その日は休みだったが、姉の忘れ物を届けるために新八は夜の街に出た。

新八は基本的に夜の街には用がない。
仕事か何かで銀時や神楽と一緒にうろつく事はあったが、そうでもなければ殆ど足を踏み入れる理由がない。
新八にとって、夜の街は見慣れてはいるが身近ではなかった。

街は重たい夜の闇の下でのたうつように、儚い光を発し虚勢を張るような喧騒に包まれている。
眠るべき夜に眠らず、そして眠るべきではない昼に眠る。

姉が勤める店に向かう道を歩きながら、新八はこの街の昼と夜を思った。




*






店の裏口で忘れ物を手渡した時、姉は酔っていた。
新八の手を引っ張って店内に連れ出し

「弟なの」

と言って、客や同僚の前で晒し者にした。
姉は酔っていて話が通じず、客や他の女は『目が似ている』だの『でも地味だ』だの言って面白がった。

新八は居心地が悪く、無理矢理座らせられたソファの上で、飲みたくもない甘いカクテルに沈んだオレンジの切れ端をストローで崩しながら帰るタイミングを伺っていた。

「あれ?」

一人の客が新八の顔を見て声を上げた。

「お前、万事屋のとこの」

そうか、お妙ちゃんの弟だったのか、などと軽く驚いている。新八は適当な返事をしながら、銀時と一緒にいると自分みたいな子供でも顔が売れてしまうのだな、と思った。



銀時は顔が広い。単に商売柄必要もあるのだろうが、それよりは処世術として人脈を広く持つ。

知ってる人にはそう悪くできねぇもんだろ。

と銀時は言った。

全然知らない奴がお通のCDに傷入れるのと知り合いが傷入れるのだったら、おんなじ腹立つでも程度が違ってくるだろ。

と、二日酔いでゲロ臭い銀時は言った。

知り合いでも腹立つもんは立ちますけどね、と仕事を忘れて飲んだくれて朝帰りをした銀時を張り倒しながら、しかしそれは確かに一理あるな、などと新八は思った。



「悪い事ばっかり覚えてきて困ってるの。でも気に入ってるみたいだから、それに越したことはないと思って。この子は今までどこも気に入らなかったの。でも、あそこは、この子が初めて気に入った所なの」

話に入ってきた呂律の怪しい姉が、酒が回っていつになく饒舌な口でそう言った。
前半は素面の時でも言う事だが、後半は酔ってでもいないとなかなか言わない事だ。酔った姉から漏れ出てきた温かい本音、のようなものを感じて新八は恥かしくなった。崩してぐずぐずになったグラスの中のオレンジをストローでかき混ぜた。

「良い事ばっかりで人はおっきくなるわけじゃねぇからな」

客が言った。そして新八の肩を叩き、がんばれよ、と言った。

新八は、なにをだよ、と思いはしたが『がんばれよ』という言葉はそうも的外れではないと思えたので、適当に頷いておいた。




*






甘いばかりの酒を飲まされて頭が痛い。さっさと帰ってさっさと寝ようと早足で歩いた。
犇めき合う店々が発する雑多な光が、網膜にちらちらした残像を残す。

ちらちらした残像に紛れて、珍しい毛色の頭が見えた。
銀時だ。

金はないはずなのにどこに行くのか。またどこかでツケを上乗せするつもりなら現場を取り押さえて指導してやる。
新八はこっそりと白い頭の後をつけた。



新八は雑踏を盾にしてある程度の距離を取り、聡い銀時に気付かれないようにその後ろ姿を追った。銀時は、いつも通りのまるで目的のないような足取りで雑踏を抜けていく。



成り行きとはいえ、行き詰っていた新八と姉を恩を着せるでもなく救った銀時は、腕が立ち、そこそこに頭も回った。この荒くれた街でまっとうな価値観を保ち、ささやかな人望を得て逞しく生きている。
形だけ見れば、銀時は新八にとっての英雄であってもよかった。

しかし実際に彼の懐に入った新八の目に映ったのは、格好のいい英雄などではなく、平凡な喜怒哀楽を持った、叩かれれば痛がる、弱音も吐けば馬鹿な事もするただの一人の人間だった。
抱いていた幻影のようなものはあっさりと打ち砕かれたが、新八は別に落胆はしなかった。
血の通わない英雄よりは、血の通ったただの人間が時折見せる英雄性、みたいなものの方がいい、とだらしのない銀時を見ている内に思ったからだ。

