自分勝手な子供の手に渡ったあれが、そう長くもつとも思われなかった。
屋敷の裏手に広がる庭の果ては、そのままこの家の地所である山林と境目なく繋がっている。
二十歳を少し出た程と思われる、成長し終わった男の体を捨てる場所の見当は、早い内に付けてあった。浅く溝を掘り土を被せて置けば、後は山に巣くう鳥獣が始末してくれるだろう。この山林では昔、そのような形で無宿者の成れの果てが見つかった事がよくあったと聞いている。

そうして準備を整えていたが、しかし坊っちゃんは自分にあれの死骸の処分をいつまでも命じられなかった。
あれは、どうなったのか。
坊っちゃんは死骸の処分どころか、まるで忘れてしまわれたようにあれの話を一切されない。主人が黙している件についてをわざわざこちらから持ち掛ける事も躊躇われて、結局はそのままになってしまっている。

あの蔵の地下であれはまだ生きているのだろうか。
あの色の無い白痴の男を、坊ちゃんはどうされたのだろうか。



庭仕事の道具を取り出しに蔵へ入るたび他の荷物に紛れて置かれた大きな長持に目をやる。いつしかそれが習慣になっていた。

長持の下の床は嵌め板になっている。
嵌め板を外すと、地階に続く縦穴が現れる。


*



坊っちゃんはこのところ急に背が伸びられた。
来春にはもう、上の学校にお進みになる。自分がこの家に来た時はよだれ掛けをした赤ん坊でおられたのに、子供の成長とは早いものだ。

「長谷川」

生垣を整える自分の背中に声がかけられた。

「はい」

振り返ると、最近ますます旦那様に似てこられた坊っちゃんが立っていらっしゃった。
右手には、鞘に納まった刀を一振り、握っておられた。
この家は元々が武家であるから、邸内を探せばそんなものはいくらでもある。だが、何故そのようなものをわざわざ持ち出されて手に握っていらっしゃるのかがわからなかった。

背後から坊ちゃんが訊かれる。

「あの小屋は今でもあるの?」

「小屋、でございますか?」

「あの見世物小屋だよ」

蔵の下の白い男は、あの見世物小屋から坊ちゃんが買い受けられ、自分が蔵に運び入れた。

「…まだ、ございます。それが、如何なさいましたか」

坊ちゃんがあれに関する事を、遂に口にされた。
ずっと黙っておられたものを、何故か、口にされた。

生垣から飛び出した余計な葉を鋏で摘む。地面には、落ちた葉が散乱していた。

「どうもしない」

みし、みし、と音がする。
まだみずみずしい葉を踏んで、坊ちゃんが自分の傍に近付いてくる。
右手には、刀をお持ちだ。

鋏を握る掌がじっとりと汗を掻いた。

「別に、どうもしないよ。…長谷川」

すぐ背後に立たれた坊ちゃんの気配を感じる。
鋏を持つ手が震えた。

ご存知なのだ。
この方は、ご存知でいらっしゃるのだ。

汗ばんで震える掌が鋏を取り落とした。
鋏は散乱した葉の中に埋まった。

「すごい葉っぱだね。片付けるのが大変そうだ」



「坊っちゃん」

葉を踏んで立つ坊っちゃんの前に膝をつき、手をついた。
12歳の少年の足元に背中を丸めて平伏し、葉が散乱する地面に額を擦り付けた。

「どうか、どうかお許しを」

「長谷川」

「どうか、」

「長谷川。お前は、使用人の分際で主人のものに手を付けたな?」

「……お許しを」

「だめだよ、許さない。どちらの手だ」

「坊っちゃん」

「あれに最初に触れたのは、左右どちらの手だと聞いているんだ」

坊っちゃんが、携えていらっしゃった刀を鞘から静かに抜かれた。
銀色をした刀身が白い陽光を反射して、ぬめるように光った。


*



桜も済んだというのに急に寒くなったある日、火鉢の数が足りないから調達してくれと女中に乞われた。女中部屋で使うものであるから、火が入れられさえすればそれでよいと言う。
邸内の納戸を粗方探し終り、最後に蔵に入った。
蔵に入ると、あの長持がずれて床と嵌め板の境が見えていた。
坊っちゃんは用心深い方だ。庭仕事の道具の出し入れでちょくちょくここに立ち入る事はあったが、そのような状態になっていたのは初めてだった。

