16


床に広がった水を髪が吸って、頭皮が水気を感じた。
新八は冷たいなとぼんやり思いながら、自分の真上に被さる銀時を見た。銀時の眉間は狭まっていて、険しい表情だった。

「…なに怒ってんですか」

「………」

銀時は答えなかった。
代わりに、『怒ってんですか』という言葉の最後、『か』の形に開いた口に口を押し付けてきた。すぐに厚みのある肉が差し入れられる。舌だ。
新八からする事はあったが、銀時が自らこうした事はない。他愛ない新八は何も考えられなくなって、上顎に当たって動いている柔らかい肉を自分の舌でがむしゃらに貰いに行った。

相変わらず息継ぎの下手な新八が水面から顔を出すように顔をずらして大きく呼吸すると、その頬を銀時の片手が掴んで、また息苦しい水中に浸ける。柔らかい舌に容赦なく口の中を舐めまわされ、新八は溺れかけた。目の前がちかちかした。体の横に落ちている両手を上げて、藁を掴むように、覆い被さる銀時の脇に掴まった。
ちかちかする視界いっぱいに、近すぎる銀時の顔がぼやけている。何かに真剣になっている時のような険しい表情で目を閉じている。
きれいだな、と新八は思った。顔の造作だとか、そんなものを見る時とは全く違う価値観が、目の前にいる、近すぎてぼやけて見える人間をきれいだと言っていた。
着物の脇を掴んでいる指に、自然と力が入った。
襟に染みた水が染み込みきれずに首筋から背中に流れた。

「銀さ」

銀時を性欲の対象にしてはいけない。銀時にそんなことをさせてはいけない。
新八はずっとそう思っていた。
銀時の衣服を剥ぎ、脚を押し開いて、その中に好き勝手に挿入していた奴らは、揃って銀時を嘲笑していた。

覆い被さる銀時の頭が新八の体の上をずり下がっていく。
そうしながら指を使って、新八の濡れて重たい襟を広げ、それから袴の帯を解いた。

体を使われて精根尽き果てたような銀時を抱き締めて眠る時のあの深い慈しみと満足は、口腔に滑り込んだ銀時の舌を追いかけながら彼の腕の拘束を解こうとした時に感じた抑えようのない欲情と繋がっているものだ、と新八は既に悟っている。
これは、彼を嘲笑するのではなく、この上なく大切にしながら出来るものであるとわかっている。
だが、銀時は言ったのだ。
お前とセックスしたりすんのは、ぜってー嫌だ。

銀時は、襟を広げて露出した新八の平たい胸に唇をあてて擽りながら、袴の帯を解いた指を下着の中に這わせている。
その唇や指の動きを、新八は何度も見た。
金で服を脱ぐ銀時を嘲笑する男の上で、彼の唇や指はそうやって動いていた。

銀時は言った。
お前とセックスしたりすんのは、

「銀さん」

銀時は投げ出された新八の脚を膝をついて跨ぎ、水を飲む猫のように背中を深く屈めている。屈めた上体を支える左の肘が、新八の腰の脇で水に浸かっている。その先の手が、緩く指を曲げていた。曲げて、水の中にある、新八が埃を取るのに難儀した板の目地に軽く爪を引っ掛けていた。

「…なんでするの?ぜってー嫌なんじゃなかったんですか」

上がる息に途切れる声で問う新八に銀時はやはり答えず、塞がっている手のかわりに、口を使って下着をずらした。その拍子に銀時の前歯が微かに新八の下腹部を擦り、新八は喉を反らして短い声を上げた。反射的に小さく跳ねた脛を銀時の膝が載って押さえた。

金で男に体を売っていた、金で望まないセックスをし続けていた銀時を抱くのなら、銀時がそれを望んだ時でないといけないと新八は思ったのだ。いけない、というか、意味がない。

「怖いんじゃなかったんですか」

僕は、あんたが抱いてくれって言うまで、やらない系だ。
僕があんたを抱いて眠る時のように、あんたの上に被さって口を舐める時のように、そういう時に僕がなるのと同じ感じにあんたもなったなら、僕は初めてあんたを抱けると思うんだ。
そうなるのが怖いとあんたが言うなら、いつか怖くなくなるまで、いつまでだって待とうと思ったし、怖くなくなることがないのなら、結局出来なくたっていいとすら思っていた。
僕が欲しいのは、欲しがる銀さんだ。
自分は欲しくもないのに、人の求めがあれば差し出す銀さんじゃない。

