燃えるような夕日。
地平線に触れ、下部が溶けたように歪んでいる。



地平線に触れる太陽ならなにも夕日とは限らない。しかし、あれは夕日なのだ。
根拠など全くないが、確信できる。あれは始まりの陽ではなく終わりの陽だ。

銀時の始まりは、終わりの陽が作ったのだ。



日没の後には闇が訪れる。
それと同じように、銀時の記憶も巨大な火が燃え尽きる情景から後が真っ暗だった。
何も残っていない。
あの夕日の次に現れる記憶は、新たに得た保護者の元で過す平凡な子供の日々の断片だった。

燃え立つ夕日の記憶と牧歌的な日常の記憶。断絶した記憶と記憶の間、夕日を見ていた銀時がその後保護されるまでの最早知る術のない部分。そこには一体何があるのか。


 
夕日の記憶には、音が付属している。
銀時の目は夕日を見ていた。耳はその音を聞いていた。

音は、無数のカラスがそこかしこで鳴き交わす声だった。

戦場ではカラスが増える。
潤沢な餌が、弔われる事なく放置されているからだ。




銀時は、保護されるまでの自分がどうやって生きていたのか、全く覚えていない。









帰宅すると、新八がいた。
帰ると言っていたような気がするが、夢だったのだろうか。

「一旦帰ったけど、戻ってきたんです」

「なんで」

「忘れ物です」

と言った新八は、銀時の首元を見るなり、あ、と小さい声を出した。

「忘れ物、それ。僕の」

指差されて銀時は首に巻くマフラーを見下ろした。
言われてみれば確かに自分のではない。暗がりで着けたために気が付かなかった。

「探したんですよ」

返せ、と突き出された新八の手に銀時は戸惑った。   

銀時の首には浅い擦過傷が出来ている。土方に首を絞められたときに出来た。首を絞められた経緯は、とてもじゃないが言えはしない。言えないような事に新八のものを使ってしまった。その嫌悪感に銀時は背中が寒くなった。
返せと言われたからといって、こんなものを知らない顔で返せるほど銀時は神経が太くない。
返して、何も知らないこいつがこれを首に巻くのを見るのか。

「いや。ちょっと汚したから」

「汚した?」

「犬がさ」

「犬?」

噛まれた、と銀時は山崎にしてみせたように新八の顔の前に掌を広げて見せた。あっちの地味はすっ呆けた反応をしてみせたが、こっちの地味はどうするだろうか。

「手が、耕したみたいになってますよ」

「何か植えてみるか?」

ふざけた銀時に、新八は眉を強く寄せて不愉快をあからさまに表現した。見てるだけで痛い、と広げられた銀時の掌から目を逸らす。
こっちの地味の反応はあっちの地味に比べてずいぶん素直だと銀時は思った。

「多分血とか付いたから、洗って返すわ」

洗い方がまずくて縮んだ、か何か言って捨ててしまおうと銀時は画策した。
とてもではないが新八にこれを着けさせるわけにはいかなかった。 
洗っている間はかわりに自分のマフラーを使うように言うと、新八は意外と簡単に納得した。銀時は安堵した。



和室の救急箱から適当に取り出した絆創膏何枚かを患部に貼りかける。
銀時のマフラーを巻いた新八がその様子を見て言った。

「犬に噛まれたんなら消毒して下さい」

銀時は生返事を返した。新八の言は尤もである。但し、本当に犬に噛まれたのなら、だ。

銀時は構わずそのまま絆創膏を貼り付けようとした。新八は音を立てて足早に近付き、銀時が不器用に貼りかけていた絆創膏を毟り取った。
一連の動作は必要以上に乱暴だった。

「なんだよ」

ここ最近、新八の様子が以前と少し違ってきている。自分に接する態度がどこかしら硬いのだ。なにか妙な具合に緊張している気配がある。

「その犬が、病気とか持ってたらどうするんですか。狂犬病とか」

「あいつは狂犬なんかなぁ」

銀時が呟く。
新八がオキシドールを含ませた脱脂綿をピンセットで摘む。そして、銀時の掌にそれを強く押し当てた。新八はそうしながら

「知らないです」

とだけ言った。 



「犬に噛まれたアルか」

いつ目を覚ましたのか、神楽がもぞもぞと起き上がってきた。少しの間の睡眠でもう寝癖が付いて、頭の後ろの髪が逆立っていた。たくし上げた肌布団の端で口の周りの涎を拭っている。
神楽は野獣でこそないが、自然体だ。しかし、神楽が自然体であるから銀時も新八も居心地がいいし、神楽自身も居心地がいい。それをわざわざ損なう必要性を、三人は見出せない。