今となっては、新八は銀時の『ただの人間』な部分に深い愛着を感じている。だから、彼が清潔なただの英雄なんかでなくてよかった、と新八は思う。

今まさに『ただの人間』の間抜けさを露呈しようとしている銀時の後をつけながら、新八は仕方のない奴と呆れつつも、どこか温かいような気持ちでいる。



銀時は飲食店の立ち並ぶ通りから逸れ、やがて街の裏手のそういう場所へ進んで行った。

金もないくせに女かよ。

ひとけが少なくなってきたので物陰に注意深く身を潜めながら、新八はうんざりした。
銀時の人間臭い部分には愛着を感じるが、それも度を過ぎると癇に障る。第一、新八が管理している万事屋の出納帳、あの出納帳にこれ以上赤色で何かを記入するのはごめんだった。

いつ取り押さえてやろうか、と思案する新八の先で銀時はしかしどの店にも入る気配を見せない。先程と変わらない、まるで目的などなさそうな歩調で進んで行く。



ひとけはないが、無人というわけでもない。それ目的であろう男達が歩いていたり、道の端で佇んでいたりする。狭い店舗の上階の窓が開けられて、中で殆ど半裸のような女が煙草を吸っているのが見えた。
こういう世界に憧れがないわけではないが、どちらかというとまだ怖いような気がする。そう思ってしまう悔しさ半分で不潔だと思っていたりもする。

銀時は時折この手の事を持ち出して新八を軽くからかったが、どうやらそれは単に面白がっているばかりではなく、そうした新八の複雑な心情を知ってか知らずか、本気で心配しているところがあるらしい。

心配してくれるのは有難いが、余計なお世話だと思う。



銀時はまだ立ち止まらない。だるい歩調でゆっくりと歩いている。

何をしているのか、と新八が不審を抱き始めた時、一人の男が銀時の傍に近寄り銀時の足を止めさせた。

男は立ち止まった銀時と二言三言言葉を交わす。
会話は低い小声で行われたために、内容は聞き取れなかった。この辺りは飲食店がある界隈に比べて暗いため視界も良くない。新八は隠れている自動販売機から少しだけ身を乗り出した。

短い会話が済むと、男がおもむろに手を伸ばした。
そして銀時の顎の下を、まるで猫にするようなやり方で擽った。

なんだそれは、と目を疑った新八の視界の中で、男はそのまま銀時の顎を取り、口を吸った。

銀時の背中に、男の両手が回る。
それらは遠慮などどこにもない動きで背中から滑り降り、銀時の身体を抱き寄せがてら、片方は大腿の裏側を撫で、もう片方は尻を掴んで揉むように動いた。

銀時は全く抵抗しなかった。



呆然とする新八の耳に銀時の声が届く。

「おい、前金だって言ったろ」



新八は自動販売機の裏で、それに背中を縋らせながら崩れるようにしゃがみ込んだ。



男に抱かれながら、それを拒むでもなく言った銀時の言葉の示すところは、つまり。



酷い動悸がして、呼吸が思うようにならない。
しゃがみ込んだまま浅い呼吸に喘ぐ口を両手で塞いだ。




*






何も見なかった事にするべきだ。
自分一人が口を噤めば事足りる。初めから何もなかった事にしてしまえ。

瞬間的にそう思おうともしたが、素知らぬふりをしてなかった事にできるほど新八にとって銀時は軽くなかった。

別に普段は自覚もしないが、それでも明らかに銀時は新八にとって神楽にとって他に替え難い存在だ。
何かの間違い、或いは一度きりの過ちみたいなものかもしれない。
そうであって欲しいと新八は思った。



「俺、今夜出るから」

銀時が神楽に言っている。
鍵閉めて寝とけ、という常套句が続く。神楽も慣れたもので、んん、という了解とも何とも取れない適当な返事を返していた。新八は台所でそのやり取りを聞いている。

あの日以来、新八は銀時が夜に出歩く際は可能な限り後をつけた。
あれが何かの間違い、或いは一度きりの過ちである事を願って、夜の街の裏側に進んでいく銀時の後姿を追った。

しかし新八の願いはたったひと月ほどの間で失望に変わった。
本当に飲みに行っているだけの事もある。しかし、そうではない事の方が多かった。

物陰に隠れる新八の前で、銀時はあの日とほぼ同じ事を繰り返した。相手は毎回変わり、銀時は相手と必ず金の授受を行った。銀時に接触する男達は、まるで当然のようにその目的で銀時を呼び止めていた。

