男の中は酷くきつかった。

「お前は、坊っちゃんに可愛がられているんじゃないのか?」

あれは、まだ子供だ。
旦那様や書生の蔵書の中に紛れた、子供の知らない大人だけの楽しみが書かれた本もあの子はひそかに読んでいるに違いないが、それらに書かれた内容を現実に行うにはまだ幼すぎるのかも知れない。
多少ませていても所詮は子供か。舐めたり噛んだりする他に、弄りようを知らぬのだ。

「勿体ねぇ」

不敬な内心が滲み出た言葉を吐きつつ行うのは、弁解しようもない背信だった。



犯されているというのに、男の表情は全く変わらなかった。目は虚ろなまま、手足を脱力させて声もない。ただ、開けた口で繰り返す呼吸だけを激しくした。内部の空虚を覆う外側だけが、やたらありきたりな反応を返す。
我が身に何が起こっているのかもわからないといった、その様。
その様は例えようもなく劣情を誘った。生きた道具、のようなものがあるなら、まさしくこれがそうであろうと思われた。
堪えきれず、その裡に強く叩き付けると、男は開け放した口から

「ア」

という、声ともいえぬただの音を漏らした。
圧迫すれば中の空気が漏れ出る、ただそれだけの事だった。

これは人ではない。道具だ。よく出来た、生きた道具なのだ。
空虚で満ちているはずの内部は、意図があるかのように反応し、蠢いた。

男の赤い舌が、ランプのぼやけた灯りの下で溶けたように濡れている。
坊っちゃんの異常な行いとその対象になっている男の異常な有り様に沸き上がる恐怖の隙間から、それとは別種の感覚が、朽ちた倒木の根本に張り付く粘菌が広がるように意識を侵食していく。
情欲の痕跡があからさまな肌が、無機物のように白い。

気付いた時には、震える人差し指を男の開いた口、濡れた舌の上に差し込んでいた。

その口腔内は、溢れる程の唾液に濡れていた。
濡れた粘膜は何の抵抗もなく、全く動かなかった。温度は低い。しかし冷たいわけではない。冷めた湯のようだ。温かくも冷たくもなく、際立った温度が感じられない。指が、一瞬麻痺してしまったのかと錯誤した。
軽い目眩を覚え、それを振り払うように指で強く柔らかい粘膜をかき混ぜると、開いた唇の上を伝って、弛い唾液が一筋零れた。
唾液は顎を流れ頸に至り、坊っちゃんの前歯が食い込んだ痕である窪みに少し溜まって、そして更にそこから流れ落ちた。
無機物めいた男の呼吸だけが激しい。意味なく開いた目はどこも見ていない。

これは何だ。
あの子は一体何を買い、俺は一体何をこの蔵に運び入れたんだ。

反動でずり上がる肩を押さえ付けて強く突くと、男の体は瞬間的に伸び上がり、鶏の首を絞めた時のように強く硬直した。下腹で人並みに膨れた性器が震えながら跳ねて、瀬戸物のような白い腹にそれと似た色の体液を吐いた。
薄い精液は、相応しくなく健やかな腹筋に落ち、臍に流れて溜まった。
何も見ていない赤い目が、無表情なままで潤んでいた。




*





みずみずしい、先程まで生きていた青葉が散乱している。
その上に小さな血溜まりが出来ていた。血溜まりの輪の中央には、先程まで生きていた人間の体の欠片が落ちている。欠片は、あの時白い男の口に含ませた人差し指、その第二関節から上だった。
見慣れた形の爪を載せたそれが、体から離れて、こちらを指差している。

敷き詰められた葉の上に膝をつき、呆然とそれを見つめる自分に坊ちゃんは仰った。

「指だけか」

切り落された自らの指を捉える視界の端に、真直ぐで幅の狭い刃物が白く鈍く光っている。人間の指を切り落したにも関わらず、刀身には血どころか曇りさえなかった。

「あれに触れたのは指だけか」

「………」

下を向いていた切っ先が、すい、と上がって、答えられないでいる自分の喉仏に突きつけられた。

「それを拾え」

切っ先を避けて顎を上げると、刀を握って立っておられる坊ちゃんが見えた。
赤ん坊の頃から自分が育てた12歳の少年。

「それを、拾え」

同じ事を再度言われたが、その意味がわからない。
坊ちゃんは薄っすらと笑っておられた。お小さいころにはあったはずの口元の笑窪がいつの間にか消えている。その大人しい作りのお顔をぼんやりと見詰めた。

