薄い紫に染まる寒空の下、丸く膨らんだビニール袋で塞がった両手をじっと見つめてみる。三歩前を歩く赤司くんは、私の視線にちっとも気づかないで(もしくはそのふりをして)すたすた歩いていく。おなかすいた、って、お寿司のコーナーを通りかかったときに言ってたもんね。今日は、お寿司じゃないけれど。
お鍋の材料とお酒とおつまみと、ほかにもいろいろ、いつも通り重たいものはぜんぶ赤司くんが持ってくれている。でもそのせいで両手が塞がっているのは、正直、いただけない。空いた右手はあなたの左手を待っているんだよ、なんて、言えたらいいのに。白いため息はすぐに透明なって、夕方と夜との間の空気に溶けていった。

「どうした?」
「え?」
「あんまりぼんやりしていたら躓くよ」
「やだなあ、大丈夫だよ」
「あゆみは抜けているところがあるから、どうかな」

くすくす笑う赤司くんに言い返そうと開いた口は、差し出された左手を前になにも言えずにぴったり閉ざされる。まとめて右手にぶらさげられたビニール袋が、窮屈そうに揺れていた。左手を握り直したら、豆腐とおつまみしか入っていないビニール袋がガサリと鳴る。ゆっくり、口を開いた。

「…右手、つらくない?」
「そんなにやわじゃないよ。なんならそれだって持てる」
「い、いや!これくらい持たせて!」
「そう?じゃあ、ほら」

促されて、そっと右手を重ねると、赤司くんはにっこり笑って「これで躓いても大丈夫だな」なんて言ってからまた歩き出す。だから、躓かないってば。内心でそう言い返して、つま先のすこし前のあたりに視線を落とした。



いつもよりたっぷり沸かした乳白色のお湯に肩まで浸かって、唇の隙間からゆるゆると息を洩らす。吸い込んだ水気だらけの空気は、入浴剤のやさしい匂い。
先に入った赤司くんは今頃、新しいお酒を開けているに違いない。根拠のない確信に小さく笑って、広くはない浴槽目いっぱいに脚を伸ばす。昨日、お祝いと称してうちに招いて、一緒に夕飯を作って食べて、0時ぴったりにおめでとうを言って、おやすみを言い合って。今日も朝からずっと一緒で、映画を観に行ったり、夕飯でお豆腐が多めのお鍋をつついたり、作ってあったケーキ代わりのいちごタルトをふるまったりして、私は楽しかったけれど、赤司くんは、どうだったんだろう。お祝いするのは二回目だけど、去年よりもちゃんとできていたらいいな。
お風呂から上がって、静かなリビングを覗き込んだら、案の定赤司くんは新しいお酒の缶に口をつけていた。…あ、それ、私が飲みたくてカゴに入れたやつ!

「出たんだ」

仁王立ちをする私を振り向くように見上げて、すこし赤い顔でにこりと笑う赤司くん、もとい、酔っぱらいの手から缶を奪い取る。軽く振ってみたら、もう半分も残ってない。あんまりだ!「あ、」とこぼれた声にはもちろん無視を決め込んだ。

「出たんだ、じゃないよ!なんでこれ飲んでるの!楽しみにしてたのに!」
「甘いやつが飲みたくなって」
「ほかにもあったでしょ!」
「冷蔵庫を開けて一番に目についたのがそれだった」
「わあああ」
「それより、そんなびしょぬれのまんまじゃ風邪を引くよ」

座ったままの赤司くんに手を引かれた。カーペットの上で、向き合う形で膝を抱えて体育座り。つま先が触れる距離のまま、肩に掛けていたタオルで濡れたままだった髪を拭かれる。ふっと口元をゆるめる赤司くんにどきっとしたけれど、いやいや、ごまかされたり、ほだされたりなんて、しないからね。見せつけるつもりで、手の中のお酒をぐいっとあおった。

「間接キスだな」
「っげほ、うっ、」
「ほら、やってあげるからドライヤー持っておいで」
「…子ども扱い」
「キスの方が良い?」
「うん」
「え」
「なんてね」

ふふ、言ってやった。内心の恥ずかしさやらをしまい込んでにっこり笑って、ぽかんと口を開ける赤司くんを一瞥してから洗面所に駆け込む。赤司くんのあんな顔、めったに見られるものじゃないからちゃんと覚えておかなくちゃ、ね。私の顔がにやにや緩んでいるのは、鏡を見なくたってわかった。両手で頬をおさえて、ゆっくり深呼吸。引き出しからドライヤーを出して、赤司くんのいるリビングに戻る。