僕は銀さんと寝たいんであって、安い淫売と寝たいわけじゃない。









下顎の前歯に被せた舌が、先を尖らせて裏側に強く押し付けられる。
押し付けたままで、銀時の頭がゆっくりと大きく上下した。
新八は銀時の唇と舌の間で、充血した自分の性器がゆっくりと出入りするのを見ていた。

「はぁ、あっ、ア」

吐き出す息がそのまま声になるのを抑えられない。しきりに震える脚の上には銀時の膝が乗りかかり、押さえ込んでいる。
隙間なく包み込む上唇と舌は溢れる程に濡れていて、銀時がそうする度に酷い音を立てる。そして、その音の間隔は次第に狭まっていく。勢い余って先端が奥まった柔らかい粘膜に触れると、口内がぎゅっと絞るように緊張し、その外側では銀時の表情が苦しげに歪んでいた。

銀さんはこれで金を取っていた。
僕はその手引きをしていた。
時には、男の手から渡されたそのままの金で帰りに二人で何かを食べたりした。
銀さんは僕に無限の許しを要求し、僕は疲れ果てた銀さんを抱いて眠る特権をひたすら失いたくなかった。
銀さんは淫売だ。そして僕はその共犯だ。
僕には、銀さんを買った奴らを憎む権利なんかない。
奴らが嘲笑しながら銀さんに突っ込んでいた時、結局、僕も銀さんを犯していた。銀さんを守るような顔をしながら犯していた。
そして、そういう僕を見て、銀さんは快感を得ていた。

うまく息が吸えなくて、酸素が足りない。
新八は酸欠に眩む目を閉じ瞼の上に手の甲を強く当て、口を大きく開けて喘いだ。
人に体を触らせたのは初めてだったし、なによりも触っているのは銀時の口だった。技術があるかないかなどはわからない。これが金を払う価値のある技術なのかは知らないが、なんであれ、今、銀時が自分の性器を口に含んでいる。
他所の男に脚を広げていた淫売と、病院のベッドで目を潤ませていたあの儚いものの間には境目がない。いくら儚いものだけを欲しいと思ったところで、新八に触れる肉はどうしたって淫売のものだ。しかしその淫売の中に棲んでいるのは紛れもない銀時だった。
わけがわからない。
回らない頭は何の解答も弾き出さない。新八は、手の甲で瞼を強く押さえて、追い立てて止まない感覚にひたすら歯を食い縛った。
耐えきれず不随意に跳ね上がる脚の上には、銀時の膝が重く載って押さえている。

新八は食い縛った歯の間から、

「ばかやろう」

と、罵倒した。
誰に対してだかわからない罵倒を吐いた瞬間、銀時が口にしたものを音を立てて吸った。









瞼を覆った手をどかし、新八は銀時を見る。
銀時は、鼻から息を抜きながら、ゆっくりと頭を上げた。引きずり出される感触に、新八はまた声を出している。
銀時は、そのまま顔を俯かせてしばらくじっとしていたが、やがて喉を鳴らせて口の中に溜まったものを飲み下した。襟の間から覗く喉仏が嚥下で動くのを新八は見た。

「…お前さ」

と、顔を上げた銀時が言った。
応答する気力もなく、床に広がる水の上に脱力する新八は銀時が乗り掛かる脚が重いと思った。

「俺が今まで生きてきた中で、どんだけ怖いもんに出会ってきたと思う。そんで、怖いもんに出会った時、俺はどうしてきたか、お前知ってっか?」

新八はだるい視線を銀時の目に向ける。
嘘を言わないはずのその目は、新八自身の目が潤んでぼやけているせいで、よく見えなかった。

知るものか。
あんたがいままで生きてきた、それがどんな様子だったか、あんたが何をしてきたか、あんたが僕くらいの頃にはどんな生活をしていたか、そんな事さえ知らされていない僕が、あんたの生き方など知るわけがない。

