苛立ちに任せて歩いていたら、開け放されたドアの向こうから

「騒がしい。静かにしろ」

分厚い本をめくる老人が、頁に目を落としたままこちらを見もせず叱責した。この年寄りが本を開く時には必ず傍にいるはずの教師が、今日はいない。

「ひとりでお勉強ですか。珍しい」

「あいつは風邪だ」

祖父さんは、持ち主が不在であるのをいい事に勝手に拝借している眼鏡をかけた顔で言った。

「随分と早く帰って来たようだがどうした。お姫(ひい)様はものにしたのだろうな」

「してきました」

俺の返答に祖父さんは如何にも穢らわしいものを見る目で俺を一瞥し、ならいい、とだけ短く吐き棄てた。これが祖父さんの誉め方だった。殴らない、罵倒しない、それでもって俺は祖父さんに誉められているのだと悟る。




父の部屋へ見舞いに行くと、父はベッドの上で体を起こしていた。窓の向こうの庭には、部屋から漏れる灯りに暗く照らされてモノクロに見えるツツジが満開になっていた。

「こちらに来てはいけませんよ。伝染ってはよくありませんからね」

まるで子供扱いだが、そうされる事が俺は嬉しい。俺は幸せな気持ちで笑いながら言い付けを破って父のベッドに近付いた。そういう俺を見て父も笑った。掛け布団の上に繊細な長い指のついた手が載っていた。

線の細い父の外形はどこかしら女性的だ。改めて思えば、女親のいない俺にとって、この優しい父は父でありながら母でもあった。そして、後継ぎである俺を打擲する祖父さんは祖父でありながら父だった。
俺は気の毒な父を暴虐な祖父から救いたいと思っている。出来るものなら祖父を殺してでもそうしたいと。
俺はサロメと呼ばれているが、他方では母を愛して父を殺すオイディプスだ。

「小さい頃のあなたは、やんちゃが過ぎるせいで鬼っ子などと呼ばれていましたが」

生意気な使用人を二階の窓から突き落としたり、気に入らない献立の皿を壁に投げ付けたりするのが『やんちゃ』の域に入るなら、確かに俺はやんちゃな子供だった。

「私はこんなに愛しいものが鬼であるはずがないと思ったものです」

「俺は未だに自分で自分が鬼のように思えます」

「違いますよ」

「ある人間を俺の身勝手で破産させた」

「後悔していますか」

「していない」

父は布団の上の手を上げ、その綺麗で繊細な指で俺の指を取り、ぎゅっと握った。

「祖父さんを恨んでいる?」

俺の問いかけに父は、

「まさか」

と答えた。

「…祖父さんは恨まれていると思ってる」

「それはどうでしょうね。万が一あの人がそう思っていたとしても、私はそう思っていませんし、そういう気持ちは自然と伝わるものです」

「………」

俺に犯される体を縮こまらせた沖田は、土方に恨まれている事を恐れて泣いた。しかし俺は土方が沖田を恨んでなどいないと知っている。
沖田は俺が思っていた何倍も愚鈍だった。あまりの愚鈍さに、上等の餌を与えられたと思ってかつてないほど興奮していた俺の欠落は、一気になりを潜めた。

考えてみれば、野に育った野性児を愚鈍と評するのは間違いなのかもしれない。ああいうのは、愚鈍でなく純粋というのだろう。そして知的な都会人が持つ邪な知性は、野性児の純粋の前に恥じ入った。

「何故、恨まれていないのに恨まれていると思うのだろう」

「臆病だからですよ。人間はみんな臆病に生まれついているんです。だからおかしな行き違いが起こって不幸になる」

父はそう言い、握った俺の指をそっと離した。

「そんな臆病さなんか捨ててしまいなさい」

それが出来れば苦労はないが、出来ないのが普通だ。そして世の中の人間は大半が普通だ。インテリの父は理想主義なのだと思った。
俺は仕事があると言って父の傍を離れ、部屋を出ようとする。その背中に声がかかった。

「ヘブライ語の挨拶を知っていますか」

こんにちはもさよならも、みんな同じ言葉を使うんです。

「…何という言葉ですか」

「シャローム。平安や充足、そんな意味です。『あなたに平安がありますように』ヘブライ語ではそう挨拶するんです。…人間が生来持ち合わせている臆病に邪魔されて不幸な行き違いが起こらないよう、挨拶でその言葉を交わすんです」

「………」

父は祖父さんの唯一の良心だったが、同時に俺の唯一の良心だった。

父の部屋のドアを閉めた俺は、俺の株式を管理させている者を呼んだ。
娘達の怨霊に、救い難く臆病な男の再度のわがままをきいてもらうためにだ。




蓼科での輝かしい夏のある日の事だった。
いつも入り浸っている百姓の家の中庭で、数羽いるアヒルの首を荒縄を使って20センチ程の短い間隔で繋いで遊んでいたら、その家の子供が俺に駆け寄ってきて言った。

「銀時。お前んとこの三軒むこうに来た新しい奴。ぜってぇ泣かねぇんだ。生意気だ」

初めてこの別荘地に来る子供は必ず俺達から洗礼を受ける。男なら容赦ない拳で、女なら卑猥な嫌がらせの、ひ弱い金持ちの子弟には少なからずショッキングなそれを受ける。
従属するならよし、逃げるのもまあよし、歯向かうなら叩き潰す、しかし、たちが悪いのは堪えない奴だ。
俺は数珠繋ぎになったアヒルを眺めるのをすぐに止め、別荘に戻った。

そいつは、人より背が高く体格がいい俺よりも更に大柄だった。
俺が睨み付けるとそいつは人懐こくニコニコ笑って、なんでお前はそんな髪の色なんだ、と訛りのきつい言葉で心底不思議そうに言った。
気にしている事をはっきりと言われた俺は、ものも言わずにそいつに掴みかかった。そいつは逆上した俺にあっさり殴られた。殴られたそいつはびっくりした顔で

「何をするんじゃお前は」

と言った。言ったが全く泣かなかった。ただびっくりした顔でぽかんとしていた。
確かにたちが悪い。
もう一度殴りかかった俺にそいつが慌て、慌てながらも反撃した。そいつの拳骨が俺の頬にぶち当たって鼻血が出た。見ていた乱暴自慢のガキどもが、自分達の大将に一撃を食らわせた泣かない生意気な新入りに腹を立てて罵声を上げた。

瀟洒な別荘地の一角で、二人のガキは野蛮な殴り合いをし、そして俺は生まれて初めて負けた。
俺の暴力は祖父さん仕込みだ。それが初めて敗北したのだ。俺にとって最も強く絶対に逆らえぬものであるはずのそれが、惨めに捩じ伏せられたのだ。
俺は悔しくて泣いたが、泣きながらも、何とも言えぬ不可解な快感を覚えていた。その快感を言葉にするなら、『ざまあみろ』。

俺はそいつと喧嘩をし、そいつの暴力が俺の暴力を凌駕する度にえも言えぬ快感を味わった。
俺は、祖父さんの生き写しだ。俺は、祖父さんをそっくりそのまま受け継いで生まれた。俺の中にある歪んだ性格や暴力性は、祖父さんその人そのものなのだ。
つまり殴られて捩じ伏せられるのは俺ではなく、祖父さんだった。
敵う者などないような祖父さんが捩じ伏せられる事に、俺は爽快感にも似た快感を覚えたのだ。

そいつは全く天真爛漫な奴で、暴力を振るう事に何の含みもなかった。単に粗暴な田舎で育ったせいで力にものを言わせる事に抵抗がなかっただけで、俺を殴るそいつの内心には何の屈託も屈折もなかった。だからどれだけ激しい乱闘を繰り広げようと翌日にはケロッとした顔をして、すっかり打ち解けた俺達と盗んだ真桑瓜を食べて笑ったりしたものだ。
複雑な感情の入り込まない、からっと乾いた純粋な暴力。
そんなものに俺を支配していた祖父さんの暗い欠落が征服されるのは例えようもなく快感で、だから俺が12の夏、田舎の悪習に何の疑問も持たないそいつに、まるで取っ組み合いの延長のように犯された時も、俺はそれを快感として受け取っていた。




自室に戻り、ベッドに潜り込む。
寝入り端に、疲れ切った俺の意識はまた、蓼科の夏を再生していた。
ないはずの夏の日差しに、閉じているはずの目を眩しく焼かれた気がした。

俺の正気を保つ健全の拠り所でありながら、その後の俺の不健全を培ったあの高地を、俺は愛すればいいのか憎めばいいのかわからない。








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