夜風にあたりたくなって、携帯をショートパンツのポケットに入れて、サンダルをひっかけるようにはいて、ふらりと外に出た。頬をなでるぬるい風が髪を後ろにさらってゆく。昼間と比べれば下がった気温に、羽織るものを持ってくるべきだったかもしれないと、少しだけ後悔する。二階にある部屋まで戻るのが面倒で、結局そのまま歩き出した。
民宿から数分の場所にある砂浜に、すこし考えてから踏み込んだ。そっと歩いても、すぐに砂がサンダルに入ってきて、じゃりじゃりと足の裏で鳴る。開き直って砂を蹴り上げながらどんどん歩いていって、波打ち際まで砂浜を横切った。音もなく、打ち寄せては引いていく波が砂を黒く染める。
波がこないぎりぎりの場所に、膝を抱えるようにしゃがみ込んだ。ポケットから取り出した携帯に新しいメールも電話の着信もないことを確かめて、つい、ため息を吐いてしまう。調整のための合宿とはいえ朝からずっと練習をして、午後には誠凛と試合をして。やっぱり、私に連絡してくれるような余力なんてないのかもしれない。遊びにきているわけじゃないことも、マネージャーとしてここにいることもわかっているけれど、どうしても、仕方ないのだと割り切ることができない。部員とマネージャーとしての最低限の会話しかできていないことを思い出してしまって、さっきよりも大きなため息が口からこぼれた。
もう少しだけ歩いたら戻ろう。そう思って立ち上がったら、ぽんっと肩を叩かれた。

「っわあ!」
「おおー、ナイスリアクション」
「た、高尾くんっ!」

いつの間にか砂浜に、というか、私のすぐ後ろにまで来ていたらしい高尾くんは、ひっくり返った私の声を聞いて大げさなくらいに笑った。会えて嬉しいはずなのに、不意打ちすぎて頭がついていかない。思っていたら来てくれたなんて、もしかしたら、高尾くんはエスパーかなにかなんじゃないだろうか。それに、誰にも言わないで来たはずなのに。

「え、どうして、?」
「ん?今日ろくに話せてねーし、ちょっとくらいいちゃいちゃしたって罰は当たんないだろうと思って」
「そうじゃなくて…ていうか、い、いちゃいちゃ…」
「そ、頑張ったご褒美、ちょーだい」

そう言いながら、ぎゅっと私を抱きしめる。勢いで、おでこが胸板にぶつかった。あったかくて、いつもと同じ高尾くんの匂いがして、魔法にかかったみたいに気持ちが落ちつく。抱きしめ返す代わりに、そろそろと、高尾くんのティーシャツをつかんだ。目をつむる。満たされてゆく感覚が心地いい。これじゃ、どっちがご褒美をもらっているんだか、わからない。

「あ、そうだ」
「え?」
「湯上りなのにそんな薄着じゃ風邪引いちゃうぜ?」

ぱっと離れてしまったぬくもりを惜しむ間もなく、さっきまで高尾くんが着ていた半袖のパーカーを肩にかけられれる。ありがとう、と、言おうと口を開くのよりはやく、まばたきをひとつする間に、そのままパーカーごと体を引き寄せられた。目の前にはわずかに目を伏せて、にっこりと微笑む高尾くんの顔、が、

「ダメ!」
「あれっ」

ちゅ、と、リップノイズが落とされる。ただし、反射的にうつむいていたから唇じゃなくておでこだったけれど。やわらかい感触が残っているような気がして、思わずおでこを両手で押さえる。ぱさっと軽い音をたててパーカーが砂浜に落ちた。高尾くんはどこか楽しそうに、落ちたパーカーと真っ赤になっている私とを交互に見つめる。

「ごめんな、嫌だった?」

そんな白々しいことを、口元の笑みを隠そうともしないままに。優しいくせに、いじわるだ。高尾くんは拾ったパーカーの砂を払って、もう一度私の肩にかけ直した。そして、「オレとキス、したくない?」と、うつむく私の耳元に言葉を重ねる。どう答えても結局はいつも同じ結果になることが経験からわかっているから、素直に首を横に振った。

「でも、今はダメ」
「なんで?」
「だって、誰かに見られちゃうかも」
「こんな時間にわざわざ海に来る物好きなんていないって」
「…高尾くんはその物好きなの?」
「まあ、そういうことにしといてよ」
「ふうん?」

腕の中からするりと抜け出した。「あ、」と、高尾くんの間の抜けた声。おまけに、ぽかんと口を開けた珍しい表情も見ることができた。誤魔化されたから、私もお返し。パーカーにちゃっかり腕を通して、見せびらかすようにくるりと回ってみせた。ぶわっと、風で裾が広がる。
波打ち際に沿ってふたりでゆっくり歩いた。左手は歩くたびにふらふら揺れて、右手は高尾くんの左手の中。本当は少しくらい海に足をつけたかったけれど、ちょっとでも海の方に行こうとすれば危ないからダメだとでも言うように手を引かれた。はあい、なんて、ふてくされた子どもみたいな返事を唇の動きだけでつぶやいて、乾いた砂を踏みしめる。じゃりじゃり。サンダルはもう、砂まみれになっていた。雲の隙間から覗いた月の光が、砂浜にはっきりとした縦に長い影をふたつ描く。
ふたりともあれから一言も話さないまま歩き続けて、どちらともなく立ち止まったのは高く積まれたテトラポッドの前だった。間近に見るのは初めてで、興味本位に表面を軽く撫でてみる。見た目以上にざらついていて、ちょっとだけ指先がひりひりした。繋いだままの右手をぎゅっと握り直してみる。微かな波の音しかない静けさも、綺麗な月も、たくさんのテトラポッドも、どこか現実離れしていて、幻みたいで、隣にいる彼ももしかしたら、なんて。ねえ、と声をかけたら、高尾くんの黒い瞳が私を見つめた。

「高尾くん」
「なーに?」
「ありがと」
「…どーいたしまして」

にやりと、左の口角が上がる。高尾くんの、いつもの笑い方。今度はうつむかずに、おとなしく目を閉じた。ご褒美の、ふたつめ。
左右を逆にして手を繋いだ。あんまり遅くなったらいけないから、帰り道は私の息が上がるまで走ってみて、そのあとはまたちぐはぐの歩幅で一緒に歩いて、たくさん話して、あなたと見ると月が綺麗ですね、なんて言ってみて、それから、それから。やりたいことはきっとまだまだあったけれど、頭の中で並べ終わる前に手を引かれて走り出す。笑い声がふたりぶん響いて、夜に溶けていく。砂の音なんてもう、これっぽっちも気にならない。