娘達は寂しがり屋だ。仲間がたくさんいる方に行きたがる。これは操作などという複雑なものではない。単に、娘達の性格を理解しているかどうかの話だ。明日には土方の会社は持ち直しているだろう。

『うれしい?』

娘達が痩せた頬を無邪気に笑わせて俺に訊く。

『うれしいよ』

俺が答えると、娘達は

『もっとしていい?』

と言った。

『また今度ね』

『そんなのつまらない』

娘達は不満を露にしてざわめいた。
いくら俺が彼女らを理解して彼女らに愛されていたとしても、秋の空のように変わりやすいのが女心だ。俺は彼女らをなんとか宥め、間違っても彼女らの愛が他へ移らないよう細心の注意を払った。
女を愛さない俺は、この仮想の女達の奴隷になるのが宿命なのだろう。

首に食い込む絹糸は目に美しく肌触りがよく、そして引きちぎろうとしても決して切れない。
土方の首に巻き付いた切れない絹糸を、俺はほぐしてやった。ほぐした絹糸はほぐす端から喜んで俺の首に巻き付いた。




父が死んだのは土方の会社が持ち直してからすぐの事だった。
本人も周囲も風邪だと思っていたものが風邪ではなかった。そうだと気が付いて慌てた時には、もう父の息は止まっていた。まるで冗談のようだったが冗談ではなく、報せを聞いて帰宅した俺が触れた父の綺麗で繊細で優しい指は、二度と俺の指を握ってはくれなかった。

父の名は全く知られていない。財界の鬼と呼ばれる男の後継ぎは瓜二つの三代目で、間にいる二代目は屋敷にとじ籠って遊んでいるらしいというのが世間の認識であったから、葬式はとても簡素なもので済んだ。個人的によく知る人間だけが集まって執り行う儀式は、消耗した俺には救いだった。
かねてから俺は、祖父さんから父を自由にしたいと思い、そのためには祖父さんを殺してでも、と思っていた。そうであったのに、父は祖父さんも俺も置いて、さっさと死んでしまった。




喪服の祖父さんが、昔、俺を沈めた池のほとりにしゃがんでいる。
俺が近寄ると祖父さんは、疲れた目を水面に向けながら

「サロメと呼ばれているそうだな」

と呟いた。

「俺の血筋の者が淫婦の名で呼ばれるとはな」

祖父さんは、俺が女を愛さない男である事は知っていたが、男に媚びる女である事までは知らないはずだった。
俺は俺が祖父さんから受け継いだものが男に犯される事に快感を覚えるが、それを祖父さん本人に知らせたいとまでは思っていなかった。
返事が出来ない俺の傍らで、祖父さんは淀んだ池を見詰めながら

「洗礼者ヨハネは、」

と言った。

「洗礼者ヨハネは、サロメの母親と王の近親婚を非難した。サロメはヨハネを愛したが、ヨハネはサロメの愛を拒絶した。サロメは母親の夫である王の前で舞を舞い、褒美は何が欲しいかと尋ねられる。サロメはヨハネの首を所望したが、それは近親婚を非難された母親の望みでもあった。サロメは男の首を手に入れ、盆に載せて接吻した。…その後どうなったと思う」

「…さあ。知りません」

「サロメは、その所業を恐れた王に殺された」

祖父さんは視線を池から俺の顔に移した。
みれば見るほど俺にそっくりだが、当然だろう。王とサロメは血が繋がっている。

「俺を殺しますか」

「くだらねぇ」

祖父さんは生まれの賎しさそのままの口調で吐き棄てた。

「少なくとも、お前の父親はお前がそうなる事を望んではいなかった」

足下には時季を終えたツツジの花弁が無数に散っていた。
唯一の良心をなくし、どうしたらいいかわからなくなった悪人二人は、靴の裏に薄い花弁を踏み締めて途方に暮れていた。

