18


玄関に立っていたのは、路地裏で銀時を襲撃したやくざの内の一人だった。
あの時、最初に凶器を捨てた話のわかるやくざがこの男だ。話のわかるやくざは、応対に出た新八に、

「万事屋いるか」

と言った。
新八は、いる、と頷いた。



「あのさぁ、金は振り込んでくれっつったろ?面倒なんだよ、銀行行くの」

銀時は耳の穴に小指を突っ込んでほじりながら、新八の運んだ茶に口を付ける。
やくざはその向かいで深く腰掛け、茶を飲む様子もなく腕を組んで銀時の様子をじっと見詰めていた。注意深く、何をも見逃すまいとするような上目遣いだ。

「万事屋。俺が金を払いに来たと思ってんのか」

「あ?じゃあ何しに来たってんだ」

「…聞くが。テメエ、ちゃんと仕事をしたのか」

「あん?どういう意味だ」

銀時の質問に答える前に、やくざは部屋の隅で定春の尻尾を慰んでいる神楽と、銀時の隣に座る新八にちらと視線を流す。やくざの言外の確認に、銀時が構わねぇよと許可すると、やくざは銀時に目を戻して言った。

「テメエが指定した場所に、死体がなかった」

「何だと」

銀時が緩んでいた表情を険しくした。やくざはその様子から目を離さずに茶碗を手に取り、唇を湿らす程度に茶に口を付け、ゆっくりとテーブルに茶碗を置いてから言った。

「もう一度聞く。テメエちゃんと仕事をしたのか」

「なめんな。8階建の屋上から叩き落としたんだぜ?」

「その8階建だ。外回りをぐるっと回ったが、野郎どころか雀の死骸一つ落ちてなかった」

「おい、ふざけてんじゃねぇ。俺は普通の人間の始末を依頼された覚えはあるが、不死身のターミネーターみてぇなもんを始末しろと依頼された覚えはねぇぞ」

「俺ぁ、野郎とサウナに入った事もあるが、野郎は間違いなく生身の人間だ」

「じゃあ死んでる」

「そのはずだが死体がねぇ」

「…どういう事だよ」

「万事屋さんよ。テメエの腕が確かだってのはこの街の奴なら当たり前に知ってっさ。だがな、腕が確かな割には仕事が雑だってのも、この街の共通理解なんだ。…テメエ、あのビルをよく調べたか」

「調べるって何だ」

「あのビルの屋上には高架水槽があるだろう。その裏は柵が途切れてて、丁度、人間一人落とすのに最適な状態になってやがる。…勿論知ってんだろうが?」

「ああ、よーく知ってる」

「その途切れた柵から乗り出して下を見るとだ。あれは位置的に6階あたりから下だな。約1.5メーター、人間が一人引っ掛かるには充分な幅が、庇状にせり出している。あのビルはきれいな長方体みてぇな顔をしながら、実は微妙に凹凸してんだよ。それは知ってたか?」

「………」

「その1.5メーター幅の上に降りてみた。すると、真新しい血痕がいくつか落ちていた。でけぇ血痕じゃねぇ、ガキの鼻血程度の小せぇやつだ。わかると思うが、鼻血じゃなかなか人は死なねぇ」

「俺が、野郎を仕損じて取り逃がしたってか」

「…それか、わざわざ逃がしたか」

やくざは、置いた茶碗を再び手にした。しかし持ち上げて茶を飲むわけではなく、ただ、卓上を擦るようにして脇に退けた。

「どっちだ。万事屋」




*




やくざと銀時が緊迫するのを前に、新八はぼんやりしていた。
別に今だけの話ではない。新八はこのところずっと、ぼんやりしている。
退屈な休日の昼寝から目覚めたばかりのような心持ちだ。目は開いているのに、頭が覚醒していない。体の感覚がフワフワして、いろいろな事に気が入らない。



