此岸のふち
病気になった。
病院には行ってないが、この感じからするに多分インフルエンザだ。多分というか、インフルエンザだ。
40度近い熱が下がらなくて、3日くらい何も食べれなかった。
たかがインフルエンザとはいえ、さすがに
これはもう、だめかもわからんな。
という気がしてきて、そう思うとすごく悲しくなり、姉上に竹刀でどつかれた時の事やタカチンが漏らしたのをシカトした時の事や父上が死んだ時の事を次々に思い出して、そしたら目の表面にじわっと涙が浮かんだ。
そういう僕を見た姉上が本気でビビって、お医者を呼ぶから気をしっかり持って、とか言って僕の寝てる布団にすがって半泣きになった。
そのあまりにマジな感じに、姉上がマジになってるぜとか今度はやたら可笑しくなり、思わずヒヒ、とか笑ったら、姉上はますます本気でビビっていた。
姉上がお医者を呼びに行ってしまうと、家には誰もいなくなり、急にしんと静かになった。
物音や気配、そういう知覚的な刺激がないと、もともとぼんやりしている意識が意識を保つ努力をしなくなってくる。
頭は激しく痛いし喉は激しく痛いし体の節々は激しく痛いし起きてていい事なんかいっこもなく、それに風邪なんか結局寝てるしかないし、だったら意識がなくなるのは好都合だと思った僕は、薄くなる意識に抗わなかった。
それで、気付いたらお花畑にいた。
「うわー…」
これは、と思った僕は、うわー、と言いながら、寝転がっていた体を起こして座り、辺りを見回した。
柔らかい緑色の短い草が見渡す限り地面を覆っていて、その中に白い小さい花が、それはもう無数に、夜空の星の数ほどに咲いていた。
空はよく晴れた春先の空みたいに淡い水色で、雲ひとつない。ついでにお日さまもない。しかしとても明るい。
さらさらと水が流れる音がして、見ると、きれいな小川が水面をきらきら光らせていた。
風もなく、寒くも暑くもなく、非常に快適だった。
「うわー…」
これは、あれか。
話に聞く、人があれした時にあれする、あれな場所か。
なんの工夫もなく、あからさまにそのまんまだな、と思った。僕のよーな平凡でなんの工夫もない人間の脳が作り出すものに相応しい、そのまんまさだった。
しかし、工夫もクソないそのまんまさであるにしろ、暑くもなく寒くもないきれいな景色の中にいるのは非常に快適だった。
「おーい」
と誰かの声がした。
顔を上げると、さらさら流れる小川の向こうに誰かがいる。
「新八ー」
誰かは、僕の名前を呼んだ。
その声は、聞き覚えがある。僕は、あんまりよくない目を細めて僕を呼ぶ誰かを見た。
「こっちこっち。こっちだー」
誰かはそう言って、僕を手招きしている。
「父上」
父上だった。
そして、父上の横には、父上より若い女の人がいて、
「新ちゃーん」
と、父上と同じように僕を呼んだ。
女の人は姉上より年嵩だったがそれでも姉上そっくりの声と顔をしていて、そして、遠目に見ても胸がまっ平らだった。
「…母上」
僕は立ち上がった。
「新ちゃーん。こっち。こっちよ」
母上は姉上そっくりの顔で、しかし姉上とは明らかに違う、堪らなく優しい表情をして僕を呼んでいた。
「母上」
「新ちゃん。こっちよ。こっちいらっしゃい」
「新八ー。こっち、こっちだぞー」
立ち上がった僕は、突き動かされるように可愛いお花が咲く緑の地面を蹴って駆け、さらさら流れる小川に近付き、そして、きれいな水に足を付けた。
水はきれいで透明だったが、少しも冷たくなく、まるで僕の足を愛しく撫でさするように流れていた。
「新ちゃん。こっちよ」
「母上、母上」
僕は水をバシャバシャいわせて、両手を大きく広げてそのまっ平らな胸に僕を抱き締めようとしている母上に駆け寄ろうと、小川をあっちに渡ろうとした。
しかし、その時。
僕は、見てしまったのだ。
