大連


真冬の大連は吹く風までが凍っている。

新八はサルの子のように坂田の背中に抱き付いていた。
自転車のタイヤが石ころだらけの路面を抉りながら重たく回る。凍った路面に平坦な所はなく、自転車はしきりに上下に揺れた。坂田の後ろで荷台に跨がる新八は、振動で打ち付けられる尻が痛かった。
舌を噛まないように歯を軽く食いしばった新八は、道端のコウリャン売りが客を寄せる不思議な抑揚の声を聞きながら、微熱に潤む目を閉じた。



花崗岩を彫って作った円く浅い鉢がある。前の住人が置いていったもので、それには金魚が入れてある。凍り付いてしまうから冬は室内に入れておく。
金持ちの家にあるような暖炉や石炭ストーブはない。それでもささやかな薪ストーブはあるので、室内はそれなりに暖かい。金魚の水に指を入れると、さほどに冷たくはなかった。金魚は今が冬だと知らないだろう。
神楽は小麦粉を発酵させずにこねて焼いただけのパンを、細かい欠片に千切って鉢の中に落とした。大きく育った金魚が、水底からぬるりと上がってきてパンの欠片を水ごと丸呑みにした。

外で自転車の高いブレーキの音がした。
神楽は屈み込んでいた金魚鉢から弾かれたように顔を上げ、大急ぎで外と室内を隔てるドアに駆け寄った。嬉しい犬のような動作だった。
彼女の小さい手が、ちゃちな作りの閂をそれでも苦心して外す。

開けたドアの向こうを覗くと、着膨れした男が、男の倍は着膨れした少年に肩を貸して立っていた。
神楽は満面で笑った。その顔面だけに春が来たようだった。

「銀ちゃんおかえり」



*




坂田が内地から大連に移ったのは3年程前の事だった。
昔からの頼もしい友人がこちらに商売の拠点を移したので、そのツテを頼っての事だと新八は教えられた。
舞鶴の港を船が離れる時、彼の右手は13になったばかりの新八の左手を取っていた。
13ではもう手を取られたりするのは恥ずかしい年齢だが、なんせ港も船内も人で溢れていた。新八も恥ずかしいなどとは言っていられず、人波に押されながら坂田の手を強く握り返した。

坂田は前の戦争で右脚を負傷した。そのために、杖が要るほどではないが軽く引きずって歩く。
そのような坂田は、若い頃から培ってきた得体の知れない人脈を利用して糊口を凌いでいた。
坂田の人脈は広く、色々な人間がいた。財閥の御曹司もいればヤクザもいたし、かと思えばただの勤め人も、地道な商売を営む者も、果ては無政府主義者までいた。金持ちも貧乏人もいたし、帝大出もいれば文盲もいた。それらの間をくぐり抜けながら坂田は細々と、しかし危なげなく生きていたが、あらゆる場所を通り過ぎる彼の網には時に思わぬものが引っかかった。



新八の家は士族の系譜にあったが、多くの士族がそうであったように彼の家も維新以後没落した。
祖父から潰れかけた家を受け継いだ父は向かない商売に手を出し、それだけならまだしも、迂闊に保証人の印をついた。幼い新八が気付いた時には父は膨大な借金を残して既に亡く、姉は女給をしていた。母は元からいない。新八を産んだ翌日に産褥で死んだ。

女給の姉が、坂田に新八を預けた経緯は知らない。姉が男を利用するのはよくある事だったが、価値など無いに等しい家にしろ跡取りである弟を預ける程の何が坂田との間にあったのか、新八は知らないし、あまり知りたくはない。
しかし何を知らなくとも、この脚の悪い男はさして取り柄もなさそうな子供を押し付けられて嫌な顔もしないでいたので、新八に不足などあろうはずはなかった。
取り敢えず、姉といた時よりは食えた。それだけでも過ぎた僥倖だった。

