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全く隙がないかに見える整った顔だ。
しかし何かの拍子にちょっと上唇がめくれると、正面から数えて二番目の上の歯が内側に若干引っ込んでいるのが見える。それが、このえげつない性格の若い男の顔の中で堪らない愛嬌になっている。
よく見れば可愛い顔をしているんだよな、と山崎は思った。
沖田は、そのよく見れば可愛い顔を山崎に向けて
「さあ。知らねェなァ」
と言う。
実にどうでもよさそうな顔だった。上唇が少しめくれ、愛嬌の元である引っ込んだ前歯が見える。
「どっかで死んでんじゃねェ?」
と言って、手元のテレビ雑誌を捲った。
死んでたら大騒ぎだ。山崎は溜め息を吐いた。
「困ったなあ。決済印がいるんです」
「なんでィそんな事。なんなら代わりに押してやろうか?」
と言って沖田が胸ポケットから取り出したのは、どこで手に入れたのか可愛らしい猫のキャラクターのおもちゃのシャチハタだった。
そのキャップを開け、山崎が持った書類を奪い取ろうとするものだから閉口した。奪われないように書類を体の後ろに庇い、結構です、とはっきり固辞しなければならなかった。
「あいつのハンコの代用なんか、これで十分だろィ」
「そうもいかないですよ」
あっそ、と沖田は肩を竦め、おもちゃのシャチハタを胸に仕舞いかけ、そして思い直して山崎のポケットに突っ込んだ。
俺はゴミ箱の代わりか。こんなものを押し付けられても困るのだが。
沖田は、それきり興味がなくなってしまったように雑誌に目を戻し山崎の事など見もしなくなった。山崎はストレスが蓄積する音を耳の奥に聞いた。
沖田は土方を殊更軽んじる風を見せる。単純に虫が好かないのもあるだろうし、土方の糞真面目さがおちょくるのに適しているのもあるだろうし、それらをひっくるめた以前からの関係性もあるだろう。
山崎は姿の見えない土方について尋ねるのにこれ程不適当な相手もないとわかっていたが、そこらじゅう聞きまわってもう他に聞ける者がなかったために仕方なく沖田に聞いたのだ。
そして聞いた事を後悔した。収穫はなく、疲れただけだった。
「明日にしたらどうでィ」
頭の後ろで吐かれた山崎の溜息を手で扇いで追い払いながら沖田は言った。
「今日中に出せって上が言ってるらしくて。局長に拝まれちゃって」
もう、とうに8時を回っている。
「それぁ、ごくろうさん」
山崎の溜息などとっくに散ってしまったはずなのに、沖田はまだ手を振っている。つまり『あっちに行け』という事だ。
「どこ行っちゃったんだろう、副長」
沖田の傍を離れながらそう呟いた山崎にか、それともただの独り言なのか、
「ドブにハマッてる」
と、雑誌を見下して振り返りもせず沖田は言った。
「…はい?」
「野郎はうちの汚物だぜ?汚れモンは汚れモンらしくドブにでも沈んでんのが似合ってら、って言ってんだよ」
ドブにハマッているにしろ何にしろ、今日中にハンコがいるのだ。
山崎は勤務時間外の土方が行きそうな所を取り敢えず回ってみることにした。といっても、行きつけの飯屋かコンビニくらいしか思い当たらないが。
屯所の外に出ると、妙にはっきりした半月が出ていた。
街灯と街灯の間、普段なら暗がりに沈むような場所でも、月明かりで道に落ちた小石までを見つける事が出来た。山崎の爪先は何となしにそれを蹴る。小石は道の脇を走る側溝に転がり落ちて硬い音を立てた。
本当にドブにハマッてんじゃないだろうな。
土方には意外と神経質な所があって、右のものが左にあるだけで不機嫌になるような傾向があった。そのくせに、時々とんでもないヘマをやる。細部を気にしていると全体が見えなくなるからだろうか。
隊の中では、土方は戦術はともかく政治は出来ない、というのが定説だったが、それも大局的な視点を持つのが苦手だという性質で説明がつくような気がする。
あの人は目先の事をどうにかするのは上手いが、目先の事が積み重なった最終的な到達点を考えたり動かしたりがてんで出来ないんだよな、と本人に聞かれれば殺されるような事を山崎は考えた。