目の端に、見てしまったのだ。
僕があっちに渡ろうとした小川の、こっち側のほとりで、背中を丸めてしゃがんでいるそいつを。
「…何してんですか」
甘えた声で母上母上言っていた僕を見ていたに違いないそいつに、僕は大変きまり悪い思いで声をかけた。
「何って、…石積んでんだよ」
そいつは、しゃがんだままそう言った。
しゃがんだそいつの前には、掌くらいの大きさの石が3つばかし積み重ねられていた。
「…なんでそんな事してんですか」
絶対見られた。
すごく恥ずかしい場面を見られた。
一番見られたくない場面を見られた。
僕は、そういう場面を見られた恥ずかしさにキレそうで、しかも、ものすごくつまらなさそうな事をしながらこの場に居合わせたそいつにキレそうだった。
「なんでって、…親不幸した奴は石積む決まりだからだよ」
小川の向こうでは、相変わらず母上と父上が僕を呼んでいたが、僕は母上と父上が知らないところで、そいつを無視できない体になってしまっている。
今すぐ母上のまっ平らな胸に飛び込んで抱き締められたかったが、石なんか積んでいるそいつを無視できない体と、母上に甘える光景をそいつに見られるわけにはいかないプライドのせいで、そうする事は出来なかった。
「あんた、親不孝したんですか」
川の真ん中で立ち尽くす僕が訊くと、そいつは、っていうか銀さんは、
「知らね。だって俺、親いねぇもん」
と言った。
「新ちゃーん」
「新八ー」
あっちでは母上と父上が僕を実に優しい声で呼び続けている。
僕は、ますます川を渡れなくなった。
「じゃあ、なんでそんな事してんの」
「知らねぇよ」
銀さんはそう言って、どっから拾って来たのか、横に転がしてあるたくさんの石から一個を取って、積み重ねた石タワーのてっぺんにのせた。
これは、と僕は思った。
これは、あれじゃねぇか。
あれがあれした人間があれする話、しかし数種類あるあれな話が、変な具合に混ざってんじゃねぇか。
「それ、全部積むんですか」
銀さんの横に集められた石は、たくさんあった。
そんなにたくさんの石を、平面的ではない天然石を、石タワーに積み重ねていくのは難しいのではないか。
「全部っつうか、まあ、積むんだ。積むのが決まりだかんな」
「積めねぇだろ。そんなに」
「積める積めないじゃなくて、積むんだ」
銀さんは言って、そしてまた、横にある石を一個取って、いなかった親の為に、石タワーのてっぺんに積み上げた。
「新ちゃーん。どうしたのー。なにしてるのー」
「新八ー。そんなとこで何してんだー」
あっちでは、母上父上がそう言って僕を呼んでいる。
僕は思った。
ほんとに、僕は何してんだろうか。
「…銀さん」
「何よ」
「僕を、引き留めてくれないんですか」
そう言った僕に、銀さんは五個目の石を手に取ってから、呟いた。
「………なんで俺が」
銀さんの言葉を聞いた僕は、半ばまであっち側に渡っていた川を、バッシャバッシャ水を蹴立てて、こっち側に戻った。
あっちでは母上父上が僕を呼んでいるのが聞こえるが、どうしようもなかった。
こっち側に戻った僕は、川から上がり、銀さんと銀さんが積んだ石タワーの前に立った。
「………」
そして、物も言わずに銀さんの石タワーを蹴った。
石タワーは崩れて、辺りに崩れた石がばらんばらん転がった。
「…あーあ」
銀さんはそういう、別に本気であーあと思ってもいなさそうな声を出して、崩れた石タワーを見詰めた。
「新ちゃーん。ほんとにいいのー?行っちゃうわよー」
「新八ー。いいのかー」
あっち側で母上父上が言っている。
僕は、あっちを見ないで済むように、あっち側に背を向けて、
「ごめんなさい!また今度にします!」
と、叫んだ。
そして、銀さんの横に銀さんと同じようにしゃがむと、転がった石を一個手に取った。
「あらあら。それなら仕方ないわねー」