「お前は俺を無学で野蛮な人間だと思っているようだが、それでもそれなりに勉強をした。サロメという名の語源を教えてやろうか」

「何ですか」

「シャローム。ヘブライ語で平安や充足といった意味だそうだ」

父の入れ知恵だ。俺は瞬時に悟った。父は全てを知っていたのだ。

「俺から最も遠い言葉ですね」

そして祖父さんからも遠い。
祖父さんはそう呟いた俺に言った。

「名前は、そのものを表すだけでなく、そうあれかしという願いからも付けられるものだ」

祖父さんが、初めて俺に対しての愛情のようなものを言葉にした。
俺は驚いた。心底、驚いた。

「…ずいぶんと弱気でいらっしゃる。もうすぐ死ぬのですか」

長年の習いから嫌味な返答しかできぬ俺に祖父さんは

「そうだな」

と言った。
今夜屋敷が火事になれば、とは言わなかった。




祖父さんは、今まで何があろうと離さなかった最も強い会社を俺に譲渡した。
そして、どこかで見た事のある人間を俺の前に突き出した。

「お前のような出来損ないには荷が勝ちすぎるだろうから、よく使える召し使いをおまけに付けてやる。せいぜい巧くやれ」

『召し使い』は、蓼科で三軒むこうの別荘にいた奴だった。
俺はすぐに思い出したが、そいつは全く覚えておらず、

「なんでお前の髪はそんな色をしとるがじゃ」

と、ぽかんとした顔で言った。相変わらず堪えない男だった。




祖父さんがどこまで知っているのかはわからなかった。だが俺は、俺を殴らず罵倒もしない祖父さんを殺そうとはもう思わなかったし、思う事は出来なかった。

「あんたは清らかな身になって、残り少ない余生を楽しめばいい。呪われた金は、全部俺が引き受けてやる」

祖父さんは自分そっくりな俺を赦し、俺は自分そっくりな祖父さんを赦した。つまり二人の悪人は、ようやく自分自身を赦す事が出来たのだろう。

祖父さんは、

「好きにしろ」

と言い、お勉強をするから消えろ、と素っ気なく言った。
隣人愛よりも優れる、未来に現れる者に対する『遠人愛』について書かれた本を、この老人は今後は注釈なしに読む事になるのだ。
俺はそのまま部屋を出た。

ドアを閉めかける瞬間、細長く切り取られた室内にひとりでいる祖父さんが見えた。
本の頁に目を落としたままのその唇が、シャローム、と呟いた。
汝に平安あれ。
出会いの挨拶にも別れの挨拶にも使われるその言葉は、誰に向けたものだったのか。




学天則を呼んだ。
学天則は確かにからくりのような女で、普段接する事のない主人の前でも別段緊張した様子はなく、あまり動かない目の玉をただ見開いていた。

「あちらの家に帰りなさい」

父が死んだから人手が余るようになったのだと言うと、学天則は

「左様でございますか」

と相変わらず動かない目の玉で言った。特別な感情の現れないその様子に、おや、と思い、

「山崎が喜ぶだろう」

と意地悪く言ってみた。父が死のうと祖父さんが大人しくなろうと、俺の趣味は健在だった。

「…やまざき。それはどなたですか」

何だと。

「山崎だ。沖田の家の、執事の…」

予想もしていなかった反応に俺は呆気に取られ、らしくなく戸惑いながら説明した。
学天則は、

「ああ。あの、執事の方」

と、初めて山崎の名前を聞いたように言い

「執事に喜ばれるほど、私は有能な女中ではございませんが」

と、全くの無表情でいる。

なんなのだ、こいつらは。

沖田とテラスから見下ろした山崎と学天則は、確かに熱心に話しかけるのは山崎の方だったにしろ、この女も悪い気はしないという顔をしていたはずだ。

山崎にしろ、 この女にしろ、一体何を思って生きているものか理解に苦しむ。
やはりあの家は、たかが三代の家とは比ぶべくもない古い家なのだ。重厚な屋敷の奥には、得体の知れぬ狐狸の類ばかりが棲んでいる。




得体の知れぬ狐狸どもの主に会いに行った。

「旦那、あれ」

沖田は、いつかと同じように俺達が立つテラスから庭を指差し、

「土方の奴が、俺と旦那にヤキモチ焼いてやがる」

と、さも面白い物を見たというふうに言った。

テラスの庭にあるベンチに土方が座っている。
ベンチはテラスの真下にある。こちらからは奴のつむじしか見えぬので、奴がそんなものを焼いているのかどうかはわからなかったが、沖田がそう言うのだからそうなのだろう。
沖田の態度は、つい先日に自分を乱暴した相手にする態度ではないし、恨まれているかもしれないと泣く程に惚れている相手にする態度でもなかった。まるであの日にあった事を丸ごと忘れてしまったかのように、従前と変わらぬ素振りだった。
まさしくこいつは狐狸の親玉なのだと思った。
だが、こいつが化け物であろうとなかろうと、やはり俺はこいつの才能が惜しいのだ。

「沖田君。金儲けは面白いよ。あれは、性格が悪ければ悪いほど成功する。君のその最悪な性格は、金儲けにとても適していると思うんだが」

最早望みはないと知っていながら未練がましくならざるを得ないほど、こいつの才能は素晴らしい。
我ながら女々しいと思う俺の発言を聞いた沖田は、音もなく目を細めた。

長い睫毛が半眼の目に被さって、紗をかけたように瞳が隠れる。そして、薄い唇の端がそれとはわからぬほどに薄っすら上がる。
今まで見た事がない沖田のその表情は酷く優しかった。
まるでフレスコ画の聖母のように慈愛に満ちていた。