あの後、緩んだ衣服を適当に引き上げただけの格好で、水浸しになった床を拭いた。
間抜け極まりない作業だったが、新八は幸せで、

「あんたに金を払う奴等の気持ちがわかったような気がします」

と、同じく床を拭いている銀時の屈んだ背中に向かって言った。

「あんたになら、僕はいくらだって払ってもいい」

銀時は新八に背中を向けたままで、

「へー。いくら払ってくれんの」

と、床を拭き続けた。
新八は雑巾を捨て、銀時の背中に這い寄り、そこに腕を回してしがみついた。

「いくらでも」

新八をしがみつかせておいて、銀時は全く変わらない調子で床を拭く。

「僕の生涯所得全部でも」

首筋の赤い痕跡に唇を触れさせながら新八は銀時の首にしがみついて言った。
全く変わらない調子で床を拭く銀時は、背中に新八をぶら下げたまま腕を伸ばしてバケツを引き寄せ、その上で雑巾を絞った。絞った雑巾を広げて畳み、また床を拭き続ける。新八が背後から覗き込む顔に特別な表情は表れておらず、全く普通だ。

「…なんか言って下さいよ」

恥ずかしくなった新八が言うと、銀時はようやく背中に張り付く新八を振り返った。
目と鼻の先にある銀時というものに、この何日かで新八はだいぶ慣れた。極めつけがさっきした事で、誰かと体ごと親密になるというのはこんな感じがするものなのかと感動に近く納得した。
銀時は、擦り寄る新八の額を馴れ馴れしい猫にするように手で押し退け、言った。

「お前の生涯所得って、その一部はもともと俺が払ってんじゃん」

「………」

…そういう事は払ってから言え。
新八は、目と鼻の先にある銀時の顔面にそのまま頭突きを食らわせてやった。



そんな遣り取りがあったりして、以来、新八はずっとフワフワしている。
何かが劇的に変わるだとか、そういった事はない。銀時は相変わらずで、新八もやはり相変わらずだ。ただ、今までどうにも不安定だった何かが収まるところに収まったという安定感がある。
何にせよもう大丈夫だ、と思うのだ。
銀時がどう思っているかは知らないが、自分は大丈夫だ。自分が大丈夫なのだから、誰に何を言われようといつ何が起ころうともう大丈夫だ。
一番簡単な言葉で言うと、新八はホッとしたのだ。今までずっと気を揉んでいた、ややこしくて大きな問題が片付いた。それで、持続していた強い緊張が解けた。どんな緊張であれ、それが解けた後は、脱力して頭がぼうっとなる。

新八は、そういう感じで、このところずっとぼんやりしていた。




*




「なんでだよ。俺が野郎を逃がす必要がどこにあんだ」

銀時が癖っ毛が絡まった頭を面倒くさそうに掻き回した。彼が苛付いた時の癖だ。

「さあな。だが、テメエは万事屋だ。どこで別の万事を引き受けてやがるかわからねぇ」

「馬鹿言うな。基本的にうちの仕事は、おばあちゃんの買い物代理や迷い犬の捜索みてぇな事がメインなんだよ。ただでさえややこしい仕事を余計ややこしくしたりするような真似はしねぇよ」

「どうだかな」

頭がぼんやりしている新八は、銀時とやくざの際どい会話にも気が入らない。
早く終わんないかな、といつになく無責任な事を思いながら、視線を大人二人から窓の向こうに逸らした。
隣の建物の屋根と電線が平行になっているのが見える。黒い屋根瓦と平行な黒い電線、その間に青い空。この、別段面白くもない平凡な風景が気に入っている。屋根瓦と電線の色が偶然同じだったり、もう少し向こうの方では撓んでいる電線がそこでは真直ぐで、だから偶然にも屋根瓦ときれいな平行になったりしているのが、なぜだか『いいな』と思うのだ。

