食事をした店から駅まで歩こうと冗談交じりに言い出したのは音也で、どうせなら最寄りのもう一つ先までにしようと提案を重ねたのは名前だった。ふたりともタクシーで楽に帰るより、のんびり歩きながらもう少しだけ話に花を咲かせていたかったのだ。腹の底で思うことに差異はあれど、少なくともその部分だけは同じだった。

妙にふわふわした気分なのは、勧められて飲んだカクテルのせいか、それとも横に並んで歩く彼女との距離があまりないせいか。でもたった一杯で酔うほど弱くはないしなあ。人差し指で頬をかく。底なしというわけではないが、嗜む程度には飲める方だと音也は思っていて、事実それは正しかった。それでも、時々地面を踏みしめているのかわからなくなる浮遊感は消えない。雰囲気に、状況に、足取りがおぼつかなくなる。

季節はずれの雨が上がったばかりの夜だった。せっかくの満月だというのに、雲は空に居座ったまま月を隠す。水気をたっぷり含んだ生温い空気は、今が夏であるかのように錯覚させた。夜遅いこともあって、辺りにふたり以外の人影はない。たまに通る車のライトが地面に長い影をふたつ作る。今も一台それなりのスピードで通り過ぎていき、水たまりを跳ね上げた。あ。とりとめのない話をしていた名前の声と歩みがぴたりと止む。

「どうかした?」

車が通ったことさえ気づいていなかった音也は、彼女がなぜ立ち止まったかなど見当もつかない。買ったばかりのパンプスに水がかかってしまった名前はそれどころではなく、うん。と返事になっていない言葉だけを返してパンプスを片足から抜いた。雨だとわかっていたのに防水スプレーをし忘れた今朝の自分を再三うらむ。ハンカチで水を拭う彼女を見て音也はようやく状況を理解して、ああ、とひとり頷いた。そして、どうせなら俺にかかればよかったのに、と履き潰したスニーカーを見下ろす。視界の隅にやけに白い足が映り込んだ。目を、わずかに伏せる。

彼女が自分を食事に誘ったことに他意はないと、わかっていた。早乙女学園に通っていた頃の、パートナーという関係ではなかったもののわりあい親しかった、友人と呼べる同級生に久しぶりに再会して懐かしくなった。きっとそれだけのことなのだ。卒業するまでは毎日のように顔をあわせていたというのに、それからはお互い忙しくなり、最後に会ったのは一年以上前、それも少し言葉を交わした程度だった。今回偶然同じ仕事のオファーがきていなければ、次があったのかさえわからない。彼女以上に疎遠になっている友人もいたけれど、音也にとって問題はそこではない。気持ちを告げるどころか自ら連絡を取ることもできない、らしくないと自覚するほどの消極的な態度。今更、というのもあったし、学生時代に聞いた彼女とそのパートナーがそれ以上の関係なのでは、という噂のせいでもあった。あのふたりは音楽的な部分以外でもずいぶん気が合っていて、男女の機微などまったくと言っていいほどわからない音也でもなんとなく思うところがあった。あの頃に告げなかったのは恋愛禁止の校則のせいなどではなく、単に勇気がなかっただけだ。

ぐい、と前に引かれる感覚に意識が現実に戻された。ごめん、と少し慌てた声が耳に届く。バランスを崩した名前はとっさに彼の服を掴み、体を支えていた。伝わってくる体温。他意はないとわかっていた。つもりだった。わかっていても、もしかしたらと思わずにはいられない。卒業してから五年も経った、けれど言い換えればまだ五年しか経っていない。パートナーのことだって、杞憂に過ぎないかもしれない。今すぐに抱きしめて、ずっと、学生の時からずっと好きだったと言ってしまえたら。大丈夫?と心配してみせる自分の声がなんとも空々しい。問われるべきは自分自身なのに。

持ち上げた腕を戻すのと、名前がパンプスを履き終えて顔を上げるのは同時だった。待たせてごめんね、と向けられた笑顔に返した笑みは、不自然ではなかっただろうか。こんな時だけ、うまく表情を繕えない。こぼれそうになるため息をぐっと押し込め、笑う。

「そういえば、音也くんは付き合ってる子っているの?」
「……え、」
「あはは、超がつくほどの人気アイドルにこんな質問しちゃだめか」

あ、いや、その。前触れなく核心を突かれ、わかりやすく動揺する姿をどうとったのか彼女はにこにこと笑うだけだ。これはどういう風にとればいいのだろう。単なる興味か、話すことがそれしか思いつかなかったのか、それとも。彼ならどうするのだろうと、メンバーのひとりの顔が音也の脳裏をよぎる。浮遊感なんてとっくに消えていた。乾いた唇を舐め、生唾を飲み込む。

「…名前は?」
「え?」
「付き合ってるやつ、いる?」

からからの喉から出た声は、なんとか平静を保っていた。質問を質問で返すという、本来ならばあまり使うべきではない手段は彼にとっての精一杯の答えだ。そして同時に、自らの首を絞めることに繋がりかねないことでもある。祈るような気持ちで答えを待った。数秒が何倍にも長く感じられる。ライブ前の心地よい緊張感とは似ても似つかない、じりじりと痛むような緊張感が彼を苛む。

