(5)



女の子は神楽といった。
神楽は言った。

「パピーはすぐどこかに行っちゃう。にいちゃんはわたしを叩く。でも銀ちゃんはどこにも行かないし、わたしを叩かない」

だからここに来るのだ、と言った。

「君の事が見えないし、言っている事も聞こえないのに、君はここに来るの?」

「じゃあお前は?お前はどうしてここに来るの?」

「僕は、…親戚の家が居心地悪いから。でも、ここは居心地がいいから」

「銀ちゃんはお前の事が見えないし、言ってる事も聞こえないのに?」

「うん」

神楽は不幸な女の子で、そして、新八と同じ理由でこの崖に通っていた。


新八はそれから神楽と時間を合わせてこの崖を訪れることにした。
町並みを見下ろす崖で、神楽はお菓子を食べたり、友達に手紙を書いたり、返答しない『銀ちゃん』に昨日あった事を話したりし、新八はその傍で音楽を聴いたり携帯をいじったりした。
時折、自分の事をお互いに少しだけ話した。多くは話さなかった。新八にとっても神楽にとっても、ここは、そのようなものを持ち込みたくない場所だったからだ。
静かで、安らかな時間だった。居心地の悪い親戚の家で磨り減り、常にぴりぴりと痛みを覚えている神経に、穏やかな麻酔をかけられるような気がした。

『銀ちゃん』は何も覚えていないのだ、と神楽は言った。

「生きているときのことは何も覚えてないって言ってたよ」

「自分が死んでる事は知ってるの?」

「それは知ってる。何でだかは忘れたけど、ああ死ぬんだ、って思ったことは覚えてるって。そしたらいつの間にかここにいたんだって」

自分の噂をされている彼は、やはり新八達に意識を向けず、眠たそうに町並みを見下ろしている。
彼の服装は、少なくとも50年は前のものだ。
50年、彼はここでぼんやりしていたのだろうか。たったひとりで。

「ねえ」

新八は神楽に聞いた。

「僕らは今、彼が見えているのに、彼には僕らが見えていないの?」

神楽は平べったい石の上に載せた便箋に友達への手紙を書きながら言った。

「見えてない。わたしはずっと銀ちゃんに気付いてたけど、銀ちゃんはわたしと話をした日に初めてわたしに気付いたって言ってた」

「どういう仕組みなんだろう」

「わたし達は遠くからでも銀ちゃんに気付くけど、銀ちゃんはわたし達がすごく近くまで来ないとわたし達に気付かないっていう仕組み」

たとえば肉親を亡くしたりして、死が身近な人間が彼に気付く。
そして、もうすぐ死ぬほどに死に近付いた人間であれば、彼も気付く。

人間は死に対して敏感だが、死は実際にその人間が懐に入るまではその人間に構いもしない。人がどれだけ死んでしまいたいと思っても簡単に死ねはしないのはそういう事だ、と新八は思った。

「こんなに近くにいるのに」

彼の透けている外形の向こうに、海と空を分ける水平線が透けて見える。
神楽は書き損じた便箋をくしゃくしゃに丸めると、ぽいと投げた。彼女が投げた便箋は、彼をすり抜けて新八の顔に当たった。

「近くて遠い」

彼女はそう呟いた。何か悲しいことを知っている、大人のような表情だ。

「神楽ちゃんはさ、これからもずっとここに来るの?」

「来る。いつ、また銀ちゃんが近くなるか知れないから」

しかし、それは彼女が死ぬ時だ。

新八の半月は、こうして過ぎて行こうとしていた。




新八の前に姉が立った。
姉は背が高い。座っている新八は立ち塞がる姉を見上げる首が痛くなり、

「何」

と言いながら、首を下げて床に開いていた雑誌に視線を戻した。
その雑誌の上に軽い音を立てて紙切れが落ちた。紙切れは航空券だった。落としたのは姉だった。

「新ちゃん。明日、帰んなさい」

新八は再び姉を見上げた。予定ではまだ2日滞在するはずだ。

「僕だけ?」

「私はまだ用事があるから」

「何でだよ。予定通り一緒に帰ればいいだろ」

「あんた。嫌なんでしょ、ここが。帰りたいんでしょ」

姉は新八とそう歳も離れていないが、そう言う表情は妙に大人びていた。
崖の神楽に似た表情だと新八は思った。
何か悲しいことを知っている表情。

「別に」

新八は姉から視線を逸らして雑誌の上の航空券を拾った。
家に帰る。姉の言うとおり新八はずっと帰りたかった。しかしそれは、ここよりはマシだという意味でだ。
父は春に死んだばかりだった。母も何年も前に死んでいた。理由あって両親は親戚付き合いを全くしなかった。何一つ落ち着く間もなく、いくら縁戚とはいえ初めて会った知らない人に今後頼っていかなければならなかった。
悪い人ではない。わかっている。顔も知らない親戚の子供ふたりの後見を引き受けるなど、むしろ大きな善意がないとできない事だ。よくわかっている。
ただ、どうにも疲れて、何もする気がしないのだ。
何もかもに疲れてしまって、全てがどうでもいいとしか思えない。どこにいようと何をしようと居心地が悪くて仕方がない。
あの崖以外で、落ち着ける場所なんかどこにもない。

「でも叔父さんは、あんたが行きたいって言うなら大学も出してやるって言ってくれてるんだからね。それを忘れないで」

「僕?行かないよそんなん。大体、大学なら僕じゃなくて…」

成績は姉の方がずっと良い。学校の先生になるとか言ってなかったか。

「私は女だからいい」

姉は大人びた悲しい表情でそう言った。
女のくせに、だとか言われるのを彼女は何よりも嫌っていた。以前の姉なら絶対に言わなかった事だ。
あの叔父が、それに類する考え方を口調の端々に滲ませていたのを新八は何度も聞いていた。

「…女だからとか言うな」

新八は、そのまま立ち上がって家を出た。
手には航空券を握り締めていた。




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