あれは、どうなったのか。
嵌め板が見えた瞬間に、従前からの疑問が内部から突き上げた。
もう一年だ。
あれはあのとき既に死にかけていた。死ぬのなら、とうの昔に死んでいるはずだ。しかし坊っちゃんは何も仰らない。
あれは生きているのか。まだ、ここに。

気が付いた時には、嵌め板を外していた。 話すことさえ遠慮していたはずの秘密に、自分は手をかけた。



地下へ至る縦穴には梯子がかけてある。かつて自分が、ここを発見した幼い坊っちゃんの為にかけたものだ。

危ないですから、ゆっくり降りられますよう。
当時の自分の言葉が甦る。幼い日の坊っちゃんは、おっかなびっくりで梯子にすがるように降りられていた。懐かしい日が思い出されるその木製の足場を伝い、少しずつ降りる。

降りるごとに赤い灯りに暗く照らされる地下の様子が知れた。
赤い灯りはランプであろう。ランプの灯りは赤く暗く、影を多く作る。
あの日、地下に運び入れた物入れなどの簡単な調度が、形を歪めた影を多方向に伸ばしていた。
梯子を降りきる。
足下は自分が敷いた薄い畳だ。何枚かの畳が敷き詰められた真ん中に、布団が広げてある。
布団も差別なくランプの赤い灯りに照らされ、その上に不規則な形の影が薄墨色の染みめいて見えた。

それは、まるで布団の一部であるように、そこにいた。仰向いて、手足を伸ばし、横たわっていた。
影にまだらに染められた裸の胸が、ゆっくりと上下していた。生きている。
瀕死であった白い男は、死なずに生きたのだ。

男は綿の浴衣を着せられてはいたが、腰で緩んだ帯より上は炎天下で人足がやるように全てはだけていた。肩や胸や腹が、剥き出しになっている。
そして剥き出した体の、赤い灯りに照されてもなお白い皮膚には、無数の小さな痣があった。

無数の痣と、そして歯形が、無残な程に散らばっていた。

あの子供は、この男に一体何をしているのか。

慄然とする自分の前で、男はゆっくりと胸を上下させている。
目蓋が閉じていた。眠っている。
運び入れた時と比べれば肉付きは良く、とても一年前まで死病を患っていた者の体には見えない。そして、日の当たらない地下に幽閉されていた体にも思えなかった。
髪は耳が出る位の長さに丁寧に刈られ、浴衣がはだけた情痕まみれの体は清潔が保たれ、汚れた様子は全く見られなかった。

坊っちゃんは、ご自分で言われていた通りになさったのだ。

大切に、可愛がった。



何故だか知らぬがこの家には『ねえや』がいない。坊ちゃんは、自分が背負ってあやした。風邪をひけば介抱し、旦那様に叱られれば慰めて差し上げた。恐縮にも、あの子は自分がお育てしたようなものだった。

膝が萎えて立っていられなくなった。しゃがみ込み、それでも足らずに尻を付いた。
反動で突き出た足が、それの大腿に当たった。

「っ」

その瞬間、それは口を開け、大きく一つ息を吸った。
ゆるやかに上下を繰り返していた痣と歯型だらけの胸が、息に合わせて一瞬大きく膨らんだ。

白い男は、呼吸に開けた口をそのままに、閉じていた目蓋を開いてこちらを見た。
開いた口の中に見える濡れた舌と目蓋の隙間から覗く瞳が、同じくらいに赤かった。









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