目が覚めて、真っ先に飛び込んでくる景色。ぐるりぐるりと、見上げるたびにどこか違う模様を描いているような気がする木の天井。達筆すぎて私には読めない文字が、紙からはみ出しそうになりながら踊る掛け軸。日の光を浴びてしろく輝く障子。だらりと布団に横たわる自分の手。鶯の鳴くふすま。つくりもののようにうつくしいあの人の横顔。
今日は、あんまりな寝相のおかげで、若草色の畳の網目までもが寝ぼけ眼でもよく見えた。左頬にしっかりついてしまった跡をさすりつつ、寝返りをうつ。

「…あれ、きょうやさん」

ぴったりきれいに並ぶふた組みの布団の準備をするのは私の仕事で、また、私にとっては数少ない、特技と呼べるものだった。その、きれいに並べた布団をきれいなまま使う恭弥さんは、もう、起きているらしく、主をうしなった布団はのっぺりと平べったい。色さえ褪せて見えるのは、まだ外が薄暗いせいなのだろうか。…薄、暗い?枕元の目覚まし時計を引っつかむ。時計は四時を少し回ったあたりの、明け方と言っていいのかよくわからない時間をかちこちのんきに刻んでいた。普段、成長期の子どものように早寝早起きを心がけている恭弥さんの朝にしたら、ずいぶんとお早いこと。大方急な任務かなにかなのだろうから、こんな風に茶化すことじゃないんだけれど。何時だろうと起こしてくださいねって、言ってあるのに。いつもいつも、物音ひとつ立てずに、ひっそりとひとりで行ってしまう。
真っ直ぐにふすまを開いて、暗い廊下を覗き込んで、耳を澄ます。やっぱり、なにも聞こえない。今日も間に合わなかったかしら。そっとかかとを下ろしても、つま先からつけてみても小さくきしむような音が鳴るから、諦めてぺたぺたと裸足を廊下に這わせていく。スリッパ替わりの足袋は枕元に忘れてきていた。ぬるい温度をもっていた足から、少しずつ、少しずつ、熱が逃げる。角をひとつ曲がった先にある恭弥さんの私室のふすまの前に立つと、自動ドアのようなタイミングでするするとふすまが開いた。

「あ、」

きょうやさん。目の前に立っていた恭弥さんは、着替えの途中だったのだろう、ワイシャツはきちんとスラックスにしまわれているのに、ネクタイは結ばれないまま、ふらふらと頼りなさげに揺れていた。思わず伸ばした手を、がしりと掴まれる。じろ、と、不機嫌さをちっとも隠さない剣呑な目をした恭弥さんは、無言のまま私を部屋へと引っ張り込んで、ぴしゃりとふすまを閉めた。いたいほどに静かな空間を裂いたその音はあまりに大きくて、まるく目を見開く。私が話そうとするのを見越したように「君は、」と恭弥さんはこちらに背中を向けたまま、ゆっくりと先手を打った。

「なにしてるの」
「恭弥さんを探しておりました」
「どうして」
「お見送りをしたくて」
「…要らないっていつも言ってるだろう」
「起こしてくださいといつも言っています」
「…………」

なにかを言いかけた唇からは細いため息がもれただけだった。振り返った恭弥さんに頭のてっぺんからつま先まで、品定めでもするかのように見つめられて、その意図がわからずに黙り込む。これから任務に向かうのだとしたら、一分一秒さえ惜しいはずなのに。

「恭弥さん。その、お時間はよろしいのですか?」

きっと数分も経たないうちに、私の方が耐え切れなくなってそう切り出した。ぱちり、と、夢からさめたようなまばたきと、ふっ、と小さく息のもれる音。注がれていた視線がゆらりと逸れていくことに、安堵感と、ほんのすこしのさみしさに似た気持ちが胸の内に広がる。

「…ああ、そうだね」
「あ、そうだ、もしよかったら、ネクタイを結ばさせていただけますか?」
「は?」
「一応は妻なんですから、それくらいさせてください」

「ね、いいでしょう?」確認よりも懇願のつもりでそう続けて、ネクタイの端を掴む。恭弥さんはなにも言わずに目をつむった。無言は肯定。よし、とひとり気合をいれて、なめらかな手触りのネクタイを手順通りに結んでゆく。緊張で指先が震えるけれど、練習の甲斐あって、どうにかそれらしいかたちになった。さいごに三角形の結び目をきゅっと締めて、できあがり。白いワイシャツに映える黒を、にっこり見つめた。
揃いの黒のスーツを着て、銀のリングをひとつはめる。たったそれだけの動作が絵になるものだから、こちらを向いた恭弥さんと目が合うまで、つい、見とれてしまっていた。壁にかかっている時計を見ているようなふりをしたけれど、きっと、いや、確実にばれている。後ろめたいような、はずかしいような。もやもやした気持ちを持て余していたら、端末を後ろポケットに滑り込ませた恭弥さんに、名前を呼ばれた。はい、と返事をすると、一足の足袋が差し出された。

「これ、履きなよ」
「えっ…」
「見ているこっちが寒い」

無造作に床に落とされた足袋がぱたぱたと軽い音をたてる。くすんだ白の足袋は、薄暗い部屋でぼんやりひかっているような錯覚を起こした。一度落とした視線を上げて、問うように見返すと、やっぱりもう一度、「僕のだけど、ないよりましだろう」と履くように促される。そろりと足をいれた中は、どこかほんのりと温かい気がした。

「そろそろ行ってくる」
「あ、はい、お見送りを」
「必要ないから部屋に、」
「いやです」
「…わかったよ」

音もなく歩いていく黒い後ろ姿を、無遠慮なほどに見つめながらついていく。私が踏むときだけ小さく鳴る床が、恭弥さんと私の違いをせせら笑っているようですこしだけうらめしい。けれど、大きさのまるで合わない足袋が脱げてしまわないように親指に力をいれて、ささやかなぬくもりを抱えていくのは心地よかった。
こつり。革靴のつま先が玄関の床を叩く。立ち上がると、くるりと振り返った恭弥さんと目があった。これから赴く場所とはまるで無縁であるかのような、静かに凪いだ瞳。ふちどる睫毛が一瞬、かすかに伏せられて、それからちらりと流すように見つめ直されてどきりと心臓が跳ねる。聞こえてしまわないかしら、と、そっと胸元をおさえてみた。私の内心を知ってか知らずか、恭弥さんの唇がゆるく弧を描く。

「いってくる」
「いってらっしゃいませ」

たゆたう