サルベージ 1


疲れた頭で車庫入れをしたら、車の左側面をフェンスに擦っていた。



車外に出て確認すると、キズ隠しでは誤魔化しきれない深さで塗装が抉れていた。それを見下ろして少し考えてから、見なかった事にすると決める。
そのまま傷んだドアを開け、誰も乗せた事の無い助手席に放ってあった鞄を掴む。口を閉じていなかった鞄から、未決のままの起案書類と教科書がドサドサと駐車場のアスファルトの上に落ちた。
紙に紛れて同時に落ちた携帯には、着信したまま確認していないメールが何件か溜め込んであり、無言で青いLEDを点滅さ上げようとするはずみでそれを、踵を踏んで突っかけている靴の先で蹴飛ばしてしまう。

車の下に滑り込んでしまった携帯の無機質な青い点滅を、ぶちまけた紙の上にしゃがんで見詰めながら、坂田はひどい癖毛の後頭部を二、三度掻いた。



坂田は、だらしのない男だった。
仕事は教師だ。高校の。世間一般にはだらしのない人間という印象からは遠い職業だったが、どこにでも境界線に近い人間はいる。
それに、人並みの紆余曲折を経てこの職業に納まるべくして納まったと自分で納得をしている彼にとって、職業にふさわしい個性を獲得しようとする努力など今更必要のないものだった。

自分の負の個性を認めて許容している、というような高尚な話ではない。
彼の中には単に、彼が自分の個性を始めとしてあらゆることに興味がない、というただそれだけの非常にシンプルな事実が、あっけらかんと転がっているだけだ。

「サルベージ」

車の下に伸ばした手の中指が、硬い携帯の側面を掠めた。
手繰り寄せようとした爪先が硬いプラスティックを弾き、捕まえるには僅かに及ばないほど逃げる。膝の下で踏み付けた書類がよれる音がした。

うまくいかない事などしょっちゅうだ。だらしがない自分の自業自得でそれは頻繁に起こる。しかし何が起ころうと、彼にとってはせいぜい後頭部が少し痒くなるくらいのことで、一々苛立ったりはしない。
なぜなら、自分がだらしがないことも、それによって事がうまく運ばない事も、彼にとって全く興味の対象にならないからだ。

興味のなさでいえば、自分のことはもとより、他人についても周囲の環境についても興味がない。森羅万象あらゆる事に興味がない。世界のすべてに興味がない。
いつの間にか出来ていた人差し指の逆剥けも、いつの間にか別れていた女も、ドバイの超高層ビルもアフリカの飢えた子供も、明日の天気も今後の日本社会もほったらかしてある小テストの採点も昨夜の煮物の味付けも、同じレベルで興味がない。

こういう自分は、おそらく人間としてどこかが欠落しているのだろうと彼は思っている。
しかし、自分が欠落しているかもしれないという事にもまた、彼は興味がないのだった。









「先生」

呼ばれて顔を上げると、生徒が一人が前に立っていた。

放課後に非常階段の鉄柵に凭れて喫煙していたのは、最近学内が禁煙になったからだ。生徒の手前もある。
呼びかけられてはなおのことで、胸ポケットに仕舞っていた携帯灰皿を取り出して、ほんの吸いさしをねじ消す必要があった。

「あ、すいません」

生徒は坂田の喫煙を邪魔した事に恐縮したが、彼には何故謝られたかわからない。
何の事だ、と思って生徒の顔を見直した事で、初めてその生徒が誰だかを特定した。

あ、眼鏡。
風紀委員のゴリラが一方的に好いている、同じゴリラ族の女生徒の、弟の、ひ弱い眼鏡。

坂田は、人間をその人そのものよりは、その人の表面的な特徴やその人を取り巻く表面的な関係性だけで認識したがる癖がある。
教員が取り扱う商品としての生徒も漏れなくその対象で、商売としてはある意味正しい姿勢なのかもしれなかったが、世間が教員に要求する姿勢としては甚だ問題があった。

「すいませんって、何が」

初夏の強い夕陽が坂田の背後から差し込み、目の前に立つ生徒の輪郭をかすませた。ひ弱い眼鏡の、眼鏡が、強い斜光を反射して白く光り表情がわからない。

「休憩中に邪魔してすみません」

表情のわからない生徒は律儀に言いなおした。律儀さが目立ったその様子が薄っすら可笑しかったので、ひ弱い、律儀な、眼鏡だ、と坂田は生徒の表面的な特徴を付け加えてみた。

「いい。で、何」

「あの、」

生徒が切り出しかけた時、着潰す寸前の張りのない白衣の裾が、運動場から吹き上がる砂を含んだ風に膨らんではためいた。
ポケットに押し込んだ煙草一式とその他の何だったか思い出せない小物類が重しになって、くたびれた白衣は辛うじて捲れはしなかった。が、梅雨明けの質量のある風は二度に分けて吹き、二度目の風は怠惰な男が漫然と詰め込んだ重しに勝った。

