(6)



家を出た足は次第に早足になり、しまいには駆け出していた。道ともいえぬ山道をめちゃくちゃに駆けたせいで息が上がり胸の奥で心臓が割れそうに鼓動していた。
噎せて咳き込みながら、新八は藪を掻き分けた。
明日帰る。恐らく自分は二度とこの町へは来ない。
彼を見るのはこれが最後だ。
神楽のように、彼に全てを話したかった。聞こえていなくても見えていなくてもいい。あの眠たそうな、空気に溶けてしまいそうな彼の前で、全てをぶちまけたかった。そうしないと帰れないと思った。

新八は崖と山道を隔てる藪を両手で分けた。
いつものように町並みが開け、水平線が光っている。
海と空を分ける一本の線。それは崖を訪れた新八の目に、いつも途切れることのない一本の直線として映る。

しかし、今日は違った。
水平線は、途切れていた。
新八の目と水平線、その間にあるものが水平線を途切れさせていた。
新八は、藪を掻き分けた姿勢で固まった。

新八の視線を遮るのは、崖の際に立つ彼の後ろ姿だった。
彼の後ろ姿は、透けていなかった。

「銀さん」

新八は、神楽から聞いていた彼の名前を初めて呼んだ。声は上ずって、裏返った。

「銀さん。僕が見えますか。声が、聞こえますか」

新八の声は風邪引きのように掠れた。驚きのせいもある。しかしそれよりも、喜びで新八の声は掠れた。
嬉しかったのだ。この上なく。

彼は、新八の声に振り返った。
聞こえている。信じられない。
喉が詰まって嗚咽に似た音を立てた。

立ち尽くす新八を彼の目が確かに捉えた。
そして言った。

「…勘弁してくれ。またガキかよ」

喜びにうち震える新八を見る彼の目は、絶望していた。



新八は震える足を引きずって彼の傍に行った。
昨日まではおぼろげに透けていた彼の外形は、今やしっかりした輪郭を持って、光の加減による陰影すら纏っている。
堪らなくなって手を伸ばすと、彼は素早く体を引いて逃れた。

「触るな」

「何でです」

「何ででも」

触るなと言われた新八はかわりに真っ正面から彼を見た。
近くに見る彼の皮膚の上には、それなりの年月を経た皺や、何かで擦った傷があった。明らかに、そこに存在するものとして、彼は新八の前に立っていた。
以前、新八は彼をきれいだと思った。それは透けていて生々しい欠陥が見えないからだと思ったが、こうして生身で現れた彼は、やはりきれいに見える。彼を損なうものは何もない。

「勘弁してくれ」

彼はまた呟いた。絶望し、悲愴に歪んだ声だった。それを聞いた新八にはその声が作る言葉の意味など届かない。
こんな声だったのか、とひたすらに嬉しかった。
ずっと聞きたかったのだ。

決して叶えられないと思っていたのに、叶えられた。
父親が死んでから、自分の望みなどは世界から見捨てられているとばかり思っていた。それが叶えられた。僕は、まだ愛されていたんだ、と思った。
世界に、或いは神様に。

「あなたは、ずっとここにいるんですか」

「たぶんな。お前は何で俺の名前を知ってる?」

「神楽ちゃんに聞いた。たぶんってどういう事です」

「ずっとって言われても、いつからここにいるかわからねえから。神楽って誰だ」

「前にあなたを見つけた女の子です。あなたはここでずっと、町を見下ろしている風でした。僕は半月の間、あなたをずっと見ていた。神楽ちゃんはもっと前から」

「俺はお前なんか見えてなかったけどな。あのガキは、生きてるのか」

「車にひかれて心臓が止まったけど、電気ショックで生き返った。そしてあなたの事を教えてくれた。今まで僕が見えてなかったとしてもいい。だって、今は見えてるんでしょう。ねえ、あなたの身なりは僕の父が子供だった頃の人達みたいです。あなたは何十年もここにいるの?ひとりで?」

「お前は」

彼は絶望した表情を、耐え難いように新八から背けた。

「お前は、俺に見られるって事がどういう事か、わかってるんだな?」

なんでガキばっかりが、と彼はまた呟いた。

「わかってたら駄目ですか。そんな事、どうでもいいんだ。僕はあなたの声が聞きたかった」

「俺に見られるって事は、…俺なんかの声を聞きたがるって事は、お前は」

悲痛な声を聞きながら新八は、それはそんなに悲しい事なのかと不思議に思った。
何一つ、願ったものを与えてくれなかった世界が、こうして与えてくれたのだ。
世界は僕を愛していて、だから僕は世界を愛している。幸福ってそういう事だろう。
与えられたものが、たとえ何であれ、それは幸福だ。