なんにせよ、ガサッと大雑把にまとめて、いきなり到達点に持って行くのは局長である近藤の得意であるから、つまりこれはこれで上手くいっているのだ。
繁華街に近付き人間の気配が濃くなった。辺りを照らすのは月ではなく、立ち並ぶ猥雑な店々が発する明かりに変わっていた。
土方が行き付けにしている店はどこだったか。立ち止まりあやふやな記憶を頼りに辺りを見回すと、けばけばしい街の光に照らされ行き交う通行人の中、山崎の視線がふと引っ掛かった。あれ、と思い山崎は注視した。
特徴的な外見である。見間違うはずはなかった。
万事屋。
山崎は、土方を見かけなかったか、と親しく声をかけようとした瞬間、躊躇した。雑踏を縫って漂ってくる血の臭いを嗅いだからだ。
万事屋はマークされている。山崎が監察を務める組織にだ。
あの汚いスナックの上階にある万事屋の拠点をまんべんなく見渡せる位置に、隊は部屋を借りている。そして実際にそこに詰めているのは山崎だ。万事屋はそれを知っているのだろうか。
知っているのだろうな、と山崎は思っている。
「旦那」
山崎は何にも全く気付いていない、何一つ含みのない態度で、穏やかでない臭いを漂わせる万事屋を呼び止めた。
山崎は狡猾だったが、しかし万事屋も十分狡猾だった。万事屋は、ああ、と何でもない風に足を止めるなり、
「絆創膏持ってないか?」
と言った。
「絆創膏ですか?」
万事屋は口の端が緩んだ情けない顔で
「犬に噛まれてよ」
と、山崎の前に掌を広げて見せた。
歓楽街の、明るさにも色調にもムラのある光に照らされた万事屋の手には、不確かな光の下でもわかる程の深い傷があった。掌の真ん中の皮が抉れて血が少しずつ染み出していた。
「ひどくやられましたねえ」
犬の噛み傷なんかであるものか、と山崎は思った。傷の始まりにくっきりと平べったい前歯の形状が残っている。間違いない。人間の歯列だ。
山崎をそんなあからさまな嘘に気付けない程ぼんくらだと思っているのか、或いは気付かれてもいいと思っているのか、あっさり掌を広げて見せた理由はどちらなのか。万事屋は相変わらず情けなさそうな顔をしている。
「すいません。絆創膏は持ってないです」
「ああそう」
「あのう。セロテープなら」
「てめえは俺を紙製だと思ってんのか?」
常より若干早い喋り方。着物の裾には泥。目が少し充血している。巻いているマフラーが強く引っ張られたように伸びて弛んでいて、伸びた所に掠ったように薄い汚れ。血だ。そして掌に、人間による噛み傷。
山崎は素早く観察し、万事屋の負傷が少なくとも平和で長閑な事情によるものではないと推察した。
ただ、腰に木刀がないのに違和感を覚えた。
「可愛かったから、ちょっと撫でようとしたら噛み付きやがった」
「気安く触ったら危ないですよ。可愛くても動物ですから。何するかわかんないですから」
何が可笑しかったのか、万事屋は喉の奥で思わずといった笑い声を立てた。
山崎は万事屋を監視するよう命じられている。この傷の件を土方に報告すべきか、万事屋の様子を注意深く観察しながら山崎は考えた。
「ああ、そうだ。副長を見かけませんでしたか」
「あん?知らねぇよ」
予想通りの返事を頂戴した山崎は溜息を吐いた。今夜中にハンコを貰うのは無理そうだ、と泣きたくなったところで、そういえばと思い付く。
「…あの、これ」
「何これ」
山崎が制服のポケットから取り出したのは、可愛らしい猫の顔の形をしたおもちゃのシャチハタだ。
「よかったら、お宅のお嬢ちゃんに」
断られても面倒であったので、万事屋の左手が不自由そうなのをいい事に山崎は返事も聞かず、万事屋の上着の左ポケットに突っ込んだ。
「うちに『お嬢ちゃん』なんてもんはいねぇよ」
万事屋が迷惑そうな顔で言ったが、山崎は万事屋が『お宅のお嬢ちゃん』などという言い方を喜ばないはずがないと知っていた。
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