散々鳴り喚いていた音の嵐がふつりと途切れた。取り戻された静寂が、夜の闇に広がってゆく。詰めていた息を細く長く吐き出して、真っ二つになって身じろぎひとつしなくなった近界民を一瞥してから、そっと弧月を鞘に収めた。
 あと、数百メートル。ここで仕留めよう、と決めて行動し、結果その通りとなったものの、やたら足の速い近界民は警戒区域のずいぶんと端の方まで私たちを振り回してくれたものだ。現れた五体すべてが散り散りになったときいている。たまたまなのか、それともこちらのシステムを理解した上での作戦なのか――まあ、そういう類のことは専門の人たちに任せるとして。
 ――間に合って良かった。もう一度、さっきよりも深いため息をゆっくりと吐いて、そこでようやく 、肩の力が抜けた。
「ほんと、すごい…」
 辺りをぐるりと見回して、思わず零れ落ちた言葉に込められた感嘆はほんの一握り。残りはすべて呆れである。
 粉々に打ち崩された壁、大きく抉られた道路、ぽっきりと折られた街灯――などなど、これら全部というわけではないにしろ、今回も派手にやってくれたなあ。
 惨状とも呼べる状態を作り出した張本人である出水はそんなことはちっとも気にしていないような風に飄々と柚宇さんと通信をしていて、ちょうど終わったらしく、「じゃあ、切りますね」と締めくくった。
「ほかも片付いたから戻っていいってさ」
「わかった」
 戦闘体を解除する。服装ががらりと変わることよりも、設定してあるショートヘアが元のセミロングになって増したこのほんの少しの重みが、いつも合図になっている。これでおしまい、と。
 冷たさをたっぷり含んだ夜風が、そろりと肌を撫でていった。そういえば、
「は、くしゅっ」
 ――夜は一段と冷え込むでしょう。今朝、微笑みながらそんなことを言っていた天気予報士は、確か続けて、厚手のコートくらいがちょうどいいかもしれません、と付け足していた。
 ところが私の今の格好は、濃紺のセーラー服のみで上着さえない。着てからトリガーを起動すれば良かった、などと後悔をしたところに追い打ちをかけるように、ひときわ強い風が音をたてて駆け抜けた。そっとプリーツを押さえた指先はすでに冷え切っている。
「そんな薄着で来たのかよ」
 投げかけられる、笑みを含んだ声。にやにやといやらしく唇を歪めた出水は、暖かそうな紺のダッフルコートの留め具をきちんと一番上までとめて、首にはキャメルのチェックのマフラーまで巻いている。
 ずるい、と呟けば一緒に白い息が洩れて揺れた。
 あともう少し招集が遅ければ、帰り支度を済ませてコートだって着ていたのに。訓練のあと、オペレーターの女の子たちとたのしくおしゃべりをしていたロビーの暖かさがひどく恋しい。置いてけぼりにしてしまった缶のココアは、どうなったのだろう。
 びゅう、とまた風が吹いた。
「トリオン体なら…」
 寒くない。言いかけて、ばかみたいだ、と思って途中で飲み込んだものの、どうでもいい時ばかり耳聡い。マフラーから覗く唇がにんまりと笑う。
「防寒着代わりにすんのか?」
「ダメかな…」
「ダメっつーか、寒さでバカになったのかって思うだけだけど」
「うわあ…」
 出水には言われたくなかった。
 けれどこうも言われてしまえば憚られる。仕方なしにスカートのポケットに手を突っ込むのと、出水がマフラーを外して、私に差し出したのはほとんど同じタイミングだった。
「え……、っくしゅ」
「貸してやるよ」
 ずい、と押しつけられて、つい受け取ってしまう。なにか裏でもあるんじゃ、と疑う気持ちと、手の中の暖かさに揺らいでいる私をよそに、ほんとさみーな、などとひとりごちて、さっさと歩き出す背中を慌てて追う。
 ただぐるぐると首に巻きつけて、端は適当に押し込んで。鼻先までうずめてしまえば、寒さがぐんと遠のいた気がした。
 隣を歩く出水は、私を横目に見るとなにがおかしいのかかすかに笑っている。なにひとりで笑ってるの、という言葉は、今はさすがに飲み込んだ。やっぱそれ返せ、なんて言われたら、たまったもんじゃない。基地まではまだまだ距離がある。
 ぽつりぽつりと等間隔に並ぶ街灯と、音も光もなくした空っぽの家の連なりのなか、私たちの足音だけがひびく。規則正しく繰り返されていたところに飛び込んできたのは、出水の声だった。
「カフェオレ」
 返事をするためにマフラーをずらしたら、鼻の奥がつんとした。まばたきでやり過ごして、白い息をゆるく吐きだす。
「奢れって?」
「察しがいいな」
 学校の購買の脇の自販機で売っているカフェオレは、よそでは見かけたことのないメーカーのもので、ほどよい甘さと、ぴったり100円というお手頃さでなかなか人気が高い。
「うん、まあ、それくらいなら…」
「向こう一週間な」
「…は?!」
「"それくらいなら"いいんだろ?」
「ずるい」
「じゃあそれ、」
 つい、と流れた目がマフラーを指す。
「わかった、一週間ね」
 降参ですとばかりに片手をあげた。今回は完全に分が悪い。下手をしてこれ以上対価が上がるのは、私の財布の安寧のために避けたいところだった。
 ボーダーってお給料いいんでしょ?なんて言われたこともあるけれど、アルバイトをしている子と大差ない気もするし、ましてや、それで金銭感覚がおかしくなるなんてこともない。
 訓練のあとついつい買ってしまう飲み物を控えるべきか考えていたら、「百面相」だと出水が笑った。
「顔の半分隠れてるんだからわからないでしょ」
「目は口ほどにっていうだろ」
 街灯の頼りないひかりのなか、そう言う目元はたしかに、おもしろそうに弧を描いている。視線がこちらを向いて、ぶつかる。
 とっさに返す言葉が見つからなくて、絡め取られてしまう前に、ぎこちなく前を見た。
 そびえ立つ基地はまだ遠い。


またねの呪い
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