その光景を見た瞬間、自分の喉から聞こえたひゅっと息をのむ音がやけに耳について、それから、すべての音が消えた。見たくない、離れなきゃ。それだけを思って踵を返した。
次に聞こえたのは、後ろ手に閉めたドアがバタンと叩きつけられる音だった。あの廊下から寮の自室まで、短くはない距離を走りつづけたせいで繰り返す呼吸はぜえぜえと浅く苦しい。鼓動が頭のてっぺんからつま先まで響いている。ドアに背中を預けたまま、ずるりと床に座り込んだ。幸いと言っていいのか、この部屋を使っているのは今は私一人だから誰かに見られる心配はなかった。折り曲げた脚を両腕に抱いて、うつむく。ついさっき見た、見てしまった光景が鮮明に流れ込んできて、ぎゅっとつむった瞼の奥がツキンと痛んだ。
――翔と春歌ちゃん、が。ぐるぐると頭の中を駆け巡るのは二人の、パートナーだからといって納得できるようなものじゃない、まるで恋人同士のような。翔の手が春歌ちゃんの頬に伸びて、彼女はそれを自然と受けとめて。そんな様子や、やわらかく笑いあう姿や、そしてなによりも、春歌ちゃんを見つめる翔の瞳がすべてを物語っていた。あんなに優しくて愛おしげな目をする彼を、私は知らない。翔が泣き虫だった頃よりも前、それこそ物心がつく前からの付き合いで、薫の次くらいには一緒に過ごしてきたはずなのに。早乙女学園に入学して以来、中学とは比べものにならない授業の密度だとか、クラスが別れてしまったこともあって疎遠になっていたとは思う。最近じゃ話すのだって、SクラスとAクラスの合同授業の時くらいしかない。でも、だからって、こんなのはあんまりだ。

「ばか」

誰に向かって言っているのかなんて自分でもよくわからなかった。








突然部屋を訪れた私を、パートナーの那月くんは嫌な顔ひとつせずに招き入れてくれた。ふかふかのソファーに座らせてもらって、あたたかい紅茶が注がれたカップを手渡される。一口飲んで、じわりと広がるほのかな甘みに目をつむった。

「どうかしたんですか?」

隣に座った彼のそう問う声も、見つめる瞳も、髪を梳くように撫でる手のひらも、全部が痛いくらいに優しくて、なんでもない風を装った唇に隠れて食いしばった歯が鈍い音をたててしまいそうになる。「なんでもないよ」こんな見え透いたことを言ったって信じてもらえないだろう。だからといって、「失恋したの」なんて素直に言えるほど図太くもないのだ。
短い沈黙のあと、名前を呼ばれた。悲しげに揺れる瞳。ぎゅ、と胸が締め付けられて、もう、耐えきれそうにない。伸ばされる腕をかいくぐって那月くんの眼鏡を手に取った。

「…え?」

伸ばした右手は、眼鏡を掴む前に手中に収められていた。丸まっていた指先を解くように那月くんの親指が手のひらをすべり、そのまま絡められていわゆる恋人繋ぎの状態になる。引き寄せられて、唇が軽く押し当てられた。流れるような一連の動作に頭がついていかなくて、数秒後にようやく、びくりと肩が跳ねあがる。振りほどこうと手に力を込めても、私より一回り以上大きい手はちっとも緩まなかった。それどころか、手の甲に食い込む指の力が少し強まる。そしてもう一度、指先に小さなキスが落とされた。

「な、那月くん」
「…はい、なんですか?」
「離して…私っ…」
「“翔が好きなのに”ですか?それとも、“砂月くんと代わって”?」
「っ!わかってるなら、どうして」

私の言葉に那月くんはこたえてくれない。無言のまま絡めた手をソファーの背に押しつけて、もう片方の手で肩を押さえて、私との距離を詰めた。見上げた先の瞳はどこか冷ややかな気がして、背中にぞくりと悪寒がはしる。離れようとしても、身じろぐことしかできなかった。
いつもと、違う。
那月くんも砂月くんも私が翔を好きなことを知っていて、応援してくれていた。那月くんはたくさん話を聞いてくれたり、名前ちゃんなら大丈夫ですよって笑いかけてくれたりして、砂月くんは言葉こそ少ないけれど、逆にその方がいい時も少なくなかった。たとえば私が泣いたとして、砂月くんならなにも言わずにそばにいてくれるけれど、那月くんにはきっと不安そうな顔をさせてしまう。ただ、二人とも優しいから、同じくらいに心配してくれていて、それが表面にどれだけ出やすいかが違っているだけだというのはわかっていたのに、私はその優しさに甘えて知らないふりをしていた。
いつもと、違う。私を受けとめてくれていた手のひらが、逆に私を追い詰める。これは、甘えすぎたことに対する罰かなにかなのだろうか。

「翔ちゃんと七海さん、お似合いですよね」
「!」
「二人ともとっても可愛らしくて…ああ、もちろん、名前ちゃんも負けないくらいに可愛いですけど」
「……待って、」

まるで二人の関係を知っているみたいな、口振り。那月くんは、知っていた?浮かんだのは確信に近い疑問。そして私の心の声が聞こえていたかのように「翔ちゃんから、七海に手を出すなよって釘をさされたんです」そう、さらりと口にする。そんな、それなら、知っていたならどうして、

「だって、僕がいくら口で言ったって、実際にその目で見るまで名前ちゃんは信じてくれないでしょう?」

凪いだ瞳から感情は読めなかった。長い片思いがあっさりと散ってしまった私を、那月くんはどんな目で見ていたんだろう。そして今、なにを思っているんだろう。少し前までなら、優しい言葉をかけてくれることを疑わなかった。でも今は、私の知らない彼の一面を見てしまったから、そんな風にはとても考えられない。綺麗に浮かんだ笑みが怖い。離して、ほしい。
肩に置かれていた手にぐっと力が入った。逃がさないと言われたような気がして、余計にそうしてしまいたくなる。

「ねえ、僕にしませんか?」
「………え、」
「僕なら名前ちゃんを悲しませたりしません」
「なに、言ってるの?」
「ずっと前から、好きだったんです」
「ちょっと、待って、」
「僕たちは、」
「やだっ!」

どうして、どうして。そればかりが頭を占める。今すぐこの場から逃げ出して、ひとりになりたい。ひとりぼっちのあの部屋で膝を抱えたまま朝を迎えれば、今日あったことは全部ぜんぶ、ただの良くない夢だったことになるかもしれない。目が覚めたらいつも通り、授業を受けて、那月くんと一緒に曲をつくって、翔の姿を見かけて嬉しくなって、もしも運良く話せたらどきどきして、なにかあったら那月くんや砂月くんに相談して。それで良かったのに。翔には好きなひとがいて、それは私じゃなくて、そして、那月くんが私のことを好き、だなんて。
無理やり上半身をよじったら、そのままソファーに倒れ込んでいた。反動で浮いた右足からスリッパが落ちて、その音がどこか遠くに聞こえる。

「ごめんね、名前」

私を見下ろす唇から、そんな声がこぼれた気がした。