一瞬息を呑んだ俺に、聖母の顔をした沖田は、旦那、と声をかけた。

「あんた今、滑稽なくらい無様ですぜ」

そう言うなり聖母の表情を崩した。大きく吹き出し、体を二つに折って大声で笑った。

下の土方が、何事かと顔を上げている。
その視線を感じながら俺は、体を折る沖田の手首を掴み上体を持ち上げて、哄笑で開いた口に力任せに自分の口を重ねた。

やはりこいつの才能は本物だ。
俺は沖田の舌を吸い上げながら、半ば感動していた。あの生真面目な土方どころか、この俺までをも嬲りやがった。
涙が滲む程の怒りと、そして同程度の欲情が湧き上り、俺は沖田の口を吸いながら笑い出していた。断続する笑いの発作にやがて耐え難くなった俺は、沖田の体を半ば突き飛ばして奴を離した。下からの土方の視線が刺さるようだった。

「旦那。あんたは滑稽なくらい無様で、だから、とても可哀相だ」

沖田が言った。
俺は沖田の言うとおり無様だった。だが、可哀相なのかどうなのかは知らない。俺は自分以外の奴が俺をどう思っているのかなど、興味はない。
首を俯けてテラスの手すりに腰で寄り掛かる俺に沖田は手を伸ばした。そして、あの魚の稚魚のような綺麗で繊細で優しい指で、俺の髪をそっと撫でた。
髪の間を梳いていく華奢な指の感触に、俺は眉を寄せて目をきつく瞑り、肺の底から込み上げる何ものかを震える喉の奥に押し込めた。

あの日、俺は沖田を犯したが、もしも沖田がこの優しい指で俺を抱いていたのなら、筋書きは全く違うものになっていたのかも知れないなどと、俺は全く詮無い事を考えた。

俺の髪を子供のそれにするように限りなく優しく撫でながら沖田は言った。

「俺は贅沢には興味はありやすが、金にはこれっぽっちも興味がありやせん」

「…そうだろうね」

俺は髪を撫でる沖田の指を取り、ぎゅっと握ってから、その爪の先に口付けた。




「お前には感謝している」

庭に下りて来た俺に土方が言った。
今ほどの出来事を見ていたはずだが、それには触れない。実に紳士だ。生真面目なこの男らしい振る舞いだ。

「感謝なんかされる筋合いはないね。俺は、俺の都合で勝手にやっただけだ」

「それでも、感謝している」

土方は、不誠実な表情をしているに違いない俺の顔を真正面から見据えて再度礼を言った。
この男は俺の援助で自分の会社が立ち直った事に感謝しているが、その実、そもそも会社を傾けたのは俺なのだ。感謝などされるいわれはない。

「…この借りは必ず返す」

土方は、そんなふうに言った。
俺は目の前にある土方の顔をまじまじと見た。目尻の切れ上がった、歌舞伎の女形をさせてもみたくなるような、文句なく美しい顔。それでいて視線は硬く、他者を拒んで寄せ付けないのだから、土方は、まったくもって俺好みの男だ。
この美しい顔を屈辱と快感に歪めさせてみたい。今まで受けたこともない処遇に、絶望して泣き叫ぶ美しい顔が乗ったその首を、ゆっくりと掻き切ってみたい。

「なら、今ここで返してもらおうか」

「…なんだと」

俺の言葉に微かに怯んだ土方の襟をおもむろに掴む。掴んで強引に引き寄せ、そして、その清潔な唇を奪ってやった。
テラスの上から見物していた沖田が、行儀悪く口笛を吹いた。

たっぷりと時間をかけて貪ってから、俺は名残惜しく土方の唇を解放する。

「ご馳走様」

口の端からこぼれた涎を舐めつつ卑猥に笑って言った俺を、生真面目な土方は本気で殴った。




それ以降、奴らには会っていない。
だから、奴らがどうなったのかは知らない。

世間は勝手に激動し、俺は祖父さんから受け継いだ俺の持つ全てを守る事だけに専念した。
俺の予想通り、娘達の怨霊は激動を餌に果てしなく肥大化していった。俺は彼女らに愛される幸福に浸りながら、時を経るごとに質量を増す生糸に縊り殺されていった。
窒息しながら俺は思った。
土方には、娘達の中でも性質のいいものを分けてやった。あの生真面目な男でも御する事の出来そうな娘達を俺は選んでやったのだから、後の事は俺の与り知らぬところだ。娘達に愛されるなり愛想を尽かされるなり、好きにすればいい。
だが、俺は実のところ奴らの行く末に関しては何の心配もしていない。
何故なら、土方の傍らには、俺に取り憑く娘達にも見劣りしない大層な化け物がついているからだ。

結局、俺は俺と共に在る共犯者を得ることが出来なかった。
祖父さんがそうであったのと同じだ。
だが、まあ、仕方がない。これは俺が金と共に受け継いだ、祖父さんの悪行の報いであるのだから、ずるく抜け駆けしたりするのは許されないのだろう。




裸身に絹を纏う俺は、平安と充足を意味する名で呼ばれている。
その名で呼ばれる事に、不満はない。
あるはずもない。

俺は、Shalomの名が示す通りの満ち足りた安らぎに目を閉じて、白く輝く滑らかな、呪われた絹を愛しく撫でた。









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