確信するしかなかった。

銀時は身体を売っている。それも不特定多数に、恒常的に。



金がいるからだろうか、と新八は具材の少ない味噌汁をかき回した。
具材が少ないとはいえ、味噌汁が作れないわけではない。そんな事をしなくても食えるはずだ。新八は万事屋の財布を預かっているが、収支の状態からそこまでの逼迫は感じられない。

わからない。
銀時がそうする理由もわからないし、そんな事をする銀時というのもわからない。

「新八」

ぎょっとして菜箸を取り落としかけた。

「何か足りないもんあるか」

出たついでに買ってくる、と銀時は言った。

台所の入り口に軽く寄り掛かり、節が高い足の指でもう片方の足の甲を引っ掻いている。緩んだ帯が回る腰回りは扁平で厚い。粗雑な動作と粗雑な造りだ。

こんなものが男に抱かれているのか。

あれを知ってから、新八は銀時を正視できなくなっている。
新八は、立っている銀時が視界に入らないよう湯気を上げる鍋ばかりを見ながら

「塩が」

と言った。

今夜出かけるのは何の用事なのか。知らないが、どのみち新八はつけるつもりでいる。

ただの夜遊びならいい。
しかしそうでないのなら、そんな事のついでに口に入るものを買うつもりか、と胸が悪くなった。

「…お前、今日は早く帰れ」

銀時が言った。言いながら台所に入って来て、新八が切りかけのまま放っていた俎板の上の葱を刻み始める。

自分の何かを気取られたのかと新八は緊張した。
狭い台所で並んでいるために、すぐ傍に銀時の呼吸や体温の気配を感じた。

「夜から雪らしいから」

突っ立っている新八の前に、銀時の上体が割り込み、鍋に俎板の葱を落とす。
沸きかけた鍋の中で、葱は対流に巻き込まれてぐるぐる回った。

「寒ぃのはもう十分だよな」

斜め後ろから見えた銀時の表情は、何の含みもない全く普通のものだった。




*






確信したなら、問い質すなりなんなりすればいい。何度見たって事実が覆る事はない。
そうであるのに、なぜ自分はいつまでも銀時の尾行を続けているのか。



銀時が言った通り雪が降り始めていた。
路面は薄く積雪し、先を行く銀時の足跡が街灯に黒く照らされている。

銀時は寒がりだ。寒そうに肩を竦めた背中を見て新八は、また風邪をひくんじゃないか、と場違いな心配をした。



おそらく自分は怖いのだ、と肩を竦めた銀時の背中を見ながら新八は思う。
確信したものの、問い質すのは怖い。新八の見た事は明らかにそれだったが、それを銀時に問い質した時、銀時が否定をしなかったら、と思うと怖かった。

今更ながら、新八はあれが嘘であればいいとどこかで思っている。そう思い込む事で直視し難い現実からどうにか目を逸らしている。しかし、実際にあれを銀時の口で肯定されてしまうと、もうそれもできない。新八は、逃げ場を失う。

どうにも出来ず、意気地のない惰性で新八は銀時の後を追っている。惰性に囚われる新八は、銀時が身体を売るのを何度も見なければならなかった。

眼下に、銀時が雪を踏んだ跡が一定の間隔を保ちながら続いている。
どうしたらここから脱出できるのかが、わからない。



ふと、銀時が足を止めた。

『客』が見つかったのかと思うが、周囲には誰もいない。
肩を竦めたいかにも寒そうな後ろ姿を見せながら銀時はその場にただ立っている。

街灯の暗い光に、まばらに落ちてくる細かい雪が白く光っていた。

ややあって、銀時が低く発声した。



「…買ってくるのって、塩だっけ、砂糖だっけ」



背を向けたまま発されたその言葉は、氷点に近い気温に晒されて、新八の耳に届く頃には乾き切っていた。



銀時は知っているのだ。
新八がそれを知っているという事を、知っている。



「銀さん。…なんで?」

金がいるからですか?

そう聞いた新八に、銀時は寒そうな背を向けるだけで答えない。

「ねえ、なんで?」

たまらなくなって新八が再度尋ねると、銀時は、

「…理由がいるのか?」

と逆に質問を返した。
その声は、やはり乾ききって新八の耳に届いた。









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