その時、その見慣れた平凡な風景に何か変わったものが入り込んだ。

「…あれ?」

ぼんやりしている新八は、口にするつもりもなくそう声を漏らしていた。
静かに緊迫していた大人二人が反射的に、ぼうっとして役に立たない、物の数にも入らない子供を見る。

「ああ、」

やくざが、新八の視線の先を見て言った。

「ありゃカゴから逃げたんだな」

電線には、見慣れない鳥が一羽とまっていた。

「あんな鳥見たことない…」

ぼうっとしたまま呟く新八に、やくざが言った。

「変わったもんじゃねぇ、ただのインコだ。白いっつうだけで、別にただのインコだ」

「へえ…白いのもいるんだ」

カラスや雀と違って、白い羽はよく目立っていた。
銀時がどうでもよさそうに、詳しいんだな、と言うと、やくざは

「俺は昔から鳥が好きでね。今も、何羽も飼ってる」

と、若干緩ませた表情で温くなった茶を啜った。

「似合わねぇ事甚だしいな」

「何を言いやがる。鳥って奴は、昔恐竜だったんだ。恐竜の生き残りが鳥だ。犬猫なんかよりずっと男のロマンだろうが」

「鳥も懐いたりするんですか」

もともと恐竜だったものと情を通じたり出来るものなのかと新八は思った。
やくざは新八の質問に即座に答えた。

「懐くさ。可愛いぜ」



どこかから逃げたインコは電線にとまって羽繕いをしている。小さい体が行う動作は可憐だ。見ているうちに新八は切なくなった。

「馬鹿だな。逃げたりして。きっとすぐに死んでしまうんだろうに」

新八の言葉を聞いたやくざは、好きなものの話が出来るのが嬉しいのだろう、少し高いトーンで言った。

「それがそうでもねぇ。やつらは意外と生命力があってな。雀やなんやらに混じって平気で地面をつついてたりするんだ」

でも、いくら生きて行けるからって。
新八は、鳥が逃げて空になってしまったカゴを想像した。

「逃げた鳥は、犬猫みたいにまた戻ってきたりはしないんですか」

「それはねぇな。カゴから出て行ったら、行ったきりさ」

「帰ってこないんですか」

「帰ってこねぇ」

「…なんで?人に懐くのに?」

「なんでかね。なんでもすぐ忘れるバカを鳥頭っていうくらいだから、人の事なんか忘れちまうのかもしれねぇし、それかやっぱり狭ぇカゴなんかには戻る気がしねぇのかもしれねぇ。わかんねぇな。鳥本人に訊くしかねぇ」

鳥と話が出来るならだけどな、と鳥好きのやくざは言った。

出来ないものなのだろうか。
窓の外に視線を戻すと、鳥の姿は既になかった。




*




定春の尻尾を弄ぶうち、いつの間にか眠ってしまった神楽が床に転がって歯軋りをしている。犬も眠ってしまっていて、腹を上にして鼾をかいている。その非常識な巨体にいつ潰されるかもわからない体勢だが、夜兎の少女はつくづく豪胆だ。

「とにかくだ」

少女の歯軋りと犬の鼾。呑気すぎる物音に溜息を吐いて銀時は言った。

「俺は仕事をしたんだ。野郎は始末した。始末した後に野郎の死体がなくなったのなんか知ったこっちゃねぇ。テメエらの後片付けのまずさまで責任は負えねぇよ」

随分無責任な物言いだと新八ですらが思った。案の定やくざは銀時の甘えた主張など受け入れない。

「馬鹿言うな。始末したっつう証拠がねぇんだ。テメエは仕事をしてねぇのと同じだし、その結果はなんかしら胡散臭ぇ」

「だから知らねぇって…。あてにしてた依頼金を捨てて野郎を逃がして、俺に何か得があんのか」

水掛け論だ。
いい加減退屈した新八は、テーブルの上の冷めてしまった茶の片付けでもして暇を潰す事にする。盆に茶碗を載せようとした時、新八の頭の上でやくざが言った。

「万事屋。テメエ、もう一つの商売を止めたそうだな」

動揺したつもりもないが、新八は茶碗の一つに手の甲をぶつけて引っくり返していた。
すみません、と控えめに謝罪して布巾でテーブルにこぼれた茶を拭く。
別にどこかに公表したわけでもないのに、この街はちょっとの変化も見逃さず、その情報をあっという間に隅々に行き渡らせる。

