朝、建て付けの良くない玄関の引戸を開けた新八に、銀時が台所から上半身だけを出して

「よー」

と、気の抜けた挨拶をした。
手にはフライ返しを持っていた。油がはぜる音が聞こえ、焦げた蛋白質の匂いがする。卵か何かを焼いているらしい。銀時は寝巻きのままで前掛けさえしておらず、ただでさえ癖の強い髪は寝癖が酷かった。いつも通りにだらしがなかった。

「おはようございます」

新八は何も変わらない銀時の様子に引きずられて、つい、いつもと同じような挨拶をしていた。
とてもではないが、そんな事が出来る精神状態ではなかったにも関わらず、口が反射的にその9文字を発していた。

「来たんなら、自分の分の卵焼けよ」

お前の焼き加減の好みは面倒臭い、と銀時が言った。銀時が焼く目玉焼きはいつも焼き方が足りない。黄身が半熟なのはいいが、黄身の縁の白身までが生っぽい。新八はそれが気に食わなかった。目玉焼きは、黄身は柔らかく、それでいて白身は固くあるべきだと思う。
新八は履き物を脱いで上がり、手荷物を居間のソファに置いてから台所に引き返した。最近は朝食を万事屋で採るのが何となく習慣になっていた。
台所に戻ると、銀時が焼き上げた卵を皿に移している。覗き込んだ皿の卵は、やはり火の通りが不十分で、黄身の周りに半液状の透明な白身がぐずぐずとまとわりついていた。



銀時がテレビを見ながらどうでもよさそうに食べ、その隣で神楽が部屋の隅で餌皿に顔を埋めている犬と変わらないがっつき方で食べている。新八は向かいの二人の気配をぼんやりと感じながら、固めに焼いた卵の黄身に箸を刺す。
室内は明るかった。肌寒いが良く晴れた日だ。昨夜の雪は、もう路傍にも残っていない。
箸が突き通って破れた皮膜の下から、半生で粘度の高い黄身が少しだけ溢れた。

「私、今日お昼から出てくるヨ」

「…あん?どこへ」

「銀ちゃんに言う必要ないアル。女同士で、ちょっと約束があるネ」

神楽が、新八が皿の端によけていたシシャモの頭に当たり前のように箸を伸ばした。
焦げの味しかしないそれを神楽の頑強な顎が噛み砕く。彼女はどんなものからでも栄養を吸収しようとするし、そして実際に吸収する。迷わないし、躊躇わない。

「お前みたいなもんが約束ねえ」

テレビを見ながら銀時が憎まれ口を叩く。すかさず神楽は

「お前みたいなもんには、約束の大切さは理解できないネ」

と、口の中のシシャモの頭を咀嚼しながら言い返した。剥き出した歯には、消し炭みたいなものがいっぱいに付着していて、新八は女の子がみっともないと呆れながらも、同時にその野卑な逞しさを微かに尊敬する。

「約束は大切だよ」

食欲はない。箸は卵の黄身をしきりに崩すだけで、一度も口に触れていなかった。
加勢されたと思った神楽は調子に乗って、約束の大切さについて嬉しそうに語り出す。
銀時は新八の言葉に少しだけこちらを見たが、すぐにテレビに向き直った。

何を考えているのか知らないが、神楽を盾に逃げようなどという甘えた考えが許されるとは思わない事だ。

食欲のない新八は神楽に目玉焼きを遣った。
神楽はお前のはいつも焼き過ぎだと文句を垂れながら、譲られたそれを殆ど噛みもしないで平らげた。神楽は銀時の焼いた生っぽい卵が好きだ。正確には銀時の焼いた卵が好き、というべきだが。
あくまでもきっちり焼いた卵が好きな新八とは違う。しかし神楽は文句を垂れながらも新八好みの焼き加減の卵も進んで食べ、体の栄養にする。
彼女は逞しい、と新八はまた思った。



