おそらく雨が降る。

湿気を含んだぬるい風が汗ばんだ皮膚の上を舐めるように滑っていく。空には雲が厚くなり始めていて、時間のわりに暗かった。



助手席に座ろうとした生徒を制止して、後部座席に座らせる。
どこででも出来る話ではなかったので仕方なく車に乗せて、エンジンをかけた。
生徒は先ほどの様子からはかけ離れてタガが外れたようによく喋り、昨日付けた助手席側のキズに関してまで指摘するほどだった。

「うちの駐車場で擦った」

というと

「なんか、先生らしいっすね」

と、何やら嬉しそうな様子を見せる。それから、今日の授業の話を始め、実は自分は指名された時に居眠りしかけていたのだ、などという事を楽しそうに話す。

やっかいだ、と坂田は思った。
素直にしおらしく硬直でもしていれば労わってもやれるものを、このように緊張を隠して陽気を装われては、ヘタな触り方をしたらその緊張がおかしなふうに爆発でもすんじゃないのかという気がしてくる。一回り歪曲しているこの緊張をどこに逃がしてやればいいものか、教師として相応しい対応を考える。
のも、面倒くさい。

とにかく面倒な事になった、と言葉を選びつつ受け答えしながら坂田は運転を続ける。
正直な話、こんなやっかいな問題を目の前に置いた状態では運転するのも面倒だった。
だらしのない坂田は物事を確たる形に結論付けたり、決着させたりするのが苦手だ。苦手どころか嫌っている。おおよそ、何かを好いたり嫌ったりすることのない彼が唯一嫌いだと自覚しているのが、そういう事だった。
判断と決定を繰り返す必要のある車の運転も、出来れば避けたい事の一つだ。それをこんなややこしい判断を迫られながら行うのは坂田にとって大層骨な事だった。

かといって、別にこの車も生徒も嫌う気持ちにはならない。
ただ、面倒だ、と対象もない感想をぼんやり心に浮かばせるだけだ。

「どこに行くんですか」

至極まっとうな質問を生徒がする。
しかし、これは楽しいドライブではない。

「お前さあ」

坂田は、市街から離れない道を選んでウィンカーを出した。

「好きとか言われても、先生は困るわけよ」

考える内にすっかり面倒になった坂田は、放り出すように端的な言い方をした。これ以上考えることの面倒さよりは、端的な言い方を後でなんとかする方がマシだと思ったからだ。
面倒な事は後だ、後。こうして万事を後回しにし続ける坂田のそう広くもない盆の上からは、続々と新しく生じていく後回しに、蓄積した古い後回しが押し出されていく。押し出され、その縁から落ちていく。

「…わかってます」

生徒は思いの外落ち付いた口調で静かに返答した。逆上でもされるかと思っていた分、気が抜けたような心地がした。
というか、本当にわかっているのか、どうなのか。おそらくは、わかってないゆえのこの口調なのだろう。そう思うと、今度は別の意味で脱力する。

坂田は窓を少し開けてから片手で煙草を取り出し器用に火をつけた。
その様子を後部座席から見詰める生徒の姿がルームミラーに映っていたが、手元の火と信号に気を取られている坂田は気付かない。

「お前は俺の生徒だ。大切な。けど、そういうのはナシだ」

話を円滑に進めるための方便ならいくらでも使える。そして、話はできるだけ早い方がいい。

「わかるな?」

「…僕が生徒だからですか」

「あ?」

「僕が男で、生徒だから、先生は困るんですか。そういう事ですか」

後部座席で小さく座っている生徒は、朗らかな少年から、再び弱気なくせに強引な押し売りに姿を変えた。
坂田は少し間を置いてから、はっきりと、そうだ、と答えた。
全くそのとおりであったので、付け加える言葉もない。

「そう。お前が男で生徒だから困る」

突然、フロントガラスにボツッと大粒の水滴が弾けた。水滴はそれを皮切りに次々と落ちてくる。降り出した雨は、あっという間に視界を阻んだ。
作動させたワイパーが作る筋に目を細めて、悪化した道路状況に気を配る。

坂田には、雨が降るたびに蘇る記憶がある。できれば思い出したくはない記憶だ。
しかしそれは、明らかに今の自分を作った根源的な記憶の一つでもあって、厭わしく思う半面、酷く懐かしく、甘やかですらある。
その記憶には痛みと快感が同居していて、逃れ難く坂田の心を捕えて放さない。
雨の音と、ぬかるむ足元、痛み、罪悪感、そして喪失感。
それら全てが一体となって、日常を緩く生きている彼をふいに襲っては捕えるのだった。

辺りは既に夜になっていた。

「わかるな。だから、そういうのはなしだ。お前はいい生徒だし、俺も力不足だがいい教師でいたい。それが一番いい」

噛んで含めるように話しかける。
過ぎ去る対向車のライトに一瞬照らされるミラー越しの生徒の表情は眉が寄って、上手い切り返しを必死に考える風だった。未熟な者を見る時特有の、ある種の微笑ましさを感じないではない。但し、そこに自分が関わっていなければ、の話ではあるが。

「じゃあ、僕が卒業すればいいんですか」

坂田は思わず吹き出しかけたのを何とか堪えた。
話にならない。全くもって子供の受け答えだ。ごはんを食べ終わったらお菓子を食べてもいいんですか。そのレベルだ。

「卒業しても、お前は男だろうが」

「そんなもん、どうにでもなります」

「ならねぇよ、馬鹿。何言い出すんだ」

「そのためだったら貯金します」

「そのためって何よ」

幼稚を逆手に取った生徒の冗談に耐え切れなくなった坂田は、赤信号をいい事にハンドルにうつ伏せるようにして短く笑った。
背後で生徒も笑っていた。
胸の内を一度曝け出した生徒は、坂田の懸念を余所に、軽口を言うほど余裕が出てきたようだった。坂田は安堵した。
丸め込むなら、柔らかい方が容易い。