視線を向けた先で銀時は、薄く笑っていた。

「…あんたは、やっぱり僕を馬鹿にしてんのか」

「違ぇよ」

そう言って銀時は、体を前に傾けて新八に近付き、唇で新八の目尻に触れた。顔を背けて避けようとした新八は、体の丈の差で逃げ切れず、目尻に滲んだ涙を銀時の唇に吸われた。
銀時の鼻先に押されて、眼鏡がずれた。

「違ぇよ」

再度、銀時は言った。
水の流れた床から右手を上げ、濡れた掌でずれた眼鏡を直しがてら額にかかる前髪を撫で上げ、

「馬鹿にしてるんじゃなくて、怖がってんだよ」

と、相変わらず薄く笑いながら言った。




濡れた掌で触れられた額から、水が滴になって流れた。それは眉間を通って目の中に入り込む。涙のように溢れる前に、新八は指を眼鏡の下に差し込んで、指先で目尻を拭ったが、そうしたところで自分の指も濡れていたから、あまり効果はなかった。

「…あんたは、情けないくらいビビりですもんね」

憎まれ口を叩いてやると、銀時の薄い笑いはすぐに濃い笑いになって、化け猫が笑うように深く裂けた唇の端には犬歯が尖って見えた。

「今まで、怖いもんには山程出会った。数え切れないくらい何度もな。…お前が言う通り、それは俺がビビりだからだ。怖がらなくていいもんまで怖がるから、山程怖い思いをしなきゃなんねぇ」

「怖いもの。おばけとか歯医者とか、僕とか?」

「蜘蛛とか下のババアとか、…お前とかな」

「…そういう怖いものに出会った時、あんたはどうしてきたって言うんですか」

「ぶち殺してきた」

力なく仰臥する新八の体に覆い被さりながら銀時はそう答えた。

「怖いもんに出会うやいなや叩き斬った。とりあえず、ぶち殺した。俺はそうやって生きてきたんだよ、新八君」

銀時の立ち回りは滅茶苦茶だ。作法もくそもない、ただの動物の喧嘩だ。そして、危害を加える可能性があるものを銀時は絶対に看過しない。過剰と言っていい程に徹底して潰す。
銀時は、そうやって生きてきた。

「俺を育ててくれた人が昔、ガキの俺に言った。他人に怯えて振るう剣なんか捨ててしまえ、ってな」

「銀さんを育ててくれた人?…誰?」

「内緒」

隠蔽体質の銀時はさらりと言ってのける。口調は、わざとらしくふざけている。
どうせ答えやしないだろうと予想していた新八は、それでも溜め息を吐かずにいれない。

「蜘蛛やおばけは知らないですけどね…」

真上にある銀時の顔に手を伸ばす。
それが頬に触れようとしているのだと察した銀時の体が、途端、新八の上で強張った。

「怖いからって歯医者さんをぶち殺したらむし歯が治らなくなるし、お登勢さんをぶち殺したら住むところがなくなるじゃないですか」

新八は体を強張らせる銀時に構わず、差し伸べた人差し指と中指の腹で彼の頬骨の下あたりを触った。指の表面に触れる温度は、予想したよりもずっと熱く、新八は少し驚いた。

「怖いからって僕をぶち殺したら、」

頬を撫でられながら銀時の体はずっと緊張している。まるで、気を許しかけた野良犬や野良猫を撫でるようだ。
人をいきなり押し倒して衣服を剥いて口淫するような人間が、人から触れられるとなると突然にこうなる。
新八は、

なんてこった

と思った。

「あんたのその面倒くさい話を根気よく聞いてやる人間がいなくなる」

それでもいいんですか。
銀時は体を強張らせながら新八にやたら熱い頬を撫でられ、

「よくねぇ」

と呟いた。

「お前みたいにさ…、ぶち殺したらよくねぇ事になる怖いもんもあるんだって、ある日俺は気付いたんだ。だから俺は、出会った怖いもんをうっかり叩き斬っちまわないように、刃物を持つのを止めた。止めて、代わりに怖いもんに出会った時の対処法を一つ増やした」

「それは何です?」

「慣れる」

「慣れる?」

「怖いもんに、慣れるんだよ」











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