灯りの落とされた礼拝堂は薄暗く、ステンドグラスのはめ込まれた壁の周囲だけがきらきらと明るい。後ろから三列目の、左端の長椅子。私が思うに、この場所から見渡す礼拝堂が一番綺麗だ。四人掛けの椅子の真ん中に座って、手になじむ古い木の感触をなぞりながら、すこしだけ埃っぽいような、湿ったような、静かな空気を吸い込んだ。ゆっくり目をつむり、ちいさく歌を口ずさむ。すぐに溶けてしまうような、本当にちいさな声で、そっと。

「綺麗な声だね」
「…えっ」

不意に声をかけられて、びくん、と大げさなくらいに肩が跳ねてしまった。同時に歌が止んで、遅れて、間の抜けた声が出る。え、うそ、なんで。そんな切れ端のような言葉ばかりが頭を占める。振り返った先、一番後ろの、つまりは私のふたつ後ろの長椅子に座っていたのは同じクラスの氷室くんで、微笑を浮かべてこちらを眺めていた。彼がここに入ってきたことに、全く気がつけなかった。歌に気を取られていたとはいえ、それ以上に、人の気配に気を使っていたつもりだったのに。
あの、その、と、しどろもどろになる私にお構いなしに、氷室くんは立ち上がって、こつこつとローファーのかかとを数回鳴らしてから、私の右隣に腰掛けた。歌を誰かに、よりによって氷室くんに聞かれたうえに、お世辞とはいえ、き、きれいだなんて、言われて、ああ、もう。立ち上がることもできずに、椅子の隅までじりじりと数十センチばかり後ずさる。背中に肘置きが当たった。
忙しなく動き回っていた視線が氷室くんの視線とぶつかって、思わず、そらせなくなってしまう。前髪から覗く右目がわずかに伏せられていて、そこに悲しみや寂しさのようなものがあるように見えてしまったからだった。

「そんなに怖がられると傷つくな」
「えっ、違っ、そういうわけじゃ、」
「それなら、隣に座るくらいいいだろ?」
「えっ?」

尋ねるような口ぶりだったわりに私の返事を待たないまま、氷室くんは長椅子の真ん中よりすこしこちら寄りのところに座り直した。私の庇護欲というか、同情の類を誘った表情はすっかりなくなっている。この切り替えの速さは、どうみたって、さっきのその表情がつくられたものだったからだとしか思えない。とはいえ、そのことについて指摘したり、抗議したりするような度胸は持ち合わせていなかったから、もっと隅にいこうと身を寄せるくらいしかできなかったのだけれど。

「よくここで歌っているの?」
「えっと、今日はたまたま、で」
「へえ?でも、オレがここでキミの歌を聴くのはもう五回目なんだけど」
「!!!」
「嘘は良くないな」
「ぬ、盗み聞きしてるような人に、言われたくない!」
「はは、それもそうかな」

ごめんな。するりと氷室くんの口からでてきた謝罪は薄っぺらくて、誠意なんてまるでない。言っている本人も私がそう思うのをわかっていて、それで構わないとでも言うように笑っているんだから、もう、本当に、なんなんだろう。左目を覆うような長めの前髪のせいで、正面を向いてしまった氷室くんの表情はよくわからなかった。唇は相変わらず淡く笑んでいるけれど、なによりも人の感情を映し出すのは目だと、私は思っている。
アメリカからの帰国子女で、長く向こうに住んでいただけあって英語の発音はネイティブ顔負け。あのバスケ部のダブルエースのうちのひとりを担うほどの実力の持ち主の上、顔立ちは整っていて物腰もやわらかく、熱烈な、もしくはひそかなファンが数多くいる。前者は陽泉で他校との練習試合があったときには応援に行って、彼の名前を呼んだりもするらしい。とてもじゃないけれど、私にはできそうにないことだった。最後にすこし脱線したけれど、これが氷室くんについて私が知りうる全部だ。けれど、なんだろう。今私のすぐ隣にいる氷室くんは、今まで私が彼だと思っていた人とはすこし、違う気がする。あやふやな違和感の正体はわからないまま、視線を前の列の椅子の背もたれに落とす。

「そういえば、こうしてちゃんと話すのは初めてだね」
「あ、うん。そうだね」
「せっかく同じクラスなのに」
「…まあ、席が近くになったこともないし、私は、氷室くん以外にも話したことがない人はいるし、そんなもんなんじゃないかな」

どくんどくん。言葉を選ぶたび、心臓の音が体中に響いて、隣にいる氷室くんにまで聞こえてしまう気がした。嘘はついていない。けれど、隠している気持ちがあるとこんなにも緊張してしまう。椅子に無造作に置いていた手に、ぎゅ、と力が入る。氷室くんの凪いだ声の裏になにがあるのか、私にはちっともわからない。この気持ちが見透かされているのか、そうじゃないのか。憧れだなんて綺麗な言葉に閉じ込めてしまうには、それはあまりにも拙くて。
ちらりと、表情の読めない横顔を盗み見た。そこらの女の子なんかよりよっぽど艶やかな黒髪と、それと対比するようにしろい肌。薄い唇が動くたび、空気が揺れる。薄暗い礼拝堂の中、そのまま消えてしまえそうな私とは違って、確かな存在感を示す。

「…そうだ、もう一度歌ってよ」
「え、今の流れでどうしてそうなるの」
「だめ?」
「…恥ずかしいから、だめ」
「綺麗な声なのに?」
「そ、そういうの、余計に恥ずかしいよ」
「うーん、オレにはよくわからないな。それに、オレだって恥ずかしいのを我慢したんだから、キミもするべきだと思うんだけど」
「え?どういう意味?」
「だってあんなに見つめられちゃ、ね」
「! き、気づい、て」
「よっぽど鈍い人じゃなきゃ気づくと思うよ」
「あああ、わ、忘れて、ください」
「どうしようかな?」
「氷室くん!!!」

くるりとこちらを向いた氷室くんは、それはそれは楽しそうに笑っていた。面白がられて、る。すぐにでも立ち上がって、ここから逃げ出してしまいたい。それなのに、頬の熱にあてられてしまったかのように頭が働かなくて、手足を動かすように命令することさえままならない。ぱくぱくと忙しない唇だけが、音もなく叫ぶ。

「なあ、いいだろ?キミの声、もっと聴かせてくれよ」