「おまえは間違ってる」

「間違ってない。ねえ、あなたはずっとひとりでここにいたの?」

「俺の事を気にするな。したらいけない。すぐに忘れろ」

そして、危ないところに行ったり、体調の変化を見過ごしたり絶対にするな。

彼はそう言い、詰め寄る新八から後ずさって距離を取ろうとした。
得たものが逃げる、新八はそう思い、咄嗟にその腕を掴んだ。
冷たい。
鍾乳洞の石筍に触れた事がある。乳白色の溶けるような石は、地底の温度そのままの冷たさだった。彼の体温はそれに似ている。
これは、地底の温度だ。

「離せ」

「嫌だ」

「頼む。俺に近付く毎に、お前は引き返せなくなる」

「引き返したくない」

引き返した先は、あのばかみたいな場所だ。
父の死を下らない儀式にしたり、好かれたくない人に好かれなければならなかったり、女だから学校に行かないなどと言わなければならない、新八から奪うばかりの場所だ。
何故、そんなところに戻らなければならないのか。
ようやく与えられたものを捨てて、戻る価値なんかがあるというのか。

「お前は与えられたんじゃない。色々と奪われた挙句、一番でかいものを奪われようとしてんだ」

「それと引き換えに、あなたと口をきけたなら、僕は幸せなんです」

「錯覚だ」

「錯覚じゃない」

「…頼む。俺にこれ以上、人殺しをさせないでくれ」

彼は新八に掴まれた腕を強張らせた。
地底の温度を保つ腕は、掴んでいる内に冷たさを感じなくなった。そこが温かくなったわけではない。新八の掌の方が、温度を下げているのだ。

「俺は、お前の錯覚なんだ。お前に見えてる俺なんてものは、どこにもいないんだ。お前の中の何かが、俺の形を作って見せてるだけなんだ。わかれよ、頼むから」

変な幽霊だ、と新八は可笑しくなった。
だってお話の中に出てくる幽霊は、どれもこれも人を連れて行こうとするものなのに、この幽霊はそうしない。
なんて怠惰な幽霊だろうか。

「もっとあなたに近付いたら、あなたの傍に行けるの?」

「行けない。俺の傍なんてものはない。俺なんていないんだから」

「じゃあ、何十年もここでぼんやりしてたのは誰なんですか?」

「その時々に俺を見つけた奴らの中にある、何かだ」

「あなたはずっと昔は生きてたんでしょう?」

「そうなんだろうけど、もう忘れた。死んだ瞬間に、俺は違うものになったんだから」

違うものとは何なのか、新八にはわからなかった。
わかるのは、彼の声と掌に触れる感触だけだ。ずっと望んでいたそれらだけがリアルだった。
何故こんなにも自分は彼に惹かれるのか、近付きたいのか。

生きる事に倦んでしまった自分に、世界が与えてくれたこれは一体何なのか。
それを受け取る事は、間違っているのか。
そして、間違う事は責められる事なのか。

可哀相な神楽は彼と一度話した。しかし、医者の心無い電気ショックのせいでまた彼と話せなくなった。もう一度、彼と話せる事を願って、彼女は崖に通い続けている。今度はいつそうなるかもわからないのに。
彼女のようになるのは嫌だ。

新八は、掴んでいる腕を少しずつ引き寄せた。腕から肘、肘から肩、そして背中までを手繰り寄せる。体の末端から中心に近付く毎に掌が感じる温度は下がっていく。生きている人とは逆だと新八は思った。
やがて新八の体の前面に彼の胸が接する。冷たい。まるで氷を抱くようだった。
だがそれは、静かで安らかな冷たさだ。居心地の悪い親戚の家で磨り減り、常にぴりぴりと痛みを覚えている神経が少しずつ鈍っていく。
穏やかな麻酔をかけられるようだ、と新八はいつも思う事を思った。



「銀さん。あなたは、僕の何なんですか」

「…俺は、お前の」



彼は、抱きつく新八の体に、冷たい腕をゆっくりと回した。



その感覚に目を閉じる。
何もかもが少しずつ遠ざかって、少しずつわからなくなる。
そうなる事の恐怖や罪悪感も、少しずつわからなくなった。

穏やかな麻痺に身を任せながら、新八は、ポケットの中で皺くちゃになっている航空券の事を思った。






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