「指を拾え、長谷川。すぐに医者に診せれば繋がるかもしれないから」

坊ちゃんはそう仰ると刀を引かれ、地面に落としてあった鞘を拾われた。

「坊ちゃん」

からからに乾いた喉を通る声は掠れ切っていた。
主人が大切にしていたものを横から掠め取ったのだ。斬られるものと思ったが、坊ちゃんはもう刀を鞘に仕舞われておられた。

「…お許し下さるので?」

「許さない」

と、坊ちゃんは鞘に仕舞った刀に、解けた下げ緒をぐるぐると巻き付けながら仰った。

「許さないけれど、長谷川。あれが僕のものであるのと同じに、お前も僕のものなんだ。僕のものがした不始末は、僕の不始末だからね。だから仕方がないんだ。…けれども、もしまた繰り返したら」

と、刀身を収めた鞘の先で、自分の手首に軽く触れられた。

「次は手首を貰う。その次があったなら肘まで。それから肩。最後に首」

まるで、清国の凌遅刑だ。

「…そんな事はしたくない。お前は僕のものなんだから。それに、指なら繋がるような気がするけれど、あっちはそう簡単に繋がりそうもないもの」

坊ちゃんはそう仰って、英国帰りの従兄弟様の癖を真似て肩を竦める仕草をしてみせられた。おどけて見える仕草をする顔は一見微笑んでおられるようだが、目は決して笑ってはいらっしゃらなかった。
そのような目で仰られた言葉が、冗談なのか本気なのかが、わからない。

その目を見て思い知った。
この大人しいお顔から消えたのは、愛らしい笑窪だけではないのだ。

「………」

葉の上に膝をついて身動き出来ないでいる自分に、坊ちゃんはちらと視線を遣られ

「長谷川、何をしている?」

と低く叱咤の声を上げられる。

「早くそれを拾って医者に診せろ。指がないと仕事に不便だろう」

有無を言わせぬ口調に命じられるまま、先が欠けた指を切り落された指の欠片に伸ばした。触れた欠片には、まだ体温が残っていた。



鋭利な刃物で断ち切った傷口は、大した出血をみなかった。しかしそれでも滲み出す血が零れ落ちぬよう反対の手で握り締めつつ屋敷に向かう。向かいながら思った。

坊っちゃんは何故、刀などを持ち出されたのだろうか。
自分への仕置きのためにわざわざ持ち出されたのだろうか。
そのためだけに、あのように人目につくものを?
進歩的なものを好み前時代的なものを嫌う旦那様は、坊ちゃんにあのようなものを扱う技術を習わせなかった。たとえ自分への仕置きのためだろうと、わざわざあれを坊ちゃんが選択されるとは思えない。
それでは何故、刀などを持ち出されたのか。

指を切り落されたというのに、あまり痛みを感じない。
自分を見下ろしていた、坊っちゃんの笑わない目。

あのガキは、一体何をしようとしているのだ。

痛みを感じないのは、鋭利な刃物で切られたからか、それとも。




*





「こりゃあ、お前さん。随分といい鋏で切ったもんだ」

度の強い眼鏡をかけた老医者が言う。
掛かりつけであるこの老医者は、呼び出されてすぐに参上したはいいが昼間だというのにしたたか酩酊していた。怪しい手つきで傷口を縫われる過程は、切り落された瞬間の倍は痛みを感じた。

「こんな切れ味の鋏なら、俺が頂戴したいね。そこにある俺の鋏は、ろくに包帯も切れねぇときている」

「差し上げるわけにはいかねぇな。庭仕事が出来なくなる」

「そうかい。そりゃあ、残念だ」

医者はわざとのように不貞腐れた鼻声で大きく言ってから、急に声を潜めた。

「…事情は聞かねぇさ。だがお前さん、こらぁ間違いなく刀の切り口だぜ。それも、全く迷いのねぇ、思い切りのいい切り口ときている」

残念ながら指は繋がらないという。
切り落されて帰るあてをなくした指先を摘み上げ、医者はしみじみと切り口を眺めている。切り口は全く荒れておらず、剃刀で裂いたように真直ぐな面で断絶しているそうだ。

「じいさん。あんた、真昼間からだいぶ酔ってるみてぇだが、一体どんだけ飲んだんだ?」

しらばくれた自分に医者は酒臭い溜息を吐いた。

「フン、何なのかは知らねぇが…」

こんな思い切りよく他人の指を切り落とす奴ってな、一体どんな神経を持った奴だ。

老いた医者の呟きには、聞こえないふりをした。




*





切られた指が疼いて眠れない。
どうやら熱を持ち始めたようで、夜風にあたれば良くなるかと何度も寝返りを繰り返した末に庭番小屋を抜け出した。



この家の広大な庭は、背後に迫る樹林と境目なく繋がっている。林には小さなせせらぎが一本蛇行しながら流れており、季節がいい頃の昼間などには、清らかな流れとそのほとりに立つ樺の梢を小鳥や小動物が行き交うのを楽しめる。
今は爽やかな初夏ではあるが、深夜で、明日は雨にでもなるのだろうか中天の朧月に傘がかかっている。
屋敷から離れたこのような場所に訪れる者は自分以外にないはずだった。

