ポケットをさぐって、貰ってから随分経った、今ではすっかり手に馴染んだ合い鍵を鍵穴に差し込み、回す。ガチャリ。鈍い音を確かめてから、トキヤはドアを開けた。玄関に足を踏み入れ、ほう、と息を吐く。お邪魔します、と一応声をかけてみるものの、案の定返ってくる声はなかった。上着のポケットから取り出した携帯には、一時間ほど間を置いて送った2通のメールの履歴はあっても、そのメールへの返信は届いていない。なにかあったのでは、という懸念と、単に忙しいだけだろう、という理由のもとの納得がゆれてはぶつかる。姿見に映った自分の顔はわかりやすすぎるほどに不機嫌で、そっと目をつむる。追い払うように軽く頭を振って、靴を脱いだ。








歌詞のテーマについて掘り下げることも、台本の読み込みもする気分になれず、カバンに入れっぱなしになっていた小説を取り出して、珠玉のミステリーと銘打たれたその物語のひとつめの章が終わる頃。玄関のドアが開く音と、風が流れる音にトキヤは文章を追うのをやめて、時計を見た。日付はもう変わっている。トキヤは、来てたの、とぽつりとこぼす名前に振り向いて、「おかえりなさい」と返した。

「あらかじめ連絡はしておきました」

結局なんの連絡もこなかった携帯を掲げて、見てなかったんですか?という小さな棘を言外に潜ませる。みっともないですかね、と、すぐに、後悔のような焦りが背中の辺りをざらりと撫でていく感覚に、目を細めた。「充電、切れてたんだった」と、慌てて充電器に手を伸ばす名前の後ろ姿に呆れた声をかけて、複雑なため息を吐く。

「…そんなことだろうとは思いましたが」

半分もあたっているのかわからない胸の内をそう言い表して、名前の唇に浮かぶ申し訳のなさそうな笑みを見やる。ふと、ココアでも用意してあげましょう、と、思い立って、着替えるためにリビングを去る後ろ姿を見送ってから、キッチンに立った。トキヤが栄養だけでなくカロリーまできっちりと計算しつくされた料理を自ら作って食べるのに対して、名前は、一日三食は食べよう、という程度の心づもりしかない。冷蔵庫の中が空に等しいということもざらではなく、2人でいるときにキッチンに立つのがたいていトキヤであるということもそれと同様だった。迷うことなく棚からココアの袋とコーヒーのビンを見つけ、慣れた手つきで用意をする。
小さな子どもがするように両手にマグカップを抱える名前を横目に、トキヤもブラックのコーヒーをすすった。間近に見てはじめて、赤い頬に気がつく。

「飲んできたんですか?」
「ん?」
「顔が赤い」
「あー、うん、飲んだよ」
「それなら水の方が良かったですね」
「そこまで飲んでないから平気」
「そうですか?…そのわりには、」

静かに手を伸ばして触れた頬は、色から想像した通りにほんのりと熱を帯びている。名前は気持ちよさそうに目を細めて、トキヤに寄り添った。そして胸に頭を預けた格好のまま、ぽつぽつ話し始める。
今日ドラマの打ち上げがあるという話は聞いていたし、もちろんしっかりと覚えていたので、ただ相槌を打つだけだった。けれど共演者の俳優の男の名前が出た途端、ぴくりと目元が震える。その俳優は女性関係がだらしないと関係者の中では有名で、共演者には必ず手を出そうとする、とまで言われていた。特に気にしていないのか、平坦な調子のまま話す名前に、自分も平然としたままでいようと努める。つくった表情で感情を隠すことは長く芸能界に身を置いているトキヤにとって簡単なことで――こと、である、はずだった。思わず眉間を押さえそうになる指先を、そっと丸める。名前に関すること、特に彼女本人を前にすればなおさら、その簡単であるはずのことが途端に様子を変えてしまい、手に負えなくなる。
かたく握りしめていたはずの指先は、いつの間にか、名前の右手薬指の指輪を撫でていた。いつもの、癖だ。凪いでいた気持ちを崩してしまわないように、水面を揺らさないように、そっとまばたきをする。かすかに震える唇から、はあ、と細いため息がこぼれた。しまった、と、後悔したところで時間は戻らない。

「わかっているとは思いますが、カメラには気をつけてください」

それらしいことを並べて、ごまかす。今度はきちんと、できているはず。――嫉妬、だなんて、みっともない。一対の指輪がそれぞれの指にある限り大丈夫だと、彼女が自分を想っているのだと、自分のものであると思えるから、つい、触れてしまう。稚拙な独占欲まで渦巻いているのだから、どうしようもない。一瞬、彼のように様々な感情に素直になれたら、と、トキヤの脳裏にかつての同室であり、今は立派なライバルとなったひとりの男の顔が浮かんだ。彼を羨む気持ちは否定できないけれど、彼になりたいわけではない。それくらいはわかっています、と、自分に言い聞かせる。

「私はまだ、表立って君を守ることができないんですから」

嘘ではないけれど、本心を隠すための建て前であるには変わりないそれを、べたべたと塗り重ねていく。今はまだ脆さのあるこの壁が、いつか壊せなくなるほどになってしまう前に。わかってるよ、と笑ってみせる名前に手を伸ばす。いまだ赤いままの頬に手のひらで触れれば、自然とまぶたが下ろされた。目をつぶっただけの不完全な暗がりのなか、感覚を頼りに唇を合わせる。そっと重ねられた名前の手が自分の指輪に触れた気がして、トキヤはより強く目をつぶった。




想いの輪郭