「新八。飯は食えよ」

テレビから目を離さない銀時が言った。

食えねえよ。

その何でもなさそうな横面を張り倒してやりたい気持ちをどうにか抑え、当て付けのように無理矢理かき込んだ飯は全く味がしなかった。




*






「いつから知ってた?」

銀時が低い声を出した。神楽が出掛けてしまった居間は静かでがらんと広く、銀時の低い声が妙に響いた。

銀時は、数えて3つ前の時にようやく気付いたと言った。
3つ前の時に誰かがつけている事に気付き、1つ前でそれが新八だと気付いた。だから昨夜は、新八だと気付いた上で鎌をかけた。
嘘だ、と新八は思った。
最初から銀時は気付いていたのだ。姉に忘れ物を届けた一番始めのあの晩に、銀時は気付いていたのだ。よくよく考えれば自分ごときの尾行に気付かない銀時ではない。
もし、万が一気付かなかったのなら、最後まで気付かないはずだ。3つ前の時に限って気付く理由などない。

頭が痛い。体温が上がらなくていつまでも寒い。
昨晩は全く眠れなかった。



頭と肩に薄く雪を積もらせた銀時は、新八の質問に一切答えなかった。そのくせ、踵を返して帰ろうとする新八を追って来て勝手に並んで歩いた。治安の良くない夜の街だ。見送りのつもりだったのか。新八は銀時を一度も見なかったし口もきかなかったので、彼がどんな様子だったかは知らない。
新八が固く閉ざされた自宅の門を開けようとした時、ようやく銀時が声を発した。

「おやすみ」

反射的に振り返って見た銀時は、街灯に暗く照らされていた。両手をポケットに突っ込み、肩を竦めて寒そうに、首を心持ち傾げて眠そうに目を細め、まるで普段通りの佇まいで暗い明かりの下に立っていた。
あんな事があった後にそんな様子でいる銀時が、何を考えているのかわからない。
わからなかったが、蔑ろにされていると新八は感じた。
そう思った瞬間、掌で銀時の頬を打っていた。

適当に着物を脱いだだけで潜り込んだ布団は湿って冷たく、いつまでも眠りに引きずり込んでくれはしなかった。足先は冷え切っていた。しかし頭の中は煮えていた。眠れるはずなどない。
見知らぬ他人の肌のようなよそよそしい布団の中で、一晩中銀時の事を考えた。おおよそ、彼と出会ってから初めて彼を憎いと思った。



一晩中銀時の事を憎み続けていた新八は、銀時の発する言葉を何一つ信じる気になれない。全てが自分を欺く嘘に聞こえる。
テーブルの上に神楽が食い散らかした菓子の屑が散らばっていた。いつから知っていたか、という銀時の問いに、新八は散らばった屑を無意味に目で数えながら答えた。

「ずっと知ってました」

「いつから」

「覚えてるもんか」

尋問する権利は銀時にはない。新八は一番近くにあったクッキーの包装を拾って手の中でぎゅっと丸めた。

「金がいるからですか?」

昨夜もした質問だ。昨夜の銀時は答えなかった。
銀時は新八が手の中に握ったクッキーの包装を見詰めている。そして

「…理由がいるのか?」

同じ答えを返した。

蔑ろにされている。銀時の行動そのものよりも何よりも、この返答が自分を、神楽を蔑ろにしていると感じる。

「答える気はないって事ですか」

「違う」

「じゃあ言え」

「言えない」

「ふざけるな」

荒げた声と一緒に、握り込んで硬く圧縮されたセロファンの屑を投げ付けた。小さくなったセロファンは銀時の膝に当たり床に落ち乾いた音を立てた。

「…お前には悪かったと思ってる。お前がつけてきてるのに気付かなかった俺が悪い」

銀時は上体を屈めて床に落ちた屑を拾った。そして、テーブルの隅にそれを置いた。
その言葉を聞いた新八は昨夜から培った怒りを上回る酷い無力感に襲われ、何かを言う気力さえ失った。
気付かれなければ、新八や神楽の知らない所であれを続けたということか。素知らぬ顔で?
信じられない。
今までに築き上げてきた銀時に対する信頼のようなものが、一気に損なわれた気がした。

