授業が終わるまで、あと数分。そわそわと落ち着かない指先が机の上の携帯をなぞる。10分前に作っておいたメールは宛先もタイトルも本文もばっちりで、あとは送信ボタンを押すだけ。授業が早く終わったら送るつもりだったけど、これならいらなかったかな。 落としていた視線を前に向ければ、たくさんの文字と少しの図で埋められた黒板に赤い線が新たに引かれた。ここは重要ですね、と、先生ののんびりした声。倣ってノートに線を引く。ついでに腕時計を見てみれば、あと2分。まだ、終わらなさそう。この先生は早めに授業を切り上げることが多いのに、今日に限ってはそうではないらしい。
教科書とノートとペンケースをカバンにしまって、携帯をポケットに押し込む。結局教室を出たのはチャイムが鳴ってからだった。足早に向かう先は、構内の外れにあるカフェテリア。人がまばらな中に踏み込んで、いつもの席に赤司くんの後ろ姿を見つける。思わずゆるんだ顔を誰かに見られてしまわないように、右手でそっと口元を覆い隠した。もごもごと口を動かして上がった口角をごまかしてから、声をかけようと改めて口を開く。でもそこでちょっとしたいたずらのようなことを思いついて、抜き足差し足でそうっと背中に近づいて、いきなり肩を叩こうと両手を上げた。
「じゃあ、帰ろうか」 「えっ!」
くるり。振り返った赤司くんには、ぜんぶお見通しだったらしい。「そういうやり方で僕を驚かそうなんて一生無理だよ」なんて言って微笑んで、置いてあったカバンを肩にかける。せめて、十年早いよ、くらいにしてくれたらいいのにって思ったけれど、十年経ったって赤司くんにはかなう気がしない、というかむしろ、今よりもっとかなわなくなっているとしか思えなかった。 …十年後も、赤司くんの隣に私はいるのかな。一生無理、って言ったからには、赤司くんの一生をかけてその言葉のただしさを証明してくれる?勝手に都合のいい深読みをして、くすぐったくなってこっそりため息をついた。
目がちかちかしそうな赤と黄色の丸いシールが二割引きを主張していた。ただし、賞味期限は明日。まあ、今日使い切っちゃえばいいわけだし、と、木綿の豆腐を片手にひとり頷く。一丁だけカゴに入れて、携帯にメモしてあった買い物のリストから豆腐を消した。カゴを持ってくれている赤司くんの視線が、二割引きのシールをなぞる。
「こっちでいいの?」 「うん、使い切るから」 「そう」
赤司くんは左手にカゴを、私は右手に携帯を持ってふたりで並んで歩く。夕方と言うには少し早い時間帯だからか、スーパーに人はまばらだった。赤司くんの住むマンションから徒歩10分のところにあるこのスーパーには、マンションに来るたびにお世話になっているから、なにがどこに置いてあるかはだいたい頭に入っている。誰かに、もちろん赤司くんにも言ったことはないけど、ちょっとした私の自慢。
「あゆみの作ったご飯を食べるのは久しぶりだから楽しみだな」 「が、頑張るね」 「気負う必要なんてない。あゆみの料理の腕前が確かなのは僕が一番知ってるよ」 「…赤司くん、それわざと言ってるでしょう」 「え、なんのこと?」
とぼける赤司くんをひと睨みしたけれど、ちょうど通りかかったお菓子売り場を横目に「あ、まいう棒の新しい味出たんだ」なんて言ってするりとかわされた。負けじと、今日の支払いが赤司くんなのをいいことに、好きなお菓子をふたつ取って素早くカゴに入れる。
「あ、こら、」 「なあに?」 「…太るぞ」 「うっ」 「冗談だよ」
お菓子をきちんと入れ直しながら赤司くんが笑った。
ビニール袋がふたつ、歩くたびにがさがさ音をたてる。重いものはぜんぶ赤司くんの方の袋に入っているから、私が持っているのはお菓子とハーフカットの大根くらいだ。もっと持つよって毎回言ってたんだけど、そのたびにお断りされて今じゃすっかりこれで落ち着いている。
「あ、」 「どうかした?」 「歯ブラシ忘れちゃった」 「ああ、それなら、予備があったはずだから使っていいよ」 「ごめんね、ありがと」
おそらくはテーブルの上に置きっぱなしにしてきてしまった旅行用の歯ブラシセットに、今すぐ飛んでこい!なんて思ってみたって当然意味はなく。後悔したところでどうにかなるわけでもないから、ありがたくお言葉に甘えることにした。
「どうせなら、あゆみ用として置いておこうか」 「え、いいの?ジャマじゃない?」 「全然」
赤信号に立ち止まる。この横断歩道を渡って、ひとつ角を曲がったすぐのところにマンションはあった。盗み見た赤司くんの横顔はいつもと変わらない。そういえば、パジャマ代わりのティーシャツとスウェットもだいぶ前から置かせてもらってるんだっけ。 横断歩道の白い部分だけを踏みながら、清潔という言葉がぴったり当てはまるようなあの洗面所に、歯ブラシが二本並んでいるところを想像する。赤司くんの青と、もうひとつは何色だろう。
「いつもより歯磨き頑張っちゃおうかな」 「ふ、なんだそれ」
長い横断歩道はあっという間に渡り終わった。がさがさとビニール袋を揺らしながら角を曲がれば、背の高いマンションが私たちを見下ろしている。笑われちゃうかもしれないけど、ドアを開けたらただいまって言ってみよう。
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