その関係はひどく不安定で、綺麗に歪んでいて、きっとどんな名前もつけられないものだった。利口なふりをしたままでいればよかったのに、もう遅い



月のない夜だった。暗い灰色の雲が厚く空を覆い、人工の光だけが淡く夜を照らす。外の静けさに呼応するように閑散とした廊下に、コツコツと固い音だけが反響していた。規則正しいその音はあるレッスンルームの前でぴたりと止み、代わりにドアノブを回す鈍い金属音が小さく鳴る。先客がいるのはわかっていたのに、ノックはなしだ。

防音設備の整った広い部屋の真ん中に、一台のグランドピアノ。なにかしら奏でられていると思っていたのに、予想に反してピアノはただそこにあるだけだった。砂月の眉間に皺が刻まれる。鍵盤の蓋に腕と頭を乗せ、すやすやと眠る少女の姿が見えたからだ。秋も深まり、特に今日は冬のように冷え込んでいるというのに名前はブレザーを着ていなかった。弾くときに邪魔で脱いだのか、椅子の背もたれにきちんとかかっている。風邪ひくだろ。低い声は呆れていたが、冷たさはない。ブレザーを肩に掛けてやり、少し考えてから自らのブレザーも上に重ねる。なにとなしに触れてみた頬は、ひやりと冷たい。よく眠っているようで、起きる気配はなかった。

部屋の隅に並べられている椅子を一つ持ってきて、名前の横に座る。置いてあった数枚の楽譜を手に取り、メロディーをさらっていった。なかなか良くなった、と心中で評価する。前に指摘した部分はすべて、彼の思いに応えるように様子を変えていた。しかし、まだ改善の余地はある。ペンケースからシャープペンを拝借して、思い浮かぶままに歌詞を綴った。歌を聴けば新しいイメージが膨らみ、曲が歌にそぐわない部分や、そこをどう直せばいいかは自然とわかるのだと彼女は言う。起きたら聴かせてやろう。そして、より良い音楽を。手は淀みなく動き、息をするように歌詞が生まれる。そうさせるのは、彼女の曲であってこそだ。自分に影響を与えられるような曲を書ける存在がいることに、言葉にこそしないが砂月はこの上ないほどの喜びを感じていた。

一通り歌詞を書き終える。あくまで仮のものなので、そこまでこだわってはいない。トントン、と角を揃え、置いてあった場所に戻す。ふと時計を見ると、約束していた時間から三十分が経とうとしていた。そろそろ起こすべきか。考え、伸ばした手が肩を揺する。ん、とわずかに声を洩らしたものの、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。もっと強く揺すってしまえばいいだけのことなのに、気持ちよさそうな寝顔にそれも憚られる。肩を離れた指先が頬にかかっていた髪を掬い、後ろに流した。薄い赤に染まる頬は、先程の冷たさが嘘のようにあたたかい。

無防備、すぎる。ごく、と喉が鳴った。静かな部屋に嫌に大きく響いたような気がして、焦る。お前が触れていいのかと自問しながらも目が離せなかった。ゆるゆると頬をなぞり、閉ざされた瞼をそっとなでる。駄目だ、やめろ。俺は。咎める声とは裏腹に動く体は、まるで自分のものではないようで。


「……俺のものじゃ、ないか」


そうだ、この体は俺じゃない、那月の。自嘲をにじませた笑みが浮かぶ。触れていいはずがなかったのだ。影でしかないくせに、こんな気持ちを抱いて、触れるなんて。せめて相手が同じなら良かったのに、こればかりはどうしようもなかった。砂月は目の前で昏々と眠る彼女に、那月は七海春歌という名の少女に。同じ思いを、異なる相手に。影になりきれない自分の愚かさに、現実に、目眩がした。自分は那月のためだけに生まれた存在なのだと、意識するまでもなかったことを己に言い聞かせる。


「起きろ」


口調に似つかわしくない、懇願するような声音。事実、その表情は悲しげにゆがんでいた。早く、起きてくれ。名前の顔を見ないようにしながら、肩を揺さぶる。ぐっ、と一度強くつぶられた瞼が、ゆっくりと開き、瞬いた。ぼんやりとした視界がちかちか光る。名前が目覚めたことに気がついていない砂月は、しびれを切らして両肩をつかみ、力任せに上体を起こさせた。覗き込んだ瞳と計らずとも見つめ合ってしまい、うろたえる。突然視界が大きく揺れた名前は小さな悲鳴をあげ、目を白黒させた。そしてようやく状況を飲み込み、平に謝りだす。曲を見てほしいと頼んだのも時間を指定したのも自分の方なのに、眠りこけてしまうなんて。静寂なんてまるでなかったかのように、部屋に声が響く。自分の葛藤すら夢か幻であったような気がして、砂月は少しだけ安堵した。