「もうしねぇよ。二度と」

嘘だ。

新八は俯いて、銀時の顔を見ずに声だけを聞く。どうせ銀時は、あの、妙に優しげなしおらしい表情をしているのだ。あれを見ると騙される。あの表情にかつて何度も騙された。同じ徹を踏むまいと自分の膝だけを見て聞けば、銀時の言葉はこの上なく嘘々しかった。

「理由も聞かされないで、ただやめるって言われたって信じられやしない」

「じゃあどうしろってんだよ」

「あんな事をする理由を言って下さい」

「言えねぇ」

下唇を噛み締め、神楽が散らかしたテーブルの上の菓子の屑を睨むように見詰めた。膝の上で両手を握り締める。
神楽ちゃん。
今ここにいない、逞しくて健気な愛すべき女の子を思う。
銀時が喜ぶから、と言って自分は食べない飴を少ない小遣いの中から買っていた。それが菓子の屑の横に開封されないまま置かれている。
それを見た瞬間、質量のある何かが鼻の奥に熱くせり上がってきた。
神楽ちゃん。
助けて。

「どうせ隠れて続ける気だろう。あんたはそういう人だ。あんたはわかってない。僕らがどういう気持ちでいるかも、あんたの事をどう思ってるかも、何にもわかってない。一体いつになったらわかってくれるんですか。それともわかる気がないんですか」

「何言ってんのかなあ、お前は。だから俺は二度としないって言ってるだろう」

「信じられない」

「…じゃあもう、どうしようもねぇよ」

ぎっ、とソファを軋ませて銀時が立ち上がった。
新八が見上げた先で、銀時は天井から吊られた人形のように立っていた。通じ合う心などはなから持ち合わせていない、無機質な人形のようにただ立っていた。変わった色の光彩の奥に、血の通ったものは何も住んでいないようだった。
行き詰まっていた新八と姉を救い、行き場のない神楽を拾い、懐に入れて肉親のようなお節介を焼いたり、間抜けなバカをやらかして周囲を呆れさせたり、一緒に食事の支度をしたりした、あれは一体誰だったのか。
少なくとも、こいつとは別人だ。
じゃあ今、ここにいるこいつは誰だ。

「愛想が尽きたか?俺には弁解する権利はないし、そもそも弁解なんかできない。…もう、お前の好きにしろよ」

立ち上がった銀時がそう言った時、新八は頭の奥で何かが千切れる音を聞いた。

銀時の胸倉を突き飛ばす。座面がバウンドする程の勢いで、立っていた銀時をソファに押し倒した。
足が乗り上げたテーブルの上から、神楽の菓子の屑と飴の袋が落ちた。

「好きにしろって何だ。僕にあんたを棄てろって言うんですか」

見くびるな、と新八は両手を銀時の喉にわたした。
そこに、ぐ、と体重をかける。

「僕らがどんだけあんたを大切にしても、あんたはそれをわかろうともしない。ねえ、わかってんですか、あんたは独りだったし僕らも独りだった。だから一緒にいるんじゃないの。一緒にいるのに、あんただけはいつまでも独りでいるつもりなんですか。何で」

新八は銀時の体に乗り上げて、真っ直ぐに伸ばした腕を通じ、銀時の喉に置いた両手に全体重をかける。55キロの負荷を主要な血管と気管にかけられた銀時は、脚を曲げてもがき新八の体を押しのけようとする。
抵抗を感じた新八は更に力を込めた。
銀時は顎を上げ、食いしばった歯の間から動物のような呻きを漏らした。