「ねえ、銀ちゃん狂犬病アルか」

神楽がもう一度言った。

「じゃねぇよ」

銀時が言った。

「今は違うけど、これからなるんだ」

新八が言った。

神楽はまだ開ききらないためにかすむ目で、目の前の光景を見た。
新八が銀時の手に消毒薬を塗っている。銀時は怪我をしたのだ。ほんの少し前に神楽が頬を載せた左の掌がずたずたに裂けていた。
狂った犬が銀時の掌を噛んだのか。

神楽の貧しい故郷では、路地や空き地に野犬が多くうろついていた。幼い神楽はその中に何度も狂った犬を見た。

「まず、水が怖くなるネ」

「水?」

「そうヨ」

神楽は炬燵の上に口を開けていた菓子の袋から一つを取って噛み砕いた。菓子は湿気ていて舌や歯茎にしきりに纏わり付いた。神楽は口をくちゃくちゃさせながら話を続けた。

「病気の犬に水を見せると怖がったヨ」

「なんで?」

「知らないヨ。それから、すごく凶暴になるか、そうでなかったら全然動かなくなったネ」

狂犬病の症状には、狂騒型と麻痺型がある。神楽が一番覚えている犬は、動かなくなる方だった。神楽が住んでいた家の横、狭い路地の奥にはガラクタが山と積まれていたが、その犬は壊れて打ち捨てられたエアコンの室外機に体を寄せて、動かなかった。

「銀ちゃん、もし狂犬病になっても今とあんまり変わらないネ」

銀時は泳ぎが得意ではないので水に近付くのを嫌がるし、普段から寝てばかりいて動かない。
新八が笑った。銀時は嫌そうな顔をした。

「あと、変なものを食べるヨ」

菓子をくちゃくちゃ咀嚼しながら神楽は幼い頃の記憶を思い出した順に口にする。

「変なものって?」

銀時の掌に包帯を巻きながら新八が言う。
包帯は銀時の手を転がりながら巻き付き、次第に拘束した。

神楽は新八の質問に、

「木の枝とか土とか…、普通なら絶対食べないもの」

と答えた。
神楽の健康な顎が湿気た菓子をまた粉砕する。そのこめかみが盛んに皮膚の下で動くのを銀時はじっと見ていた。

「変なものを食べて、そのうちますます動かなくなって、だんだん弱って死んじゃったネ」



麻痺が進んで全く動かなくなった犬の前で神楽がしゃがんでいたら、後ろに誰かが立った。この病気の犬に近付いてはいけないときつく言われていた神楽は、その時はまだ立ち歩けた母かと思い、言い訳をしようと振り返った。
振り返った神楽は息を呑んだ。立っていたのは母ではなかった。兄が、手に棒を持って立っていた。

犬はだんだん弱って死んだわけではない。
兄が引導を渡した。
兄がどんな顔をして犬を殺したのか、棒を振り上げる兄の背中だけを見ていた神楽は知らない。
しかし、もしかしたらこれは兄が自分に対して見せた唯一の愛情かもしれないと神楽は思っている。感染する危険な病気に罹った犬を始末することで、妹を守ろうとしたのではないか。
本当のところはわからないが、神楽はそう思おうとしている。



「銀ちゃん。銀ちゃんを噛んだ犬、本当に大丈夫アルか?」

悪い夢から覚めた時に銀時の姿がなかった。その時、朦朧とした意識もあいまって神楽は恐ろしいくらい不安になった。
一旦なりを潜めたはずのその不安が、犬や兄を思い出したせいでまた首を擡げるような気がした。

新八は神楽の口調から、神楽の中でまだ尾を引いている不安を如実に察知した。あの時、普段から気の強い神楽がふいに曝け出した不安に対して新八は何一つしてやる事が出来なかった。新八はまるで何かに責められているように感じた。

新八の手は銀時の手首を掴んでいる。既に包帯は巻き終わっていたが、新八はあまり接触したくないと思っていたはずの銀時の手首を離せないでいた。

「大丈夫だろ」

と銀時は言った。

「ちゃんとしたとこの、飼い犬だから」

新八に掴まれた手首を見下ろし、銀時は神楽の問いにそんなふうに答えた。











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