惨めですね」

男は新八の手に体重をかけて立ち上がると、

「惨めでも、最後に生きてたもんの勝ちなんだよ」

低く言った。

お前が入れ込んでるあの淫売も多分そう思ってるぜ。…残念ながらな。
そう付け加えた男は痣のある口元を薄く笑わせていて、見下す新八を逆に哀れむようだった。



*



新八は、鳥好きのやくざが飼っている鳥達の事をまた思った。

痣の男が裏切った、鳥好きのやくざが所属する組織は、早晩黒駒に潰されるだろう。違法な葉っぱなんかの利権のために、そうなるのだ。
そして、鳥達は飼い主を失う。

「銀さん。鳥、飼ってみたくないですか」

事務机に肘を付く銀時の手は、鳥好きのやくざの組織が約した額を遥かに上回る黒駒からの報酬を達者な手付きで札勘していた。報酬だけではなく、組織の強さも黒駒の方が遥かに上回っている。
銀時が札勘する手付きは、新八と同じ手付きだった。新八の札勘は銀時が教えたのだから、当然だ。

「どいつもこいつも。金は振り込めって言ってんのに聞きゃしねぇ」

札束を数え終わった銀時は、それを新八の手に押し付けた。問いに対する答えを無視された新八は、

「…銀さん。鳥…」

と、しつこく繰り返した。

「飼わない」

銀時ははっきりと言って、雑に記入した領収書を破り取った。

「んな事してたら、きりがねぇ」

聞き入れて貰えるとは到底思っていなかった新八は、受け取ったがさつく金を黙って封筒に入れた。

鳥好きのやくざの組織は早晩潰され、やくざの飼っているたくさんの鳥は、世話する者を失ってみな死ぬ。我が身とは無関係な、世間の事情によって否応なく殺される。
人に懐く、そのくせ人の事などすぐに忘れてしまう馬鹿で可愛い恐竜の生き残りは、自らを養ってきた籠に閉じ込められて死んでしまうのだ。
それならせめて籠を開けてやりたい。鳥を引き取る許可を得られなかった新八はそう思った。飛んで行ったら二度と帰って来ないとしても、籠を開けて放してやりたい。
もしも自分なんかに出来る事があるのなら、それくらいしかないのだ、と思った。

雑に書かれた領収書を新八から受け取った痣の男が、

「黒駒には、よろしく言っておく」

と言って、座っていたソファの背凭れにすがりながら立ち上がる。
言われた銀時は、

「余計な事は言わねぇでいい。俺は依頼を受けただけで、後は無関係だ」

と、見送る気もなく重い腰を椅子に落ち着けたまま素っ気なく答えた。




愛想のない経営者の代理で玄関までを付き添った新八に、下駄箱に隠してあった靴を履き終えた男が、何を思ったか着ていたシャツの裾を少し捲ってみせた。

「…お前にやろうか?」

捲れたシャツの下から、男の下腹に巻き付いた黒い革製のものが覗いている。革製のそれに収納されているのは、革より更に黒い鋼の凶器だ。

「これ。…お前にやろうか?」

男は新八に向かって立ち、ふざけているとも思えない口調で言い直した。
新八は、シャツの裾から覗いている鋼をじっと見た。
あの日、男が使って銀時の着物を焦がしたこの凶器とは、思えば随分と因縁深くなってしまった。
自分はこれを手に取り、この男や他の奴等、そして銀時を殺しかけた。

「今ならあいつも見てないぜ。餞別ってわけじゃねぇが、お前が欲しきゃくれてやる」

「なんで…」

「さあな」

痣の男は笑わない。
その真意など、どこにあるのかわからない。

僕は、

と、新八は卑怯にも離れた位置から人を殺す凶器を見ながら思った。
僕は、あの時これで何を撃とうとしたんだろう。

「どうする?モタモタしてる暇はやらねぇぞ」

男は新八を急かした。

「…そんなもの」

新八の呟きに男は微かに笑い、

「そう言うなよ。なかなか便利なもんだぜ」

と言った。

「どこが」

「便利だとは思わなかったか?…これは、いろんなもんに穴を開けられる。壁や、お前の思う通りにならないもんに」

「いらない」

「本当か?」

「もう、いらないんです」

男は、そうか、と言い、シャツを下げて黒い革のホルスターを元のように隠した。
玄関の引き戸を開けて出て行く男の後ろ姿を新八は無言で見送りながら思った。

いらない。
僕には、あれはもう不要のものになった。
穴は、一ヶ所開けばそれでいい。何度も開ける事が出来るほど銀時は丈夫ではないし、自分の神経も太くない。
それに、溜め込まれた埃を掻き出すための穴は、あれひとつあれば十分だ。
だから、もういらない。

…いらないと言うか、いらないと決めた。



*



神楽と犬が寝ている。
平和な歯軋りと鼾の音を背後に、新八は銀時の頭を両手で固定して彼の口を吸った。

「なにすんだ」

抵抗するでもなく、たっぷり堪能してから離れた口で元・淫売は言った。
新八は袖で濡れた口を乱暴に拭った。

「キスです」

「言われなくても知ってる」

「…銀さん、鳥が死んじゃう」

「知らねぇよ」

銀時は近い新八の体を押し退けて立ち上がった。立ち上がると銀時の目の位置は新八より高くなる。高くなった銀時の目は、銀時の体内を流れるものの色を透かしていた。

「籠に閉じ込められて死んじゃう」

新八は銀時の血の色を、ただの身長差以上に、まるで遥か上にあるもののように見上げて訴えた。

「仕方ねぇだろ」

「鳥は無関係なのに。やくざ同士のいさかいなんか、鳥には関係ないのに」

「いさかいには関係なくても、鳥はやくざの籠で生きていたんだから仕方ねぇ。…なんでお前はそんなに鳥に構う?お前、そこまで鳥好きだったか?」

「好きになったんです。…自分でも知らない間に、なってたんです」

ああ、そうかよ。
銀時はどうでもよさそうに言うと、すたすた歩いて居間から出て行こうとする。

「どこ行くんですか」

「うっせえな。何なのお前は。いいだろ、金入ったんだからちょっとくらい飲んでも」

どれだけ可愛がっても、一度放れたら二度と帰ってこない。
馬鹿だからなのか、帰る気がなくなるからなのか。それとも、いずれ籠に殺される事を悟っているからか。

訊いてみなければわからない。
鳥好きのやくざは言った。
鳥と話が出来るならだけどな。

「…帰って来る?」

新八は、素っ気ない銀時の後ろ姿に向かって、すがるような声を出した。

「当たり前だろ」

銀時は振り返りもせずに言い、神楽と定春の尻尾を跨いだ。

「他にどこに帰るってんだ」

「………」

意外と生命力がありやがるから、帰らなくたってどこだって生きていけるくせに。
新八は口の中で頬の内側を噛んだ。

「じゃあ早く帰って来て下さいよ」

「なんで。なんか用事か」

神楽と犬を跨いだ形のまま振り返った銀時に、新八は、

「早く帰って来て僕に抱かれてよ」

と言った。

銀時は肩を竦めて、

「わかったよ」

と、本当にわかっているのかどうか、いやらしく笑ってみせた。










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