「赤司くん」

お言葉に甘えて、と付け足してからドライヤーを手渡して、背中を向けて座った。カチッという小さな音がして、ブウンと唸るような音といっしょに暖かい風が後頭部にかかる。指先が髪を梳く感触が心地いい。目をつぶったら、そのまま眠ってしまいそう。
閉じようとするおもい瞼を持ち上げて、目だけ向けて時計を見た。23時46分。あと14分で、今日が終わる。おめでとうは言えたけれど、もうひとつ、今日のうちに言いたいこと。足の甲をもぞもぞなでる。「はい、乾いたよ」手のひらが頭のてっぺんにぽんと乗せられた。背中を向けたまま、口を開く。

「あのね」
「うん?」
「ええっと」
「まだ乾いてなかった?」
「いや、そうじゃなくて」
「?」
「来年も、お祝いさせてね」
「…………」
「って、言いたくて、ですね、その、よろしくお願いします」

背中をまるめて頭を下げたら、額が膝にぶつかった。もっとちゃんとしたかったけど、まあ、最低限のことは言えたから良しとする。額を押しつけたまま待っていたけれど、赤司くんがなんにも言わないからちょっと息が苦しくなってきた。どうしよう。

「ねえ、赤司くん」
「あゆみ、こっち向いて」
「えっ」
「早く」
「なんで?」
「いいから早く」
「や、やだ」
「おい」
「このままじゃだめなの?」
「ダメだよ」

膝を抱える腕に力が入る。「顔を見て言いたい」なんて言われたら、余計に向きにくいんだけど。いたちごっこみたいな言葉のやりとりに先に痺れを切らしたのは赤司くんの方だった。肩と頭の隙間にもぐった手のひらが、じらすように頬をなでる。触れるか触れないか、背中がざわざわする。はあ、とため息。諦めて顔を上げたら、いつの間にか私の前に座っていた赤司くんが静かに笑っていた。まばたきをひとつして、目を逸らす。ほっぽりだされたままのドライヤーのコードがだらしなく、床を這うように伸びているのが視界の隅に映った。
名前を呼ばれて、赤い瞳と視線がぶつかる。

「一生、こうして隣で祝ってほしい」
「……あ、かし、くん」
「言ってる意味、わかるよね?」
「えっと、あの、」
「僕に薬指をください」

赤司くんの手のひらに乗る小さな箱。その中にきちんと収まっているのは、箱よりもさらに小さくて、けれどとても大切な約束。わからないほど子どもじゃないし、素直に頷けるほど大人にもなれなくて、箱から指輪が取り出されて、私の左手の薬指にはめられるのを、ただ見つめることしかできなかった。

「…ぴったり。測ったの?」
「さあ、秘密かな」
「教えてくれないの?」
「そのうちね」
「ふうん。…お酒の缶とか転がってるし、ムードもなにもないね」
「嫌だった?」
「ううん、ぜんぜん」

左手を持ち上げて、指先までぴんと伸ばしてみる。つめたい金属は、すぐに体温になじんだ。ピンクゴールドのリングと、綺麗にカットされた小さな宝石が光を跳ね返す。自分で言っちゃうけれど、なかなか、似合ってるんじゃないかな、なんて。

「それで、返事は?」
「えっ」
「今回は予約みたいなものだけど、返事はもらいたいな」

伸ばしていた指先を軽く握られて、ゆるくまるめられた。すっとした形の親指が、指輪に飾られた私の薬指をなでる。左手があつい。そこにもうひとつ心臓があるみたいにどくどくと脈打つような錯覚さえある。すこしでも落ち着こうと深呼吸をしてから、ぎゅっと、赤司くんの手を握りしめた。

「薬指だけじゃなくぜんぶぜんぶあげるから、赤司くんの一生を私にください」

ひと息で言いきって、それから、これじゃあ返事じゃなくてプロポーズをしてるみたいだって、思ったけれど。「よかった」って頬を緩める赤司くんを見たらそんなささいなことはどうでもよくなって、いとしさで息ができなくて、なんだか泣いてしまいそうになって、飛び込むみたいに抱きついた。