煽られた白衣のポケットから、残量の少ないライターが滑り落ちる。
落ちた小さなプラスティックは、よく響く硬質な音を立てて非常階段の金属の足場に転がり、生徒の上履きの先にぶつかって止まった。
他意のない無機物に邪魔をされた会話は不自然に滞り、生徒は居心地悪そうに俯いてしまう。
そのような生徒を余所に、坂田は踊り場の外に落ちなくて良かったなどという事をのんびりと考えた。

落ちたライターを追って俯いている坂田の目に、ふと、反射のなくなった生徒の眼鏡の奥が見えた。
生徒の目は何かを躊躇うように、或いは決意したように視線を伏せていた。そんな目をしたまま、途切れた言葉の続きは出てこない。
坂田は、何となく痒くなってきた後頭部をぼりぼり掻いた。
とりあえず生徒の爪先の前に落ちたライターを拾うために体を屈めた。
ほんの少しの努力で届く距離にあるそれに人差し指を伸ばす。荒れて逆剥けの出来た指がライターに触れかけた瞬間、予想もつかなかった事が起こった。

生徒の上履きの爪先が、ざり、と鉄板を擦って動き、ライターを踏み付けたのだ。
生徒の小奇麗な上履きの先に、坂田の荒れた指先がぶつかった。

何が起こったのかわからない。いや、起こった事そのものはわかる。わからないのは、これが何なのかだ。こいつは何をしている。
喧嘩でも売ってんのか。

体を屈めたままの坂田が警戒しつつ

「おい、…足」

と声を発したのと、生徒が途切れていた言葉を再開したのは同時だった。

「先生。僕、先生の事が好きです」

言い終わらない内に、生徒は屈みこんだ坂田に覆い被さり、元からの癖毛が風に吹かれて余計好き放題になっている頭を両腕で抱き締めた。

「好きなんです、先生が」

坂田の耳のすぐ下で、湿った熱い声が思い詰めたように同じ言葉を繰り返した。

囲い込む腕の中、唐突に外界から遮断された閉鎖空間で、坂田はそんな言葉を聞かされた。
つまり、生徒が売ってきたものは喧嘩ではなかった。

坂田は何を言われたかわからず一瞬呆然とし、やがて抱きこまれた頭に熱が籠り始めた頃にようやく生徒の言葉の意味を理解した。
理解した言葉の内容に、坂田は痒くもない頭をまた掻きたくなったが、生徒の細い、しかし硬く強張った腕に頭を抱え込まれているせいでそうする事も出来なかった。
坂田の頭を抱え込む力はやたら強い。この世の終わりのように強かった。

好意というのは悪質な訪問販売みたいなものだ。こちらにその気がなければ、いつでも押し売りに姿に変える。
喧嘩を売られた方がいくらかマシだった。

「先生」

恫喝するだけが押し売りの手法ではない。
生徒の声はあくまでも思い詰めて悲壮ですらある懇願の体だったが、纏う気配は有無を言わせない強引さがある。坂田の頭を抱え込む腕の強さがその証拠だった。
こいつはあれか、俺の頭を離したら死ぬのか。



驚くべき告白をされたうえ上体を抱きこまれているという状況にあって、言葉の意外性に瞬間驚きはしたものの、それきり坂田の内心は平静だった。全くと言っていいほど、心が動かなかった。
自分の何が、とか、一体何で、とか、とにかく驚いた、とか、思う事は多々あったが、だからといって別に動揺はしない。
動揺するほどには、色々を思わなかった。

興味がないのだ。
おそらくは自分の何かがこの生徒にこんな事をさせてしまったという自覚、というか、そう思ってやるべきだという大人の分別はあったが、かといって、それ以上の事は思わなかった。生徒にこんな事をさせた自分にもこんな事をした生徒にも興味があまり湧かない。
薄情だと言われればそれまでだが、これは彼の個性であるのでどうしようもない。

この、律儀な眼鏡の押し売りに、出来るだけ円満にお帰りいただくにはどうしたらいいのだろう。

などという事をぼんやりと思いながら、生徒の上履きに指で触れる。
生徒は感電したように体を震わせたが、坂田は構わずその足の甲を鷲掴み、少し持ち上げた。

「サルベージ」

内心の言葉をだらしなく口から洩らしながら、生徒の足の下に指先を潜り込ませてライターを拾い上げる。焼けた鉄板と生徒の足に挟まれていたライターは僅かの間に熱を持って熱くなっていた。

「…先生」

生徒は病人みたいに息切れした声で、しかし悲鳴のように呟いて、坂田からようやく体を離した。ふらつきながら傍にあった壁に背中をつくと、そのまま力尽きたようにずるずると尻をついてしまう。

そして尻をついた低い視線から坂田を見上げて言った。

「先生、…サルベージって何ですか」

解放された首筋が涼しい。
坂田は元の通り上体を猫背気味に起こした。拾い上げたライターをポケットに滑り込ませる。
そして、生徒を見下ろして言った。

「海難救助とか、沈没船から荷物を引き揚げるとか、そういう意味だな」

それはまるで、こんな状況に相応しくないほど何気ない、さっきまでの授業の延長のような遣り取りだった。




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