「うぜえからもう泣くな」

男が言った。

「す、すいません。…でもあの、警察だけは、どうか」

新八は洟をすすり上げながら言った。

「言わねぇよ。一回言わねぇって言ったんだから」

男はそう言って、座席のリクライニングを最初に新八が倒したくらいまで倒すと、腕を組んで足を広げて向こうを向いた。

「す…すいません」

「謝るな、うぜえ」

「す、すいません。……あ」

「……」

暗く、片側が崖な半山道にビビった新八が運転不能になり、男もこの車を運転できないオートマ免許所持者な事が判明した。
旧道に入ってから車で20分、普通にタクシーが通ってる国道まではまた車で15分。歩いて戻るにはだるすぎる距離だった。
結論、明るくなるのを車内で待ち、明るくなってから街に戻る事になったのだった。
新八は、すいません言い過ぎて、すいませんがどういう意味なのかわからなくなってきていた。
「すいません」。正式な形は「すみません」。 動詞「すむ(済む)」の連用形 +丁寧の助動詞「ます」の未然形+打ち消しの助動詞「ぬ」の 終止形で「すみません」、そのイ音便で「すいません」。だがそれがなんだっていうんだ。済まないって一体なにが。僕、何言ってんの?

「あのさぁ。俺は寝るからさ、高屋くんも寝てくんない。いくら明るくなっても、完徹の初心者の車なんか乗りたくないし」

しかも、新八はまだ高屋くんだった。
だったが、もう今更どう訂正すればいいかわからなかった。
もういいや。僕は高屋くんです。

「でも…あの、ほんとに警察…」

「しつこい!」

これだけろくでもない状況になっても、男は警察に言って新八にそれなりの報いを受けさせるつもりはないらしい。
なんでだ。
というか、初手からこの男はなんか優しい。
普通、道でいきなりはねられて、おまけに山に遺棄されかけて、更に山中で夜明かしさせられるはめになった上に、はねられた本人の前で車の心配されたりしたら、怒鳴り付けてぶん殴ってやろうかくらいは思うだろうに。
なんでこいつはそうしないのだ。

「あの、腹立たないんですか」

「ああ?腹?そんなもん立ってるに決まってんだろ」

じゃあなんで、怒鳴り付けてぶん殴って警察に突き出さないのか。

「なに?そうしてほしいんか?」

「いっ、いや!してほしくないです!」

新八もリクライニングを倒して、そしてフロントガラス越しの黒い空を眺めた。街から離れているせいで、いつもよりたくさんの星が見えた。
黙っていると、外から聞こえてくる虫の声がより大きく聞こえる。
夏は終わろうとしていたが、まだ寒くはない。季節が今でまだよかった。

「親いねぇんだろ」

虫の声の間を縫って、向こうを向いたままの男が言った。

「…哀れんでんですか」

新八はちょっと鼻白んだ。
確かに、新八と姉ちゃんには両親がいない。いないが、それで同情されるのは嫌だった。他の同年代の人間より余分にハンデを負っているのは確かだが、そのせいで他の人間と同じ立ち位置にいられないと思うのは嫌だった。
新八も姉ちゃんも相当に意地を張ってそれでやっと生きている。なのに、下手に同情されて張ってた意地が緩んでしまったら、生きていかれなくなるような気がするのだ。
だから、軽い気持ちで同情したりはやめてほしいのだった。

「哀れむっつうか。ただ、大変だろうなって思っただけだ」

「別に。人それぞれ色んな事情があって、それぞれに大変なもんじゃないですか」

「突っ張ってんなぁ」

向こうを向いた男の肩が揺れた。笑っているらしい。
新八は、年嵩の人間にからかわれたように感じてムカッとしたが、言い返す元気がなかったので黙った。

そう言えば、今何時だろうか。
2時になれば、姉ちゃんが勤め先のキャバクラから帰ってくる。深夜に出歩くタイプでない新八が車ごと姿がなければ、さすがに心配するだろう。
関東爆走連合・紅香具夜姫みたいな二つ名を持っていた姉ちゃんでも、新八にとってはたった一人の大切な家族だった。心配かけたくない。状況としては既に心配かけざるを得ない状況だったが、余分な心配はかけたくなかった。

「お前、姉ちゃんがいるんだったら、姉ちゃん大切にしろよ」

姉ちゃんの事を考えていたら、男が姉ちゃんの事を持ち出した。
そんなもんあんたに言われなくてもする、と思った新八は答えなかった。
男は言った。

「俺も両親いなかったけど、お前と違ってきょうだいがなかったから、マジで一人だったんだよね。だからお前がちょっと羨ましいんだ」

えっ。

「えっ」

「突っ張る気持ちはよぉくわかるよ高屋くん。でも、あんま突っ張り過ぎると自分が潰れますよ、って事だ」

「えっ」

「えっ、て何だよ」

「親…」

「いないね。昔から」

「おとーさんもおかーさんも?」

「おとーさんもおかーさんも。木の股から生まれたわけじゃないだろうから、いたはいたんだろうけど、俺が知る限りではいなかった」

新八は助手席を見た。
車の屋根の真上にあってここからは見えない月の光が外から入ってきて、車内をうっすら明るくしていた。男は向こうを向いた顔を前方に戻していて、新八からはその横顔が見えた。

「だからね、俺は俺を車ではねた奴に親がいねぇって聞いて、ついつい心が広くなってしまったんだよ高屋くん。余計なお世話だと思うかもしんないけど、これは俺の個人的感傷だから仕方ないんだよ高屋くん」

と男は言葉を続けて、それから横を向いて新八を見た。
淡い月明かりに薄まった闇の中で男の顔は皮肉っぽく口元を引き上げて微かに笑っていて、尖った犬歯の先が上唇の下から覗いていた。

新八は、なんか知らんけど胸がきゅっとなった。

えっ。
なんだこれ。
なんだこの感じは。
僕にハンマーを投げ付けてくるだけだったハンマーブロスが、なんか急に違うもんになった。
なんか、なんだこれ。
ヨッシー。
ヨッシーだろうか。
…いや違う。
なんかもっと。

「あの…」

「けど、当たり前のけじめはつけさせてもらうかんな。マジで体がおかしくなったら、病院行くから。治療費は出せ。そこは容赦しねぇよ」

男は前を向いて新八に顔を見せたまま、組んだ腕をほどいて人差し指を新八に突き付けた。

「は、はい。それはもう、ほんとに」

ハンマーブロスでない何かになった男はまたニヤッと笑って、

「後は、無事家に帰してくれれば文句はねぇから。だから高屋くんも寝ろ。完徹の初心者の運転は嫌だ」

と言って前に向き直ると目を閉じた。

新八は、その横顔をぼんやり見詰めた。
似たような境遇のひとに出会ったのは初めてだった。
この話は幼馴染みのたかちんにもした事がない。こっちも遠慮するし向こうも遠慮がちになるだろうから。
だが、新八が車ではねたこの男なら遠慮しなくてもいいのかなと思った。
相手がいなかったから出来なかったが、しかしずっと話したかったこの話を出来るのではないかと思った。

「あの…」

新八は、倒した座席の上で窮屈に手足を伸ばし目を閉じた男に言った。

「僕と似たような境遇の人に初めて出会いました」

男は寝てしまったのか無言だった。
新八は別にいいやと思って言った。

「僕、あなたをはねて良かったです」

男は目を開けた。
開けた目で新八を見、そして言った。

「…その言い方はダメだろ」







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