「ねえねえ」

耳元でささやいたのは聞き慣れた声だった。重いまぶたを瞬かせる。どうやら、眠っていたらしい。ほぼまるまる一日ぶっ通しでやっていた撮影と、ほどよい電車の揺れと、それと、寄りかかっていたなまえの髪の毛がやわらかかったせいで、乗った次の駅のアナウンスすら聞いた覚えがない、気がした。まだ、眠い、と、そんなようなことを寄りかかったまま伝えたら、「桜、見よう」だなんて、とんちんかんなこたえが返ってきた。

「さくらぁ?」
「さっきの駅から次の駅までの間でね、ライトアップしてるんだって」

うれしさを隠そうともしない浮かれた声に、すこし、意識を引っ張り上げられる。体を起こして、ずり落ちそうな伊達メガネを中指で押し上げて、椅子に深く座り直した。見下ろした先のなまえは、俺を通りこした窓の外にあつい視線を注いでいて、目は合わない。顔だけじゃなく体までひねっている格好が、みっつ隣に座っているちいさな子どもとまるでおんなじだったから、ふっ、と笑い声が洩れた。桜が気になってしかたない、すぐ隣のおおきな子どもには、ちっとも気づかれなかったけど。

「あ、ほら、見て涼太くん、きれい」
「へー、こんなんやってたんスね」
「一昨日からやってたみたいだよ」
「ふうん」

線路に沿った小道に桜の木が等間隔に植えられていて、さっきなまえが言っていた通り、白い花びらが照明に照らされてより目立っている。車内に視線を戻すと「桜並木」「ライトアップ」といった単語や、その時間や期間が書いてある中吊りが目に入った。ああ、これのことか。最終日の数字と曜日を、頭の片隅にしまい込む。
桜並木がおわると、次の駅のアナウンスが流れてきた。見上げられて、やっと合った目があまりにも雄弁に語るものだから、思わずふきだしそうになるのを唇をかたく結んでこらえる。

「ね?降りてちゃんと見ようよ」

ほら、やっぱり。

「ダーメ」
「え、なんで?」
「今日の最低気温忘れたんスか?」
「あー…」
「それに疲れたからはやく帰りたいし」
「そっちが本音でしょ」
「さあ、どうっスかね?」

ふい、と視線が逸れた。思案している瞳が揺れる。たぶん、じゃあひとりで見る、とか、言い出すんだろう。

「じゃあ、わたしひとりで見るから、涼太くんは先に帰ってて?」
「こんな遅くにひとりにさせるほどバカじゃないんで」
「わたしはバカじゃない」
「いや、ちが…わないけど」
「ひどい」
「また今度にしよって言ってんの」

うつむいていたなまえが勢いよく俺を見上げて、ぽかん、と口を開けた間抜けな顔を拝ませてくれた、と思ったら、すぐにまたうつむいた。膝の上に置かれていた両手がぎゅっと丸められている。ゆるんだ頬は隠せたつもりかもしれないっスけど、赤い耳が、まる見え。ほんと、わかりやすい。

「言ってないじゃん…!」
「ちゃんと話きいててよー」
「なにその声きもちわるい」
「なまえの真似」
「そんなんじゃない」
「自信あったんスけどねえ」

軽口をたたきあっているうちに、駅に着いた。隣のつま先は、はじめから降りる気なんてなかった、とでも言わんばかりに、行儀よく揃えられている。ドアが閉まって、電車が動き出せば、忘れられていた眠気が顔を覗かせて、くあ、とあくびが洩れた。背中をまるめて寄りかかる。着いたら起こして、って言ったら、返事の代わりに、向こうからも少しだけ寄りかかってくる感覚。ふたりとも寝て、乗り過ごしてちゃ意味ないけど、まあ、それでもいっか。


夢見草:桜の異名
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テーマ「人外ファンタジー」
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