せせらぎではない水音が聞こえ、足を止めた。注意していると、人の声もする。
中天の朧月の光にせせらぎが照らされている。茂る木々が途切れたせせらぎと、そのほとりだけが、闇に飲まれた深い林の中でぽっかりと薄明るい。
暗闇が薄まったその青い光の中に人影があった。

せせらぎのほとり近く、流れの穏やかな所に浅く腰までを水に浸け、男が座っている。
男は全裸で、目を閉じた顔を上に向けていた。
その正面に向かい合わせて、脹脛までを水に浸けた子供が立っていた。
子供は両手に水を掬い、男の顔の上にさし上げては、そこに掬った水を落としていた。

坊ちゃんが、白い男の体を洗ってやっている。



「………」

木立の陰に息を潜めてその様子を見る。
見ている内に、指の疼きを忘れた。

青い光の下に照らし出された光景は、現実のものとも思われなかった。誰もいない深い林のせせらぎで、月明かりの下に白い全裸を曝す若い異形の白痴は人間ではない何かのようで、それを清める年端もいかない少年は人ならざる異形のものを洗礼する聖職のようだった。
荘厳でありながら、この光景はしかし、あらゆるものから隠された夜の帳の下にある。秘めやかで淫靡で、まるで美しい悪夢のようだった。

男の顔に水を落とした手が、濡れたまま男の顔に触れ、そして頬から額、そのまま髪へと撫で上げる。掌を享受する男は目を閉じたまま、水の上で身動ぎさえしない。

「あの見世物小屋は、」

坊ちゃんが発した声はせせらぎの音と同じ高さで、密やかに届いた。
人の言葉を解さない白痴相手に独り言を呟いておられるのか。

「まだ、あそこにあるそうです」

指で、男の濡れて萎れた髪を櫛けずりながら坊っちゃんは仰られた。男は目を閉じて顔を上げ、動かない。

「あんたの体に鞭を入れた奴等が、図々しくも、まだあそこにいやがるんだ」

そこに、その痕跡があるのだろうか。
男の髪を櫛けずっていた坊っちゃんの指が移動して、男の右胸をさも愛しげに撫でる。
性欲で以て人に触れることを知らない清浄な少年の指が、肉の反応ばかりが人並みな穢らわしい白痴の皮膚を慈しんでいた。

「それも、奴等は、」

坊ちゃんは白痴の胸を愛しまれている指を広げ、やがて掌全てでそのあたりを撫でられる。

「鞭だけじゃなくて、」

広げた掌は白痴の胸を撫でながら脇に、そして背中に回った。
坊ちゃんが、水の流れの中に膝を付かれる。

「…ねえ、あの刀。あんなものでも役に立つ?」

白痴の上体を両腕で抱き締めながら、聞いたこともないような甘えた口調で坊ちゃんがそう仰った。
その口調と刀という言葉に、背中に冷水を浴びせかけられたようにぞっとする。
忘れていた絶ち切られた指の疼きを俄に思い出し、無意識に包帯が巻かれたそこを握った。

「ねえ、役に立つ?」

人の言葉を解さない白痴相手の問い掛けに、応えがあるはずもない。
しかし、次の瞬間、自分の耳は聞いた事のない声を聞いていた。



「立つ。…十分にな」



坊ちゃんに抱かれながら、はっきりと問い掛けに応えた声は、理性のない生きた道具の発するそれではなかった。
白痴の目は遠目にも明らかな意思を持って抱き付く坊ちゃんを見詰め、そして剣呑に笑ってすらいた。

坊ちゃんは白痴の応えを聞いて満面に喜びをあらわにし、白痴の濡れた体をより強く抱くと、その首筋に唇を付けて吸われた。



*





あれは何だ。
坊ちゃんは何を買い、俺は一体何をあの蔵に運び入れたのだ。

白痴は、白痴だったはずのものは、坊ちゃんの言葉を解し、笑いながら応えていた。そして、自分の指を断ったあの刀は、あの男に与えるために坊ちゃんが持ち出されたのだ。

坊ちゃんは、いや、あの白痴は何をしようとしているのだ。坊ちゃんに何をさせようとしているのだ。

間違いない。

俺があの蔵に運び入れたもの。
多少ませてはいても、あくまでませた子供に過ぎなかった坊ちゃんを、ただのませた子供ではない何かにしてしまった、あれ。



間違いない。

あれは『良くないもの』だ。










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