「それが何か?」

銀時が何でもなさそうに言った。

「そっちの商売をテメエが止める直前に取った客ってのが、あいつだそうだな」

「それが何か?」

銀時は同じ言葉を繰り返した。

「テメエは野郎相手に商売をした。その直後にテメエは商売を止めた。そして俺達から野郎を始末する依頼を受けた。テメエは野郎を始末したと言うが、野郎の死体はどこを探しても見当たらねぇ。これは偶然か」

「偶然だね。…それとも何か、俺が野郎に惚れたとでも?俺が野郎のちんこに骨抜きになって、それで商売を止め、しかも野郎を逃がしたってぇのか?」

「さあ、それはテメエしか知らねぇ事だ。どうなんだ万事屋」

「ねぇよアホ!戯言ほざいてねぇで、残金を払え。振込みじゃねぇが大目に見てやる。あんな、はしたの前金で動いてやっただけでも有難く思ってもらいてぇもんだ」

「戯言ほざいてんのはテメエだ。何が残金だ。前金も耳を揃えてきっちり返せ。それから、しばらくの間は立ち居振る舞いに気を付ける事だな。テメエの行動は限りなく不審だ。少しでもおかしいと思えば、俺達はすべき事をする。…以前みたいなままごとじゃなくな」

「勝手にしろ、この泥棒が。とっとと消えろよ」

「ああ帰る。だがその前に、前金を返せ」

「………」

天井に向けた掌を突き出すやくざに銀時は舌打ちをした。そして、盆を持って台所に行きかけていた新八に、

「払ってやれ」

と命じた。返す、ではなく払うと言うあたりが銀時らしいが、それよりも何で僕が、と新八は盆を持ったままぽかんとした。

「お前、今、金持ってんだろ」

そう銀時は言うが。
それは銀時を買った男達に拳銃を突き付けて出させた金を銀時に渡した際に、その中から掠め取った金で、掠め取ったのはバレたが許可されたから自分の金で、眼鏡を新調したのに少しは使ったがまだだいぶ残っていて、多少嵩のある金額だから実家の口座に入れて家計の助けにしたいがそうするとその出所を姉に追及されるだろうし、どうしたものかと思いながら結局財布に入れっぱなしになっていたが、こんなに財布に厚みがあった事はかつてなく、それはなかなかに気分がいいものだとみみっちい喜びを味わっていた、そういう金だ。
その金を出せと?
いやそれよりも、何故銀時は自分の財布の状態を知っているのだ。

「早く。払わねぇと、こいつ帰んねぇぞ」




*




「あの人が死んだら、」

やくざが出て行った玄関を眺めながら新八が呟く。

「…あの人の飼ってる鳥はどうなるのかな」

銀時は

「なるようになるんだろ」

と言った。
その口調から新八は、誰かがたくさんの鳥を引き取る情景と、世話をする者を失ってたくさんの鳥が死んでいる情景の両方を読み取った。

銀時のこういう所を恐ろしいと思う。恐ろしく思い、心底ゾッとする。
銀時の価値観は、ゾッとする程に現実的だ。
希望的観測や甘えの入り込む余地のない、淡々とした現実だけが彼のその血の色が透ける瞳には映っているのだろうか。



新八は、和室の押入れの前に立った。

「もう大丈夫ですよ」

声を掛け、襖を開ける。
中には、男が一人、膝を抱えるように蹲っていた。

男の口の端には、治癒しかけの痣がそれでもはっきりと残っている。










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