温めておいた白いポットに沸騰したばかりの熱湯を注ぎ、熱を逃がさないようにすぐに蓋をする。葉がしっかり開くまで、数分。那月の見よう見まねでやっていたことだったが、今ではその手順も、気をつけるべき点もすっかり覚えてしまっていた。紅茶の淹れ方なんて俺には、那月を守るためには、なんの役にも立たないというのに。舌打ちをひとつ。それから、食器棚からティーカップを二組出した。これも温めておく必要がある。そして、そうするべく自然と動いてしまう体。…馬鹿みたいだ。そう思う一方で浮かぶ別の感情を否定しきれなくて、短くため息をつく。いつからこんなに温い考え方をするようになっていたのか自分でもわからなかった。
ふと視界に捉えたのは、その原因といえる存在だった。小さくて頼りない背中。一応は、那月のパートナー。作りかけの楽譜を手に、ふんふんとへたくそな鼻歌でメロディーをなぞる。そのくせメロディー自体はなかなかのものだから、つい耳を傾けてしまう。「わたしと砂月くんだけの曲だよ」以前そう言われたことを思い出した。月に一度提出するという作曲の課題とも、卒業オーディションとも関係のない曲。「誰にも、那月くんにも、内緒にしてるの」そんな暇があったら那月のために使えと言うべきだった。なのにそれどころか、嬉しいだなんて思ってしまったから。
軽く頭を振る。ポットからカップに紅茶を注いで、片方はそのまま、もう片方にはミルクを足して持っていった。

「休憩だ」
「えっ、あ、紅茶!砂月くんありがとう、でもあとちょっとで、」
「知るか。紅茶が冷める」
「えええ」

不満げな声に背を向け、ソファーに座って足を組む。ちらりとこちらに視線を寄こすものの、区切りのいいところまでやってしまいたいのかそれもすぐに逸れた。普段は見られないような真剣な横顔、楽譜とこれから生まれる旋律だけを見つめる瞳、時折小さく動く唇。きっと今、曲のこと以外なんてちっとも考えちゃいない。それ自体は悪いことではなく、むしろそうあるべきだ。なのに、それを面白く思わない自分がいることも事実で。静かに目をつぶる。離反していくばかりで、もうひとつの人格があるみたいだ、なんて、くだらないことを。花弁を模した白いカップに口づけ、ストレートの紅茶を一口すする。じわりと広がる味に、気分も思考も少しはマシになった気がした。






一区切りついたのか、止まっていた空気が動く。ん、と噛み殺したような声と、ぐいっと天井に向かって伸ばされる腕。立ち上がり、もう一度伸びをしてみせる。「おい、」ふらふらとおぼつかない足取りで来るものだから、思わず声が出ていた。

「なーに」
「もっとちゃんと歩け」
「だって疲れちゃった」
「さっさと休憩にはいらなかったのはお前の勝手だからな」
「わかってますよーだ」

そのままソファーの左隣に座り、両手でカップを包む。こく、という音と同時に白い喉が微かに上下するのをなんとなく眺めた。少し力を込めただけで、容易に手折ってしまえそうな。カップを受け皿に戻した。形容しがたい衝動に突き動かされるまま、空いた手を伸ばす。耳にかけられていた髪を背中側に流した。そうして触れてみた首筋は、やわらかいくせに存外しっかりとしている。「なに?」問いかけてくる声を無視して、指先が肌をすべった。輪郭をたどり、顎を掴んでこちらを向かせる。揺れる瞳に俺だけが映っていた。

「もう、なに、砂月くん」

怒ってみせるのは口先だけで、染まる頬も泳ぐ瞳も過ぎるほどにわかりやすい。からかい半分で唇をふさぐと、目を見張り、びくりと身体をこわばらせた。慌てて閉じられた瞼は透けるように白い。同じものを食べて、飲んだはずなのに、匂いも味も甘い気がしたのは、きっとこいつに感化されたせいだ。わざと音を鳴らして離れて、小さく息を吸うのを肌で感じながら両腕で抱きしめて、もう一度なんて言わずに幾度となく。背中に回されたわずかな重みが、いとしいと思った。