「先生」

「何」

「先生、彼女とかいるんでしょ」

笑いが治まり切らないままの口調で生徒が尋ねる。好きだ、などと言っておいて、女がいることが前提になっているその文法は生徒の保身の表れだった。
坂田はそれに気付いた上で、自らも口調に笑いを残したまま断言した。

「いる」

いつの間にか別れていた女は、3回寝た時点で既に飽きられていた。当然だ。自分に興味を持たない人間を好きでい続けられるような人間はいない。別に翻弄されたとも思わないが、その代わり自分が悪いとも思わない。
単に、自分というのはそういうものなのだと思っている。

生徒は坂田の返答を聞いて、少し黙り込んだ。
生徒が黙りこむと、車外の雨の音がいやに大きく響く。坂田は湿気でベタつく頭を掻きまわした。

「だから、お前とはないの。わかった?」

お前とはない、などという生々しい言葉を使ってしまってから若干坂田は後悔した。口の中に粘つくように言葉が残って不快だった。

「お前、家どこ。送ってやるから、案内し」

「先生が困るのは、」

口内の粘つきを吐き出すついでの、投げ遣りな坂田の言葉を遮って生徒が声を発する。
先ほどまでの軽い調子ではなく、かと言って非常階段での思いつめたものでもなく、一番近いのは、坂田に『律儀だ』と思わせた時の一句一句を区切るような丁寧な口調だった。

「僕が男で、生徒だからじゃないんですか」

「何?」

「それだけだって言ったじゃないすか。彼女がいるなんて、さっき言わなかった」

「そんな私的な事、生徒に言うか」

「彼女がいるって、嘘なんでしょう」

…さて、そろそろ本格的に面倒くさくなってきやがった。

理由が嘘だろうが何だろうが、そもそもないものはどう理屈を捏ねたってないのだ。それがわからないような子供を相手に、一体何をしろというのか。
駄々を捏ねる赤ん坊の世話なんか一般業務だけでもう十分、時間外労働もここまでだ。

「家まで案内しろ。送るから。そんで一晩寝て、落ち付け。話なら、また聞いてやるから」

低い早口で喋り、若干イラついた様子を見せた坂田に生徒は口を噤む。
大人を恐れて黙ってくれるのならそれでいい、と坂田は思い、一旦はやっかいな会話を続けなくてもよくなったことに安堵した。

それからは淡々と生徒が自宅までの道順を案内し、坂田は黙って運転を続けた。
雨脚は激しくなり、無言の多い車内を土砂降りの雨音が占領した。



生徒の自宅前で停まり、じゃあな、と帰宅を促す。
生徒は、はい、と大人しく返事をし、学生鞄を取り上げた。

坂田は、一つの仕事を切り上げた気持ちで、既に今晩の夕食の事を考えていた。冷蔵庫の中身、あんまりない、冷凍してあるのを解いて、買い物はいらない、でも煙草がない、角のコンビニで、ついでに何か甘いものを。

「先生」

生徒が例の律儀な口調で坂田を呼んだ。

なんだ、と別の事を考えながらぼんやりと振り返った坂田の前髪が突然掴まれた。
驚く間もなく、前歯に何か硬いものがブチ当たり、歯茎に響いた鈍い痛みに坂田は喉でくぐもった悲鳴を上げる。
悲鳴がくぐもったのは、声帯を震わせた音が外に出なかったからだ。
粘膜は殆ど触れない、その周りの皮膚の大部分で触れるようなそれは、口付けでもなんでもなく、ただの衝突だった。

坂田が、何すんだこのガキは、と思うのと同時に、生徒はまるで自分が唇を奪われたように怯えた様子で坂田を突き飛ばすように押しのけた。
制服の袖で口を拭いている。拭きながら言う。

「先生、僕は卒業します。先生を好きでいるために、必要なら貯金だってする」

「普通に卒業はしろよ」

「でも僕は、基本的に先生が困ったって知ったこっちゃないんです。先生の事なんかどうでもいいんです。僕がどうしようもないんだ。僕は僕の勝手にします。だからこれから先生を困らせると思います。すみません」

差し込む街灯の明かりだけでもわかるほどに顔を真っ赤にさせて捲し立てた生徒は、言い終わるやいなや逃げるように車外に飛び出して行った。
ドアが開いた一瞬だけ雨音が強まり、極端に大きな音をたててドアが閉められると、また元の音に戻る。

「…なんだそりゃ」

坂田は、自分の判断や決定といった思惑を踏み越えた生徒の強引さに呆気にとられた。
それから唇の端に附着した少しの唾液を指で拭い、唇に触れるその指が荒れている事に気付いてそのままその指先を咥えた。

俺の事が好きなのに、俺の事なんかどうでもいいそうだ。
押し売りのくせに買わせる気がないらしい。
わけわかんねぇ。
わけわかんねぇとは思ったが、あの生徒は勝手にする、と言った。じゃあ勝手にしろ、と坂田はもう事を投げ出す気でいる。


向こうがこちらに何も求めないならまだ気が楽だ。俺は後始末だけ考えればいいのだから。何もないのが一番いいが、あの様子ではそれもできない。
どう勝手にするのかは知らないが、あんまりやっかいな事はしてくれるな、とそれだけを思って、咥えた指先を子供のように吸って音を立てた。



坂田は、雨が流れるフロントガラスを見ながら、なんでもいいから早く帰って風呂に入りたい、と湿気を含んでべとつく頭を掻きながら思った。











<< prev   next >>

text

top



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -