「そいつは売りもんじゃねぇ」



身動ぎを封じられている銀時が、ベッドに転がされたまま強い声を出す。
痣の男は顔面に張り付かせていた笑いを消して、転がる銀時を見下ろした。

「…お前とは話してねぇんだよ。俺は、そこのガキに言ったんだ」

なあ、僕。
と再び新八を見た男の顔がまた暗く笑う。

新八は状況が飲み込めない。男が自分に何を言ったのか、理解が出来なかった。

銀さんを、何だって?

壁に寄りかかって傾いた顔の上で眼鏡が少しずれていたが、直すことも思い付かずに、理解できない男の言葉を頭の中で何度もリプレイした。
理解できない言葉を聞いたはずの新八の、木刀を握る掌は変に汗ばんでいる。

「可愛がってやれよ」

「なに…?」

「さっき言ってたろ、お前。抱くなら可愛がれってよ」

途端に動悸が激しくなった。

聞かれていた。

汗で滑りかけていた木刀を握り直す。握り直しているつもりの動作はまるで縋るようで、手がみっともなく震えた。耳の奥で鳴る鼓動がやかましく、鼓膜を内側から破るのではないかと思われる。
何か言い返さなければと口を開くが頭が追い付かない。唇が意味のない言葉の形だけを作りかけては失敗した。

「こっちに来い。それで、こいつを抱け。自分で言ってたようにな」

悪意に満ちて薄ら笑う男に畳み掛けられ、新八はうろたえた。
うろたえきって、最早どうしたらいいのかわからない。
内心に潜ませた、外に漏らすべきではない感情。その感情が無意識に呟かせた言葉を聞かれた。聞かれた上に、それを公表された。愚かな男達や、他でもない銀時の前で。
どうしたらいいのかわからない。



「いい加減にしろ!」

銀時が、行為に荒れた喉で怒鳴った。

「もう一回だけ言う。そいつは売りもんじゃねぇ。あんま舐めてると今度は本当に殺すぞ」

「うるせぇよ万事屋。今てめえがどんなんなってんのか、わかって言ってんのか。縛られて服剥かれてザーメン塗れで、いい格好だぜ。この売女」

「知らねぇよアホ!死にたくなかったらその口を閉じろ」

「ああうるせぇ。もっかい口にチンポぶち込んでもらえ」

「やってみろ、マジで噛み千切ってやる!くそったれが、死ね!」

がなるごとに銀時の罵声の内容は幼稚になった。
銀時は、自分の言葉で興奮する癖がある。それをよく知っている新八は惑乱した意識の端で、あの男ではないが、黙ってろと思う。
取り乱す自分の前で銀時にまで冷静さを失われたらもうどうにもならない。そして何よりも、新八は冷静さを失った銀時など見たくない。



「なあ。お前」

程度の低い罵声を上げる銀時を無視して男がまた新八に目を向けた。

「だから、こいつをやれよ。…いつもやってるみたいによ」

新八がうろたえて泳がせていた目を大きく剥いた。

いつもってどういう意味だ。
お前らがしたような事を自分が銀時にしているというのか。
冗談ではない。自分はそんな事はしない。断じてしない。
銀時をあんな、物を扱うように、薄汚れた欲望を擦り付ける対象になど絶対にしない。できるわけがない。
お前らのようなものと一緒にするな。

射るように鋭く睨み付ける新八の目付きを見て、男は鼻を鳴らした。

「なんだよその目は。…ああ、そっちじゃなくて、お前がやられてんのか」



「ふざけんな!!」

一際大きな声で銀特が喚いた。
腕を括られた上体を捩り、乾きかけた精液がこびり付く剥き出しの脚をばたつかせて暴れる。完全に頭に血が上っている。考えなしに暴れる身体は起き上がる事も出来ないで、無為にベッドを揺らした。

「おっと、」

すぐ横に伏していた男が取り押さえようとその肩に手をかける。
触るなと銀時が怒鳴り、暴れるその膝が男の脛に強かに当たった。男は悲鳴を上げて瞬間、蹲る。

「こいつ、」

男は痛みに腹を立て、暴れる銀時の髪を鷲掴んだ。
ぐいと無理矢理に引き起こして上向いた頬に思い切り平手を食らわせる。重たい音が高く響き、その勢いで男の手を離れた銀時の頭がベッドに叩き付けられた。粗末なベッドのスプリングが軋み、反動で銀時の上体は薄いマットの上を二三度も跳ねた。

ソファを蹴倒すように新八が立ち上がった。
反射だ。
銀時が痛め付けられたのを見た瞬間、頭の判断でなく体が勝手にそうしていた。
今さっきまで震えていた手が、一転して指が白くなるほどの強い力で木刀を握り締めていた。

「なんだよ?」

痣の男はせせら笑っている。
血相を変えた新八を面白い物を見る目で見た。

「どうする気だ?一丁前に助けてみるか?」

ベッドの上では銀時の胸に馬乗りに跨った男が、繰り返しその頬を張っていた。
殴られる銀時の脚は曲げられて上に乗る男を振り落とそうともがいたが、何度も殴られるうちに脱力してやがてだらりと延び、爪先を上に向けたまま動かなくなった。
嗜虐の気質の男は銀時を殴りながら興奮している。曝け出した股間が、また醜悪に膨らんでいた。



新八の奥歯が強い咬合圧で、木材に罅が入るのに似た堅い音を立てた。

殺してやる。




*






「おいおい」

呑気にすら聞こえる発声をしたのは、以前から銀時を買っていた男だった。

「止めとけ。俺達ぁ、殴る分の金までは払ってねぇ」

男は屈んで床に脱ぎ捨ててあったズボンを拾い、履いた。間抜けな様で腰まで引き上げてから、何故か腕時計を見た。
ごつい時計に装飾された石が、カーテンから漏れ入る陽光を反射して嫌らしく光った。

「…悪かったな、万事屋のぼっちゃん。嫌な事言って」

こいつらは初めてだから、ちょっと舞い上がったんだ。

男はズボンを履いた腿に時計の文字盤を擦り付けて曇りを拭いた。そして、もう一度時計を覗き込みながら

「ところで、今は2時半だ」

と言った。

「約束の時間は何時だったかな」



商談をするのは新八の仕事だ。銀時を売る時間、金額、そして内容は全て新八が取り仕切っている。
そのいちいちに新八は身を切られるような思いをする。銀時の身売りを管理することで銀時を守っているつもりが、そうしているとまるで自分がすすんで銀時を売っているような気になってくる。
しかし不満を漏らす権利は新八にない。
なぜならこれが新八の選択だからだ。

「3時だ」

新八は噛み締めた歯の間から軋るように回答した。男はわざとらしく大きく頷く。

「そうだな。てことは、あと30分ある」

あと30分は、万事屋を好きにしても叱られねぇってわけだ。

呟いた男は、痣の男を軽く振り返り、

「ところで。お前は、ほんとにやらなくていいのか?」

と尋ねた。

「ああ。いい。勃たねぇよ、どうしたって」

痣の男が答える。
男はもう一人の、銀時に跨って殴った男にも目線を向けた。

「お前はどうだ?殴るのは契約違反だが、ぶち込むんだったらまだ時間はある」

嗜虐癖のある男は肩を竦め、

「殴れねぇんなら、もういいさ。突っ込みすぎて、もう締まりもしねぇしな」

と言った。

この下種共。
新八は、握った拳の中で掌に爪を食い込ませた。



「腹が立つか?」

言葉もなく逆上する新八を男の視線が上から下までゆっくりと舐め回した。

「万事屋が、こんな扱いを受けることがそんなに腹立たしいか?」

男は言い、そして銀時が沈むベッドを迂回しながらゆっくりと新八に近付いた。
立ち上がったまま怒りに固まって動かない新八の横に並ぶと、親しい友人であるかのように肩に手を置き、なあ、と声をかけた。

「…わかってねぇみたいだから教えてやるが」

男の、嫌らしい時計を嵌めた腕が持ち上げられる。そして、その指先がベッドの上の銀時を差した。



「ぼっちゃん。あんたはな、あの淫売に惚れてんだよ」




可哀想になぁ。
肩に置かれた手が、ぽん、と軽く前に押し出すように叩いた。外力を加えられた新八の体が揺れ、片足だけが半歩前に踏み出した。

新八はその体勢のまま、ああ、と思った。

言葉にしてしまうと、こんなに薄っぺらいのか。

「お前、自分がどんな目をして万事屋を見てるか知ってるか?まあ、お前が知らなくても、あいつを買う奴はみんな知ってるけどな。知ってて、喜んでんだ。万事屋は面白いもんを連れて来るようになった、ってな」

男は新八の肩に置いた手をゆっくりと下ろし、新八が握る木刀をそっと取った。握りしめていた指は力が抜けていて、男が促すままに木刀を離した。
奪った凶器を、男は先程まで新八が座っていた壁際のソファに立て掛ける。

「万事屋も一体何を考えてんのか、ひでえ事しやがるよ」

銀時は動かない。
殴られる衝撃で酷く頭を揺らされていた。気を失っているのだろうか。赤く腫れた顔をこちらに向けて目を閉じている。
今すぐにでも駆け寄り大丈夫かどうか確かめたいと新八は思った。

「あと30分。いや25分かな」

男が空いたソファに腰掛けるとソファの骨組みが軋んで音を立てた。その音は新八が噛み締めた奥歯の音と似ている。
ゆったりと座った男は、寛いだ姿勢で脇に立て掛けた木刀を手に取った。

「お前には悪い事をした。だから、これぁ詫びだ。…残り25分、これをお前に遣る」



新八は真昼の陽光が細く漏れ入る薄暗い室内の真ん中で、ぼんやりと立ち尽くした。ベッドの上の銀時は目を閉じて死体のように動かない。



銀時を殴っていた男がにやりと笑い、銀時の傍を離れてベッドを降りた。痣の男は壁に背を預け、何を思っているのか妙に細めた目で新八を眺めている。
背後でソファに座る男が、手にした木刀を指でなぞり検めながら言った。

「どうした?俺は別に何をしろとも言ってねぇ。ただ、俺達はもう十分だから、残った時間はお前にくれてやると言ったんだ。お前に遣った時間だ。これをお前がどう使おうと、俺達は何も言わねぇさ」

あと25分は、万事屋を好きにしても叱られねぇんだぜ?

男はそう言を繋ぎ、広げていた脚を鷹揚に組んだ。男が動く度にソファが軋んだ音を立てる。耳障りな音に眉間を狭めた新八の口の奥で、ソファが鳴らしたのと似た音がまた響いた。

「お前がやりたいようにやれよ」

やりたいように?
何を?
自分が何をやりたいかなど、わかりはしない。
わかっていれば、そもそもこんな事にはなっていない。



新八の反応は鈍い。
背後の男が深い溜息を吐いた。

「…わかってんのか、僕?万事屋はお前に酷ぇ事をしてんだぜ?」

弄んでいた木刀の先でカーペットの床を小刻みに叩いて新八の回答を急かす。

「てめぇに惚れてるガキを連れ回して、てめぇが他所の男にやられてるとこを見せ付けるなんて、一体どういう神経だって話だ」

ふざけるでもなく言う男の声には、挑発だけでなくどこか心底哀れむ響きがあった。
新八は俯き、噛み締めていた上下の奥歯を僅かに開いた。

「お前らなんかに何がわかるもんか」

開いた歯の隙間から漏れた声が重たく落ちて、床を這った。

銀時は関係ない。
理由は知らないが銀時はこれを続けていて、それを放置出来ない自分が勝手に銀時に付き纏っているだけだ。銀時の神経がどうの、銀時の自分に対する処遇がどうの、そんな事は関係がない。
銀時が悪く言われる筋合いはない。

「いいから聞けよ。さっき万事屋が言ってたろ。『キスでもしてやろうか』ってな。…お前、殴るくらいでよく我慢出来たな。お前は舐められてんだよ。この人でなしに蔑ろにされて弄ばれてんだ。俺なら俺の女があんな事言ったら、ぜってぇ許さねぇぞ」

「銀さんは僕の女じゃない」

「ああ。そうなんだろうよ。けど、お前が万事屋を見る目はそういう目だ」

お前はそんなつもりじゃねぇのかも知れねぇが、おじさんくらい年を取ると、すぐわかっちまうんだよ。
男が微かな笑い声を短く立てる。

「全く可哀相になぁ。まだ何にもわからねぇ子供なのに、あんなもんに惚れちまって。…そうだな。ついでだから、もうひとつ教えてやろうか」

男が立ち上がった。
新八の背後から被さるように立ち、その肩に木刀を持った腕を回して優しく抱き寄せる。
新八は嫌悪感に顔を逸らした。逸らした先では、男の腕時計の装飾が嫌らしく光っていた。

男は新八の背丈に身を屈め、耳朶に唇を付ける程に接近し、興奮で赤くなっているそこに囁いた。



「万事屋はなあ、お前が見てるとすげぇ締まるんだ」




*






「黙れ」

低い声が静かに言った。
声は新八のものではない。銀時だった。

新八が俯かせていた顔を上げる。閉じていた銀時の目は開いていた。殴られて腫れた目蓋の間から、細く瞳が見えている。赤い、変わった色の瞳だ。暗い場所では褐色のように沈んで見えるが、昼の光の下ではそれが明度の高い赤色に見える事を新八は知っている。
あれは血の色だよ、と教えてくれたのはお登勢だ。瞳の色素が薄いから、目玉の底にある血管を流れる血の色が透けて見えるんだ、お登勢は新八にそう教えた。
あの赤い色は、銀時の血の色だ。

血色の瞳を銀時はこちらに向けていた。
それは頭に血を上らせ我を失った危ういものでも、男に抱かれている時のあの明後日を見るような虚ろなものでもない、確かな焦点を持った眼差しだった。

「…大した下種だぜ。えれぇ質の悪い客を掴んじまった」

「淫売に下種とか言われたくねぇ。可愛いわんこに見られるのはそんなに感じるか?」

「そうだな。感じるな」

銀時は何でもなく言ってのけた。

新八はだらりと身体を延ばしている銀時を見た。
銀時の自分に対する感情のようなものを、直接的な言葉として聞かされたのは初めてだった。たとえそれが聞くに堪えない内容であったにしろ、銀時が新八に対する感情を口にしたのだ。
男に抱かれたままの肩がふらついた。新八は半ば男に身体を寄り掛からせて、ようやく姿勢を保った。

酷いはずの言葉に新八は底知れない幸福を感じている。まるで、いつも事後に銀時の身体を抱いて眠る時のような、胸の中に仕舞い込んだわからない何かが充足しきる幸福感だ。

何故こんな気持ちがするのか。
銀時はただ、新八についての感想を酷い言葉にして短く漏らしただけだ。
新八の充血した角膜が潤んで膜を張った。

ぼやけた視界に、銀時が何か苦い物でも噛み締めたように顔を歪めてぐっと目蓋を閉じたのが映った。



「めんどくせぇな…」

眉間を寄せて目蓋をきつく閉じながら銀時が言った。

「何が面倒臭いんだ万事屋」

3人の男達は銀時の露悪的な発言に口元をニヤつかせていた。次に銀時が何を言うのか期待を押さえられないといった風だ。その気配を察しているのかどうなのか、銀時の口調は投げやりで緩かった。

「俺は手早く済ませて風呂に浸かって寝たい。それ以外の事は全部めんどくせぇ」

「てめぇは、どんだけ人でなしなんだ」

新八の肩を抱く男が呟き、ふいに抱く力を緩めた。そのまま崩れそうになる新八の背中を木刀の柄で軽く突く。新八は惰性で二歩程前に進み出、やけに重たい両手をぶら下げてその場に突っ立った。

「なんでこのガキをそんなに酷く扱う」

「お前らなんかに何がわかる」

新八が言ったのと同じ事を銀時が言った。
言い終わるなり閉じていた目蓋を上げる。再び覗いた血色の目は、先程にも増して確かだった。心の裡で何かを決めたとでもいうような、動かない、強い目だった。
それを見た新八は小さく息を飲む。そして微かに痺れるような何かが背筋を走るのを感じた。

この愚か者共は、銀時を怒らせた。



「新八」

銀時が新八を呼ぶ。
新八は、まるで何年ぶりかに銀時に名前を呼ばれたような心持ちがした。
その声は尖った感情のどこに引っ掛かる事もなく、何の抵抗も生じる事なしに新八の意識の奥まで届いて染み渡った。
立っていられず今にも蹲りそうだった新八は、銀時に呼ばれるなり崩れかけていた脚に力が戻るのを感じている。

何がどう狂っていようと、新八にとっての銀時は、基本こういうものなのだ。

「ぼっとしてんな」

それは普段、銀時が新八を叱咤する時と同じ口調だった。
ずっと縋るように握っていた木刀を新八は奪われている。支えにする何かを求めた新八は、今度こそ銀時に縋った。
身体の自由もない汚れた無残な姿を晒していようと、彼が移ろわない目でいる限り、彼は紛れも無い新八の支えだ。

新八の支えである銀時が、命じた。

「早くしろ」




*






乗り上げた重みで安いベッドの底板がたわむ。



被さった体勢で至近から見ると、銀時が銀時でないようだ。
白い髪の一本一本や肌の肌理がやけにクローズアップされ、それらのパーツが銀時本人から乖離して新八の五感に訴えた。

考えるな、と言う。全部忘れろ、と訴える。



「お前、」

新八の様子から何かしらを察した銀時が声を漏らした。

重たそうな目蓋の皮膚が薄く、毛細血管が透けている。その下から覗く血色の瞳の中に亀裂のような虹彩が放射状に広がっていて、その中心にそこばかりは黒い瞳孔が窄まっていた。
頬や鼻梁の起伏がなだらかだ。起伏はなだらかさを保って唇に至り、至った所で薄赤く色を変えていた。

誰だとも認識しなければ、これは素直に綺麗なものだ。
胸の底からざわつく何かが上がってくる。

白くなだらかな頬が何度も打たれたせいで腫れ、その部分だけが歪だった。腫れて歪な上は見知らぬ奴らの体液で汚れていた。
新八は両手の指を使って、固まりつつある汚れを丁寧に拭った。
綺麗なものが汚れているのが忍びなかったのだ。

銀時は目を開いて新八を見据えている。
新八はその目を出来るだけ見ないように、銀時のパーツを丁重に愛撫した。

いつも銀時を抱いて眠る時にも、これ程は彼を見ない。外野から強制されて初めてこのような見方をした。
見ればいつでも見れたものを、自分は見ないようにしていたのだ。

「おい」

銀時が掛けた声を新八は聞き流した。聞かず、発声のために開いた唇の隙間から前歯のエナメル質が白く覗く、そればかりを見詰めた。

白い歯を覆う唇は、端に近い所が縦に裂けている。
自分が殴って裂いた。
裂け目からは血が僅かに滲んでいる。新八は躊躇わずそこに唇を付けて血を吸った。



唇が触れた瞬間、銀時の身体が微かに震えた。

その震えを自分の胸の下に押し込め、改めて舐めたそこは鉄錆の味が唾液で薄まって、甘くさえ感じられた。
唇が触れる唇は驚く程に柔らかい。こんなに柔らかく優しい感触のものを他に知らない。もっと大きい面積で感じたいと思った。

いつも抱き締めて眠っていたものは、こういうものだったのか。あの正体の知れない幸福感は、こんな風に実体化してここにあったのか。
さっき名前を与えられたばかりの感情が今にも溢れそうだった。



「おい、新八!」

叱責に近い声で呼ばれ、我に返る。
我に返った新八は、銀時のパーツでなく、ようやく銀時を見た。




*






「キスくらいさせてやれよ」

見物している男の一人が嘲笑した。

「やかましい」

銀時は苦痛に耐えかねるように目を瞑り、新八の下にある身体を捩らせた。
肩を支点に腰を上げる。持ち上がった銀時の質量のある身体が新八の身体に触れた。今さっき、それに流されかけた新八は怯えて身体を浮かせようとしたが、銀時の脚が脹脛の裏に巻き付いてそれを許さない。

「…わかってるな?」

目を瞑ったままの苦鳴に似た問い掛けに、新八は

「はい」

と、現実に立ち返ったばかりで掠れる声で応えた。



あくまでも抱き締める態で、持ち上がった銀時の身体とベッドの間に手を差し入れる。
差し入れた手の指がすぐに、長い時間括られているせいで体温を失った指に触れた。
新八は手探りでそれを手繰って握った。今朝とは逆に、冷えきった銀時の指に自分の体温を分け与えるように。

銀時が目蓋を開ける。
その下から現れたのは、新八の萎えた脚に力を与えて支えた、移ろわない確かな目だった。
銀時の言葉や表情は嘘を吐く。しかし、この目だけは嘘を吐かない。



銀時の指が不自由に動き、どうにか届いた指先だけが新八を握り返した。
冷えた爪で新八の指の腹を擽りながら絡み付く。

その感触に新八は胸に溜まった息を吐いた。新八が息を吐き切ってしまう直前に、銀時が頭を少し擡げる。新八の空いた手がその頸の後ろを支えた。



『アホ共が』



銀時が新八にしか聞こえない声で呟いた。
ぼやける程に近い顔が、不敵に笑っている。

笑い返そうとして開いた新八の口に、銀時の唇が深く重なった。









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