コツ、コツ、とヒールを鳴らして夜を歩く。マンションの共用廊下を照らす青白い光と、足元に丸くうずくまる黒い影のコントラストに、ひとつ、ため息をこぼした。ほどよくアルコールが入って浮つく体と、なぜかちっとも酔わずに平静を保つままの頭がちぐはぐで、だから、ため息の数が増えるばかりで、無性に会いたくて。つながりの見えない思考に、やっぱり酔っているのかもしれない、とどこかで思いながらカバンをあさって家の鍵を引っ張り出した。

「…あれ、来てたの」

ソファーに深く座ってくつろぐ背中に声をかける。久しぶりに会う恋人にかける言葉にしてはずいぶんなものだったということには、あとから気がついた。振り返った黒い瞳がわたしを見て、おかえりなさいと唇が笑う。
リビングに明かりがついていたから薄々わかって、いや、本当は、そうだろうと確信していた。ただ、約束の類をした覚えがなかっただけで、でも考えてみれば、それもわたしたちには要らないものなのかもしれない。
玄関にパンプスを転がしたまま向かったリビングに、トキヤがいた。ちぐはぐが跡形もなく溶けていく。帰るだけだから、とろくに直さないままの崩れたメイクが、少しだけ後ろめたい。

「あらかじめ連絡はしておきました」

ソファーから立ち上がったトキヤが右手に携帯を掲げてみせた。目がパンダになっていないか気にするわたしの内心とはまったく別のことを話し出すトキヤに安心するけれど、言われたことが飲み込む途中でひっかかる。連絡なんて――あ、

「充電、切れてたんだった」

昨日の夜に充電器に差し損ねていた携帯は、午前中でその役目を終えてしまっていた。「まったく、あなたは」そんな呆れた声を背中で聞きながら、コンセントに差さったまま床に伸びている充電器を拾って携帯の電源をつける。新着メールの中に、トキヤからのものが2通。…やっちゃったなあ。

「…そんなことだろうとは思いましたが」

ため息の中に安堵がまざっているのがわかるから、反論なんてできない。言葉につまる。目を合わせても、ごめんね、と言いかけた唇は曖昧に笑うだけ。
普段なら適当にそのあたりに置いてしまう上着をきちんとクローゼットにしまって、備えつけの鏡で確かめた滲んだマスカラを指先でなぞる。パンダとまではなってなかったけれど、うん、よろしくもない。洗面所で、きれいさっぱりメイクを落とす。
楽な格好に着替えてリビングに戻ると、あまい匂いが漂っていた。ソファーの前のローテーブルに、ミルクも砂糖もいれないブラックのコーヒーと並ぶ、まろやかな茶色のココア。わたしは、トキヤのいれてくれるココアが好きだ。わあ、と小さく声を洩らして、そそくさと左隣に座る。

「飲んできたんですか?」
「ん?」
「顔が赤い」
「あー、うん、飲んだよ」
「それなら水の方が良かったですね」
「そこまで飲んでないから平気」
「そうですか?」

覗き込まれる。「そのわりには、」折り曲げられた白い指先がやさしく頬に触れた。まだあつい体には心地良い、ひんやりした指先。両手にすっぽり包み込んでいたマグカップをテーブルに置いて、距離を詰める。寄りかかってみた体は、やっぱり、わたしよりも温度の低いぬくもりをもっていた。
今日クランクアップしたばかりのドラマの撮影の打ち上げで、場所は最近みんながよく使う隠れ家みたいな飲み屋さんで、珍しくあの人が参加していて、とか、そんなことをのんびり話す。共演した俳優さんにマンションまで送ってもらったことは、隠すつもりはなかったけれど、わざわざ言うつもりもなかった、のに、順を追って話すうち、気づけば口からこぼれかけていた。言いかけてやめるのは、それこそ隠したがっているみたいだったから、なんでもない風に、ただのひとつの事柄として話す。事実なにもやましいことなんてないけれど、彼がわたしに気があることはなんとなくわかっていたから、やっぱり、言わないほうが良かったのかもしれない。
相槌をうつトキヤの左手が、わたしの右手に触れる。薬指にぴたりとはまるシンプルな銀のリングを、そっと、なぞった。見上げた瞳は、凪いでいる。はあ、と、ため息。

「わかっているとは思いますが、カメラには気をつけてください」
「うん」
「私はまだ、表立って君を守ることができないんですから」
「うん、大丈夫、わかってるよ」

深く、頷いてみせる。お揃いの指輪、凪いだ黒、ため息。理由はきっとわたしも同じだから、全部は無理でも、ひとかけらくらいだったら、わかるよ。――わたしも、トキヤのこと、ほんとは独り占めしたいから。頬に添えられたら手に目をつぶるふりをして、こっそり、伏せられた薄いまぶたを、その内側の黒い瞳まで見透かすように、じっと盗み見る。今、この瞬間の彼はまちがいなく、わたしだけの。触れた指先から辿った先の指輪のかたい手触りに、ちいさく笑った。




狡い指先