奇妙な関係が始まって2週間経った。
放課後、非常階段で煙草を吸う坂田の元に生徒がやって来て、何の素振りも見せずに他愛ない会話をし、坂田が煙草を吸い終わると

「じゃあ僕、帰ります」

と簡単な挨拶だけをして帰って行く。それだけだ。
だから正確には、関係、などという濃厚なものではない。

あの雨の日の翌日ここに姿を現した生徒に、坂田は、あの時衝突してきた生徒の前歯の感触を念頭に置いたうえで念を押したのだ。

「一応言っとくけど、何しようと望みはねぇからな」

お前が妄想してるような『いい事』には、天地がひっくり返ってもならねぇからな。
運動場をぐるぐる回る野球部の列を見ながら言った坂田の言葉に生徒は

「わかってますよ。僕が勝手にやってるだけだからいいんです」

と、とぼけた雑種犬のように小首を傾げて答えた。



奇妙な状態ではあったが、坂田は自分に対して何の要求もなく、判断も決断も迫られないのであれば心が平静であったので一向に差し支えはなかった。
好きにしろ、と放置している。
生徒もあれ以降、授業中にしろこの非常階段に姿を現す放課後にしろ、おかしな様子を見せるわけでもない。

事の始まりに見せたあの熱っぽい思い詰めた様子は、あの衝突の衝撃できれいに蒸散してしまったかのようだ。



夕方が近くなり青色が濃く深くなり始めた空には、半透明に白く霞んだ月が出ていた。

坂田からは見えない。非常階段の鉄柵に緩く凭れかかる坂田の背後にそれは浮かんでいる。坂田に向かい合って立つ生徒からはそれが見え、丁度坂田の頭の右上にあるそれは、坂田が尖らせた口から細く吐き出す煙草の煙に燻されているようだった。

先生が好きだ。と生徒は思った。

たとえばこれは、普通にちょっと可愛い女の子に抱く想いであるとか、そういうものと同じなのだろうか。
しかし、それにしてはどこか違和感があった。胸が騒いで締め付けられるように苦しくなるにも関わらず、思っていると不思議とどこか安らぐ。坂田と対する時には、つまらない見栄を張ったり自分を取り繕ったりしなくてもいい気分になる。たとえば姉や、仲のいい友達といる時と同じように。
遠く離れたものに対する憧れと、まるで当たり前にそこにある近しいものに対する親しさ、坂田に対する感情はそれらがごっちゃになっている。

自分でもこれが何なのか、そしてどうしたらいいのか、わからなかった。
『お前とはない』などという言葉で拒否されたにも関わらず、思ったほどのショックがなかったのは、この想いの正体がわからないということがおそらくは原因だ。
坂田に拒否されたものと自分が坂田に向けたものが同じなのかどうか、確信が持てなかった。

ただ一つはっきりしているのは、あの土砂降りの夜、帰り際の車の中で味わった衝動と感触が、自分を強く捕えて放さないということだ。正体のわからない靄のような想いの中、それだけが鮮やかな輪郭と温度を持って自分の中で息づいている。

その記憶を帯びた場所で坂田は雑に煙草を挟み込んでいる。
当たり前の事であるにしろ、そんな場所がいかにも粗末に扱われる様はどこか恨めしかった。



生徒の内心も知らず、咥えた煙草を上下に動かしながら、坂田が言った。

「お前、明日日直だったよな。悪ぃけど、配布物たくさんあっから明日の朝、職員室まで取りに来てくんない」

「わかりました。ていうか、今、運んじゃいますか」

「時間いいか」

「いいですよ」

どうせ暇だし。
そう言うと、坂田は、若い癖に寂しい奴、と呟いた。

呟いた坂田が白衣のポケットに手を入れたまま、よっこら、と大儀そうに体を起こす様子を見ながら、生徒は、あんたといるのに寂しいわけがない、と思っていた。









配布物は二人がそれぞれに、重い、と感じる程の量があった。
両手で抱えて顎で抑えるようにしながら、遮られる視界に注意しつつ階段を降りる。

「何すか、この量」

「知らねぇ。俺に言うな。薬物乱用防止の冊子とか、そんなんだ」

遠い世界の話が詰まった冊子の山を運びながら歩く廊下に人影はない。
放課後の学校は異質だ。
昼間、多くの若い人間が発するエネルギーで溢れて息苦しいほどの場所が突然空になり、冷えて静まり返る。突然、死ぬのだ。そしてまた翌朝には何事もなかったかのように蘇る。
そんな一時的な死を迎えた廊下を、坂田と生徒は荷物を抱えてふらふらしながら歩いた。坂田の引きずるサンダルの音がやたらと響いて聞こえた。
死んでる学校を歩く先生は確かに生きている。