「銀さん」

締め上げる喉は温かく湿って、圧力に抵抗する筋が新八の手の下で強く緊張して時折痙攣した。昔どれだけやんちゃをしていたか知らないが、こうなれば脆く儚い、ただの一個の生き物だ。
銀時を買った男たちは、こんなものをまるで玩弄物のように扱っていた。試食の菓子を摘むような気軽さで口を吸い、欲望を剥き出しにこの身体を弄っていた。
そして銀時本人もその扱いを当然のように甘んじて受けていた。

決壊した涙腺から溢れた涙が、銀時の額に立て続けに落ちた。
あの男たちは銀時を粗末に扱った。そして銀時もまた、銀時を粗末に扱った。
しかも粗末にしておいて、気に入らなければ棄ててしまえと言う。
誰であれ、と新八は思った。

誰であれ、銀時を粗末に扱う奴は許さない。

ソファのスプリングが何度も軋む。新八の手が、反動を付けて銀時の喉を繰り返し絞めた。

「…っ」

新八の下で銀時の体が何度か不規則に痙攣を起こした。新八の手首を掴んでいた手の力が急激に抜け、ソファの下にだらりと落ちた。食いしばっていた上下の歯が隙間を作る。
このまま殺してしまいたい、そう思ったが、こいつは銀時を粗末に扱う憎悪すべき人間であると同時に、新八と神楽の大切な銀時本人そのものだった。

新八はゆっくりと銀時の喉から手を離した。

途端に激しく咳き込む銀時の額に落ちた新八の涙が、彼が横を向いた拍子に流れて白い髪の生え際に吸い込まれていった。
銀時が咳き込む度に、その上に乗りかかった新八の体が揺れた。

もう、こんな奴には銀時を任せてはおけない。

「今度から、僕もついて行きますから」

これ以上こいつが銀時を粗末に扱わないよう、自分が監視して、そして完璧に管理する。

銀さんは僕のものだ。

「…何だって?」

荒れた呼吸の合間に銀時が言った。

「あんたが男に抱かれてるとこに僕を同伴させろって言ってるんです」

銀時は絶句した。
それから震える溜め息を吐いて、腕を持ち上げ新八の胸を押し、自分の上から退かそうとした。

「もうしないって言ってるだろ…」

まだ言うか。
新八は銀時の腕を振り払い様、前髪を掴み、その後頭部をソファの座面に押し付ける。
そして囁くように優しく言った。

「あんたがする約束に意味なんかないです」

神楽が言う通りだ。こいつは約束の大切さを理解していない。約束は、場を取り繕う方便ではないのだ。
そして、これは方便などで取り繕える話ではない。言葉のような観念は力を持たない。
力を持つのは、容赦のない現実だけだ。

「僕を同伴させないなら、あんたのやってる事を神楽ちゃんに全部バラす」

銀時は窒息のために疲労して虚ろだった目を途端に鋭くした。
神楽は女の子だ。そして銀時によくなつき、彼を父親のように兄のように思っている。

「お前、頭大丈夫か…」

大丈夫なわけがない。大丈夫でいられるわけがない。

新八は銀時の腹の上からずるずる滑り降り、床に尻を着いて座り込んだ。
力を込め続けた両肩から指の先が震えている。震えは胴体まで伝わり、体を支える事が困難だった。崩れるように、横たわったままの銀時の胸の上に震える上体を突っ伏した。横向きに倒れこんだ目に、銀時の脚と爪先が見えた。
まだ少し乱れている呼吸の音が、耳をくっ付けた胸の底にある肺から聞こえてくる。それから、強く打つ心音と、熱いくらいの体温を頭の側面全部で感じる。
やはり風邪をひいたのではないか。平熱にしては熱すぎる。

「銀さん」

新八は目を閉じて、呼吸と心音、それから高い体温だけを感じながら銀時を呼んだ。

「僕を同伴させるか、神楽ちゃんに全部知られるか、」

選べ。

と言った自分の声の冷たさに、新八は他人事のように驚いた。

耳の中に直接響いてくる心音が、僅かに速度を上げたような気がした。









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