新八は坂田の甥ということになっている。
転居の届けをする時も、舞鶴から旅順港に向かう切符を取る時も、色々な紙にそう書いたが誰も怪しまなかった。
その頃にはもう、坂田の身内である事が新八にとって当たり前になっていた。食えるから、などという理由がなくとも坂田の手に手を握られる事に躊躇はなくなっていた。



大連は寒い所だったが、降り立った駅を振り返ると上野駅にそっくりだった。
知らない言葉を話す人々が普通に歩いていた。坂田は到着するなり知らない言葉を使い始めて、そういう人々と親しく話した。そして、古いの友人のツテなどという心細いことを言いながら、そのひきずる脚で街の中を以前から知った場所であるように歩いた。
坂田は顔つきこそ東洋人だったが、髪や肌の色が極端に薄く、そこだけ西欧人のようだった。
この街は、以前はロシア人が占拠していた。



神楽がやって来たのは、最初の冬だった。
街の西を流れる馬欄河の川面の上に凍った空気が星のように煌めいていた朝、物音に目を覚ました新八が布団の中から扉を見ると、徹夜明けのような顔をした坂田の外套の裾に10歳ほどの少女が引っ付いていた。
少女は坂田にしかわからないこの街の言葉を喋り、遠慮なく櫃に残っていた飯を与えられるまま平らげるとそのまま坂田のベッドに潜り込んで寝てしまった。
少女は夜になっても帰らなかった。そしてそのまま居ついてしまった。

神楽には父と兄がいたが、今はいない。
神楽の父はこの街の人間だったが日本名を名乗り、そして神楽と神楽の兄を置いて内地に行ってしまった。
そのうち兄もどこかに行ってしまった。どこに行ったかもわからない。生きているのかもわからない。
母はずっと昔に病気で死んでしまった。
神楽の言葉がわからない新八は、坂田の口伝に彼女の身の上をそんな風に聞いた。
それが坂田とどう出会って、どういう事情でその下に身を寄せることになったのかの説明は受けなかった。
坂田がこの街に持つツテであるところの例の友人には、軍閥とのパイプがある。
一度だけ、神楽の父から神楽宛に手紙が来た。文面を坂田が訳した。
『おとうさんは狩りが上手だっただろう。だからこっちで、うさぎ狩りの練習をしているんだよ』



孤独な身の上にも関わらず神楽は明るかった。他人の坂田に兄や父にするように甘え、言葉の通じない新八にも遠慮のない妹のような態度で接した。
新八が大連での二度目の冬を迎える頃には、神楽は新八の言葉を理解するようになっていた。新八も神楽の言葉を理解するようになっていた。
二人はシャム双生児のようにくっ付いて生活した。それを匿う坂田は勝手気ままに生きているようで、その実シャム双生児を孕んだ妊婦だった。
ある日、道端で乞食が死んでいるのを見かけた坂田はその前を素通りしながら

「お前らが死んだらどうしよう」

と、横にいる二人に呟いた。

三人は三人の違う人間だったが、一つの身体を共有しているようなものだった。



*




三度目の冬の朝、馬欄河の川の上の凍った煌きを三人で欄干に寄り掛かって眺めた。川面から立ち上る水蒸気の中で、凍った無数の空気の粒が、朝焼けを反射して一瞬ごとに強く煌いた。
その煌きに、下がらない微熱でぼんやりする目を射抜かれて、新八は何度か瞬きをした。

「新八。お前アネゴに逢いたくないアルか」

神楽が拙い口調で言った。
街の通りにはアカシアが多く植わっていた。今は針のような葉に霜を付けて佇んでいるだけだが、夏になると淡く黄色い綿の塊のような花を咲かせる。今年、街中のアカシアが黄色に染まった頃から、新八は良くない病気に罹っていた。

新八は坂田の甥という事になっている。しかしこの街の子供である神楽は、坂田の何になる事も出来なかった。
坂田は神楽の手を手袋がわりに握って、外套のポケットにずっと入れている。

新八は、欄干に肘を付いて川面の煌きを眺めながら

「逢いたくないよ」

と嘘を言った。凍った空気が喉に入り込み、少し咳き込んだ。







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