教室に辿り着いて、教卓の上に冊子の山を下し終えた時には、二人ともすっかり息が切れて汗をかいていた。坂田は拳で腰を叩き、溜息をつく。

「鍛え方が足りないんじゃないですか」

「違う。鍛え方が足りないんじゃなくて、鍛えてねぇんだ。お前こそ息切れてんじゃねぇか。もやしっ子が」

「もやしっ子とか言わないで下さいよ。万が一もやしでも強いもやしです」

「何だよ、強いもやしって」

くだらない遣り取りをしながら息を整え、汗を拭うとする事はもうなにもなかった。
坂田が手を中途半端な高さに上げる。

「ありがとな、もやし。そろそろ暗いから気を付けてな」

さよなら。今日はもうお終い。

「はい」

返事をした生徒に背を向けた坂田が足を踏み出そうとした瞬間、背後から何かに、ぐん、と引っ張られた。思わず転びかけてたたらを踏む。
何事かと振り返ると、生徒が白衣の裾を掴んでいた。

「おい」

生徒は黙って、掴んだ白衣の裾を手に巻きつけるようにする。
生徒の手に白衣が巻き付けられる度、坂田は後ろ歩きに生徒に近付く形になる。
後ろ向きに引っ張られる力は強かった。

「お前、わかってんの」

「わかってますよ」

だから、僕は僕の勝手にするんです、と生徒は言った。
これが何なのかはわからない。ただあるのは名前のない強い衝動だけだ。それならばその衝動の命じるままに動く他に出来る事があるだろうか。

「先生が困ったって知ったこっちゃないって言ったじゃないですか。先生が嫌でも何でも関係ないんです」

先生の事なんか、どうでもいいんです。僕は僕の勝手にする。

手で巻き込んだ白衣にはもう余りが残っていなかった。生徒の目の前、あと少し踏み出せば額が付く程の距離に坂田の背中があった。
引っ張られる力から解放された坂田は、前に向き直っている。後ろからではその表情は知れない。
生徒は、この正体のわからない想いを吸い取らせようとでもするかのように、巻き込んだ白衣をぐっと握り締めた。

坂田の様子を見ていればわかる。自分も馬鹿ではない。
生徒にやっかいなことを持ち掛けられて、ひたすら面倒で、溜息でも吐きたくなる、そんなところだろう。

だが、そんな坂田の内心を察しても、なおこうせずにはいられなかった。
どうしたらいいのかわからない、模糊とした霧の中で唯一見えている小さな出口がここしかないのだ。自分の好きだ、という馬鹿な言葉に同じ言葉を返されていれば満足したのか、そんなことすらもわからない。
だから、同じ言葉は決して返されないという事実を突き付けられても落胆さえ出来なかった。
これは一体なんなのか。
自分は一体どうなってしまったのか。



傾き始めた夕陽が教室に並ぶ机や椅子の影を斜めに長くしている。

「志村、」

向こうを向いたままの坂田が生徒の名前を呼んだ。

「俺はさあ」

坂田はそこまでで一旦言葉を切り、それから後頭部をぼりぼり掻いた。

それは坂田の癖で、実に面倒くさそうな様子が坂田らしく、生徒はそれを見る度にどこか懐かしいような嬉しいような気持ちになる。
しかし、今この時にそれを見た生徒は、その様子が坂田らしくあればあるほど辛かった。
目の前に立ち塞がるこの大きなものを、ありありと見せつけられるような気持ちになったからだ。
鼻の奥がつん、と痛む。それを堪えると、今度は涙腺が緩みかけた。
耐え切れず、生徒は手に巻き込んだ坂田の白衣に顔を埋めた。

視覚を閉ざしたため鋭敏になった聴覚が、坂田の低い声を拾った。

「俺は、色んな事に深い興味が持てねぇんだ。他人にも自分にも、他のいろんな事にも。だから、そうなるお前にも、そうさせる俺にも興味がない。
ただ考えるのが、出来るだけ面倒臭くねぇように、っていうただそれだけなんだよ。そういう意味で、お前が勝手にするならいい、勝手にしろと思った」

坂田がこちらを振り返った気配があった。

「そして、今もそう思っている」

坂田の声は淡々として低い。
生徒は白衣に伏せた顔を上げられなかった。

「多分俺は人間として欠落してる。…お前、それでも俺が好きか」

坂田の言葉は残酷で、肺の奥に冷たい水を注ぎ込まれるような心地のするものだった。
しかしその内容は残酷で刺すようでありながら、事を終結させる合図ではなく、更なる新しい問題を付き付けるものだ。

「わかりません」

胸の底から直接流れ出すような涙は坂田の白衣に染み込む前に眼鏡のレンズに遮られ、そこに溜まった。

「わからないんです」

小さく絞り出した弱い声だけが、煙草臭い白衣に吸い取られた。












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