「いないよ」
「へえ、そうなんだ」
「えー。訊いておいてそっけないなあ」
「意外だなって思って」
「そう?」
「うん。だって」

言ってから、しまった、と口を噤む。言うつもりなんてなかったのに、答えに安心して口が滑った。「だって、なに?」続く言葉を催促される。考えてみても、今度は誤魔化せそうになかった。

「学生の頃、もててたじゃん」
「え、私が?」
「パートナーのやつとか、さ」
「パートナーって…え、ないない!男女の友情のお手本ってくらいにただの友達だったよ」
「………え、」

そんなばかな。叫んでしまいそうになる。結論から言えば、噂は噂でしかなかったということだ。ゆるむ口元をさりげなく隠しつつ、次の言葉を探した。現金なもので、頭の中はどうやって話を切り出すかということしか考えていない。それほどまでに、彼女のパートナーは音也にとっての強敵だった。さて、どうしよう。考えるといっても、駆け引きなど到底できっこないし、性分にも合わないので結局はストレートに言うしかない。それでもタイミングというものがある。それくらいは、恋愛事にことさら鈍い彼にもわかっていた。幸い、ゆっくり歩いていたので駅まではまだ距離がある。

なにか気に障ってしまったのだろうか。黙り込んでしまった音也を横目に名前は内心気が気でなかった。音也は考えるのに必死で気づいていなかったが、唐突に途切れた会話は彼女が気まずく思うには十分で。なにか話を振った方がいいのだろうかと、考えを巡らせる。そして、付き合った人こそいないものの、好きだった人がいたことを思い出した。五年前、か。ほう、とため息がこぼれる。胸を締め付けるようだったその気持ちは、今では思い出となり穏やかに凪いでいた。きっと、笑いながら話せる。せっかく懐かしい友人に会えたのだからと、とっておきの昔話をしてみる気分になった。

「今だから言えるんだけど、私、ほかに好きな人がいたの」
「え?!」
「ふふ、誰だと思う?」
「ええっと…ひ、ヒントは?」
「ヒント?うーん…恥ずかしいから、答え言っちゃうね」
「ちょ、待っ」
「音也くんだよ」
「……は、え、」
「ほかにも音也くんのこと好きな子、けっこういたと思うなあ。それこそ、もててるって感じでね、」

やっぱり言わなきゃよかったかも。いくら昔のこととはいえ、当人を目の前に話すのは思いのほか恥ずかしいもので、笑えたのは表面上だけだった。早くも後悔し始めた名前はぽんぽんと言葉を重ね、話題の対象を自分から音也に移そうと試みる。いろいろな感情がないまぜになって、彼の顔を見ることなど到底できそうにない。まるであの頃のような、気持ち。慌てて、そんなはずはないと自らに言い聞かせる。デビューしてからずっと仕事のことばかりで、恋愛なんて二の次だった。今だって大切な時期で、スキャンダルになり得ることはしないべきで。そこまで考えて、ずいぶんと打算的な考え方をするようになったものだと他人事のように思う。そして矛盾に気づいて小さく笑った。食事に誘ったことも、今こうして一緒に歩いていることも格好のスキャンダルであり、世間からしてみれば大差ないことなのだと。

ため息をついたのはどちらだったのか。名前が無意識のうちに少しだけ距離をとったことに音也は気がついていた。相変わらず湿った空気がふたりを包む。車はあれきり通っていない。転々としていた話題は、音也のレギュラー出演が決まっている新作のドラマのことになっていた。お互い別のことを考えながら、言葉だけが空回る。あの話は終わらせることができたのだと安堵する一方で、はぐらかされた側は穏やかではない。きちんと終わりまで話をしたかった。ごくり。音也の喉が鳴る。

「あの、名前」
「ん、なに?」
「その…俺のこと、好きだった、の」
「! え、えっと、昔のことだから、気にしないでね」
「…無理かも」
「えっ」

距離が一瞬でなくなる。あまりに唐突で、名前は抱きしめられたことさえ理解できずにされるがままになっていた。逃がさないとでも言わんばかりに力強い腕が腰と背中に回される。耳元で聞こえる息遣いと、自分のものではない温もり。頬があっという間に赤く染まった。

「お、音也くんっ」
「名前はもう俺のこと、友達としか見れない?」
「………え?」
「俺は、」

どうにか離れようともがいていた腕が服を掴んだまま動きを止める。低く、不思議な響きをもった声がそうさせていた。

「…俺は今でも、名前のことが好きだよ」

そう、囁く。肩をつかんで顔を覗き込むと、名前は時を止めたかのようにかたまっていた。彼女の見開かれた瞳に映るのも、頭の中を占めているのも、今は自分一人だけ。そんな優越感。赤い頬にそっと触れて、輪郭をなぞる。ぽかんと開いた唇から、意味をなさない、言葉というよりも音のような声が洩れた。

「ねえ、名前は俺のこと、好き?」