やっちまった。
新八はハンドルにすがり付いて眼前の光景に震え上がった。
暗い路上に倒れているのは間違いなく人間だった。出来れば、工事現場とかにいて交通整理の旗を永遠に振り続ける人形とかであってくれはしないかと思ったが、現実は新八に冷たかった。何度見しようが、そこに倒れているのは生身の人間だった。
顔を向こうに向けた俯せの体はぴくりともしない。夜半の微風に髪の毛の先がそよいでいたり、片方のスニーカーが脱げて、少し離れたとこに落ちているのが物凄いリアルだった。ほんとにリアルだった。

えっ。
えっ。これ。僕どうなんの。

「あの…」

這いずるように車を降りた新八は、倒れている人に近付いて声をかけた。
返事はなかった。そして、やはりぴくりともしなかった。

えっ。
えっ。これ。
これ、もしかして、死…。

新八は、さっきまでは、免許取り立てで浮かれる普通の平凡な高校生だった。
しかし、今、唐突にそうでなくなった。
普通の平凡な高校生から、突然、業務上過失致死の容疑者になった。

なんという落差だろうか。
ついていけない。その落差についていけない。

ついていけない新八は、あまりのついていけなさに混乱した。
新八は辺りを見回して誰もいないのを確認すると、倒れている人の両脇に手を入れて、ズルズル引きずって車の中に運び入れ、ぐったりしている体を助手席に座らせた。前のめりに崩れそうになるのを座席のリクライニングを一番倒した状態にして更にシートベルトをかける事で無理矢理安定させ、そーっとドアを閉めた。
そして自分も車に乗り込むと、そっこーでエンジンをかけて車を発進させた。

新八は、混乱していたのだ。
だから、これは別に証拠隠滅とかではなくて、一時的に心神喪失状態に陥ったために、あまり適切でない対応をしてしまっただけであって、断じて証拠隠滅とかそういうのとは違うし、ほらなんかあれ、車校でも言ってた、人身事故を起こした時は何よりもまず被害者を安全な所に移動させるという、被害者保護だ。
そうだ。これは被害者保護なのだ。証拠隠滅とかそういうのじゃない。断じて違う。違うのだ。

新八は、極度に緊張すると胃にくる性質だ。
吐きそうになる。
例に漏れず今も吐きそうだった。
でもゲロなんかしてる余裕はない。
一刻も早く現場から離れ、助手席に乗せたこの、見るのが恐ろしくて直視できないが、このこれを、人気のない山林などに捨てなければならなかった。そうする以外に、容疑者から高校生に戻る方法はないと思われた。

被害者保護。
知らねーよそんなん!

「…うう」

知らねーよそんなん!と思った瞬間、助手席のものが呻き声を上げた。新八はあからさまにビクッとなって、横目でそれをチラッと見た。
そもそも運転だけで一杯一杯なのに、それを上回る巨大なプレッシャーがかかりマジでお腹が痛い。プレッシャーの根源であるそれを、あまり見たくはない。
第一、運転中だしよそ見はいけない。
人をはねといて今更だが。

「なんだ…。どこだここ。…」

それは喋った。
生きてた。

「あ、あの…」

「あぁ?誰だお前」

死んでるかと思ったら生きてたそれは、そのように言った。お世辞にも上品とはいえない粗野な口調だった。
新八は、それが生きていた事に一瞬安心したが、その口調のせいで今度はまた別種の不安を抱いた。
この乱暴な発声をする、いかにも育ちの悪そうな男は、新八が自分をはねたとか知ったら、いきなり殴ったりしてくるんでないかと思えた。もしくは、べらぼうに法外な慰謝料などを請求してくるのではないか。そして払えないとか新八が言おうもんなら更に殴る蹴るなどして、しまいには新八の姉ちゃんを場末のソープに売り飛ばしたりするのではないか。
そりゃ確かに新八の姉ちゃんはバリバリの元ヤンで今はキャバ嬢なんかしているが、中身は意外と純情で実は男と付き合った事もない、弟が見る限りで多分処女なのだ。
そういう大切な姉ちゃんをソープとかに売られるのは嫌だった。

「あの…、倒れてたから…」

と新八は言った。
卑怯すぎる発言だったが、姉ちゃんをソープに売られたくない(自分が殴られたくない)一心だったので、平気でそんなことを言えた。

「大丈夫ですか」

自分ではねといて大丈夫かもクソもないが。

「いや、どうかな。…どっか体が痛いような気がすっけど、なんかわかんねぇわ」

そいつは言った。
なんて丈夫な男だ。新八は舌を巻いた。住宅街で減速してたとはいえ時速30キロは出てた車にはね飛ばされて、なんかわかんねぇわ、とか、あり得ない。
こんな丈夫な男なら被害者保護とかやっぱいらないんではないか、という事にしたい。

「ていうか、お前誰」

丈夫な男は新八に訊いた。

「…僕は、あの、えっと、………高屋っていいます」

思わず口をついて出た名前に新八はビビった。
えっ。
なんで。
なんで高屋。
僕、志村じゃん。
なんで僕はたかちんの名前を。
なに考えてんの僕。
えっ。
もしかして、僕って物凄い悪人なんじゃ。
えっ。

「ふーん、高屋くん」

「はい、高屋です」

たかちん、ごめんね。こんな僕だけど、ずっと友達でいて下さい。

「聞くけど。高屋くんさぁ、君、どこ行くの」

「えっ」

山林に、あなたを捨てに行く途中でした、などとは言えない。

「倒れてた俺を助けてくれたみたいなのは有難いんだけどさ、君、一体どこに行こうとしてんの」

完全に山林を目指していた車は、どう考えても市街地を抜けようとしていた。
『××埋立て処分場・10km』とか『××ダム・25km』とかいう道路標識がかかっている。 市街地から離れて行ってるのが剥き出しだった。

「いや、あの、その、病院へ行こうと」

「ないよね。この先に病院はないよね。この先には大自然しかないよね。それとも君はあれか、俺を、たぬきかきつねがやってる病院とかに入院させようっつうのか」

「いや、そういうわけではなく、あの、実は僕は若葉マークの初心者でして、特に右折が苦手で交差点では左折するしかなくて、あと更にいえば土地勘もない上に方向音痴で、それで気が付いたらいつの間にかこんなとこにですね」

「高屋くん。わかった。…わかったから一旦車を停めてくれないか」

「はい」

高屋くんは素直にブレーキを踏んだ。
ブレーキは一発で踏み込むのではなく、設定された遊び分も計算に入れた上でソフトに踏もう。と、車校では習った。習って理解はしたものの、しかし理解する事と実践する事には大きな開きがあった。
一発で一番深くまで踏み込まれたブレーキのせいで、論外な遠心力が乗車している人間に働いた。新八はハンドルに顎をぶつけ、男はダッシュボードに額をぶつけた。

「……………」

その姿勢のまま、両者はしばらくじっと動かなかった。

「高屋くん」

ダッシュボードに額をつけたままで男が言った。

「はい」

ハンドルに伏せたままで新八は応えた。

「…お前、俺をはねたろ」

「………」

草の陰で盛大に鳴き交わす虫の声が、車外から漏れ入ってきていた。
夏は終わり、季節はもう秋なのだった。





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