「そうかそうか。じゃあまた今度なー」
あっち側の母上父上はちょっと笑うように言った。
仕方ない、みたいな、或いは、やっぱり、みたいな。最初から、わかってた、みたいな。
はっとした僕が見ないようにしていた目を思わず向けると、二人は朝霞が日光に照らされてかき消えるみたいに、見えなくなってしまった。
「…父ちゃん母ちゃん行っちゃったけど。いいの?」
銀さんが言った。
その手がまた石を取って、石タワーの一個目を積んだ。
「いいです」
僕は、それだけの短い返事をして、僕の石タワーの一個目を積んだ。
積んでから、僕の石タワーの一個目の下に、白い小さい花が下敷きになってしまっているのに気付いたので、僕は一個目の石を花を踏まない位置に置き直した。
あっちに行きかけたけどやっぱり止めた僕は、こっち側で銀さんと一緒に石を積む。
不思議な事に、川のあっち側には花はひとつも咲いていない。
「アレ?お前も来たアルカ」
背後からの声に振り返ると、神楽ちゃんがいた。
神楽ちゃんは両腕から溢れそうなくらいたくさんの石を抱えていた。
彼女は僕らのそばに辿り着くなり、石を抱えた両腕を開いた。たくさんの石がばらんばらんに転がり落ちた。
「お前なぁ。言ったろ。ちゃんと平べったいの選べって」
銀さんが、神楽ちゃんに文句を言った。
神楽ちゃんが持って来た石は、半分以上が三角だったり丸かったりで到底積むのに適しているとは言えない形状なのだった。
「うるさいネ」
と神楽ちゃんは言った。
言って、もう七個目を積もうかとしていた僕の石タワーをいきなり蹴った。
僕の石タワーは呆気なく崩れ、僕は、
「…あーあ」
という声を出した。
別に、本気であーあと思ったわけでもなかったが僕はあーあという声を出して、崩れた石タワーを見詰めた。
そして、神楽ちゃんも銀さんの横にしゃがんで、やはりというか、石タワーを積み始める。
やがてそこそこに積み上がった神楽ちゃんの石タワーは、銀さんが
「あっ。手が滑った」
とか言って崩した。
神楽ちゃんは、
「…あーあ」
という声を出して、崩れた石タワーを見詰めていた。
そうやって僕らは、川のこっち側に並んでしゃがみ、ずっと石を積んでは崩し、崩しては積みをし続けたのだった。
なにしてるの、と母上は言ったけど、そんな事自分でもよくわからなかった。
わからないが、そうするのが決まりらしいし、他にする事もないから、僕にはそうするしかないのだった。
目を開いたら、銀さんと神楽ちゃんが見えた。
「なんだよ。お前が死ぬって聞いたから見に来たのによ」
「読めヨ。空気読めヨ」
二人の言い草は酷かったが、そのわりにはちゃんと枕元にいてくれたわけなので、僕は普通に嬉しかった。
「新ちゃん」
夢で聞いた声とそっくりな声が、泣きそうに僕を呼んだ。見ると、夢で見た顔とそっくりな顔が、ノーメイクで憔悴していた。
姉上の声や顔は、確かに夢に見た声や顔とそっくりだったが、なんというか、厚みがなかった。夢に見た声や顔と比べると、なんというか、小娘、って感じだった。
しかし、小娘の声と顔をした姉上は、それでも憔悴するほど僕を看病してくれたわけなので、僕は普通に嬉しかった。
早く元気にならなきゃと思う。
普通に嬉しい、みたいな、そんなものが愛しくて僕はあっちに行かない。
だから僕は早く元気になって、銀さんと神楽ちゃんと一緒に、忙しい姉上の分も、石を積むのだ。
たとえ、なにしてんだか自分でわからなかったとしてもだ。
あっちに行かないのだったら、積まなきゃいけない。
積める積めないじゃなくて、積まなきゃいけないんだ。
僕は、銀さんや神楽ちゃんや姉上を見上げながら、ぼんやりする頭でそう思った。
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