燃えるような夕日がまぶたを熱く染めた。背を向けて、まぶたの裏側で瞬く星を逃すようにまばたきをして、足元から伸びるくっきりとした輪郭の影の先に目を泳がせる。向こう側はもう、薄暗い藤色の裾に濃紺をにじませていた。きっと、あっという間に夜になる。 足音に振り向けば、自転車を引いてきた七瀬くんがそこにいた。真っ赤な夕日を背負う彼の瞳は、澄んだ深海のような色をしている。赤と青のコントラスト。逆光の中にいるはずなのに、どうして、瞳だけはあんなに鮮やかなんだろう。七瀬くんがゆったりとしたまばたきをして、ようやく、吸ったままだった息を吐き出すことができた。 七瀬くんがサドルにまたがって、ペダルに片足を乗せた。無言のままに私を見つめる瞳が、早く乗れ 、と言うから素直に従う。スカートのプリーツを崩さないように押さえながら横向きに腰掛けて、右手で荷台の端をつかんだ。少し迷って、ためらって、左手は結局七瀬くんの背中にそっと触れた。ワイシャツとティーシャツ越しの体温が手のひらにじんわりと伝わってくる。どうしてか一番、緊張する瞬間。ぐ、とペダルが踏み込まれて、私と七瀬くんを乗せた自転車は滑るように走り出した。 西日から目をそらすと、自然と、七瀬くんの肩のあたりが視界に入る。橙色に照らされるワイシャツの裾から肘が覗いて、浮いた筋と、そこから続く骨へのライン。男の子だ、と、思う。意外と筋肉質だし、肩幅もきちんとあるし、人ひとりを余計に乗せた自転車だって、こうしてすいすい漕いでみせる。たとえば、広い背中に寄りかかってみたって、七瀬くんはきっと、なんともない顔をして、同じペースで自転車を漕ぎ続ける。なにかを言われることもない。だから、大丈夫。
「…………」
唇をきゅっと結んで、じいっと背中を見つめて、数秒間。けれど結局、はああ、とため息がこぼれるだけ。いやいや、やっぱり、むりだ。七瀬くんの家におじゃましたのはもう片手の指だけじゃ数えられない回数になったし、「駅まで送る」って言ってくれる七瀬くんに「ごめんね」じゃなく「ありがとう」って、言えるようには、なったのに。触れられるのには慣れたのに、自分から触れるのはばかみたいに緊張してしまう。 日が沈んで薄暗くなった中、高校がすぐそこに見えてきた。ここまでで、駅までの道のりのだいたい半分くらい。いつもここで、なんにも話さないまま来ちゃったな、なんて思うのに、ちっぽけな脳みそはほかのことで手一杯で、毎回同じ後悔を私にさせる。
「あっ」
自転車がT字路を右に曲がったら、バランスを取り損ねた体がぐらりと後ろに傾いた。荷台をつかむ右手にぐっと力を込めても足りなくて、背中に添えるだけだった左手が思わずワイシャツを握り締める。そのおかげでなんとか、落ちずにすんだ。背中に嫌な汗がにじんで、心臓も熱いくらいにどきどきと脈打つ。キイ、と音を立てて自転車が止まった。つられてぱっと左手を開いたらワイシャツにしっかりとしわが寄っていて、なんとも申し訳ない気持ちになる。振り向いた七瀬くんと、文字通り目と鼻の先の距離で視線が交わった。
「おい」 「はっ、はい!」 「…危ないからちゃんとつかまっとけ」 「うん、わかった」
勢い任せに頷く。けれど左手は宙に浮いたまま。……ちゃんと、つかまる。頭の中でそう反芻したところで、さて、どうしよう。目が泳ぐ。体ごと前を向いて腰に腕を、っていうのは、ちょっとあれだし、背中はさっきみたいになりそうだし…、あ。左手が伸びる先は、七瀬くんの肩。そっと手のひらを乗せた。すごく、耳が熱い。かすかに目を細めた七瀬くんはやっぱりなにも言わないまま、また前を向いて静かに自転車を漕ぎ始めた。 ごめんもありがとうも、声にするタイミングを失ったまま喉の奥の方にうずくまっている。飲み込むことさえできない。なにか、と会話の糸口を探してみても、ぼんやりと靄がかかったような思考は役に立たなくて、唇は無音のままぴたりと閉じた。学校でも、七瀬くん の部屋にいるときも、上手じゃなくたって話すことはできるのに。数時間前、学校から七瀬くんの家までの道を並んで歩いていた時には、水泳部の話をしていた。あの時と今とで違うこと。考えても言葉が出てこない理由。顔が、見えないから。表情が豊かというわけではないけれど、目を合わせているとなんとなく、とてもおおざっぱなくくりのことならわかる気がする。七瀬くんにとって嫌なことじゃないかとか、そういうこと。そういう意味じゃメールや電話も苦手なんだろうなあとは思う。けれど幸い、と言うのもなんだけど、七瀬くんは携帯をあまり使わないから、メールはほんの数回、どうしても必要だったときにしか送ったことがないし、電話なんてしたことがなかった。私と七瀬くんが付き合っていることを知っている子には、信じられない、なんて言われてしまったけれど。 ため息を飲み込んだ。居座った言葉は相変わらず動こうとしない。嫌われたくない気持ちが、時々呼吸の仕方さえ忘れさせる。 すっかり暗くなった空を見上げる。今日は朝からよく晴れていて、今も薄い雲がところどころにあるだけだった。ねえ、七瀬くん、星がきれいだよ。 そう言ったら、なんて返ってくるんだろう。ああ、でもなんだか、かの有名な文豪の真似をしているみたいで、ちょっとはずかしい。それに、よそ見をさせちゃあいけないし。私ひとりで、飽きもせずに夜空を、そこに散らばる星々を見つめる。もしも流れ星が駆けたなら、願うことは決まっているのに。 橋を渡って、大通りを左に折れて。そうしたら駅はもうすぐそこのところにある。七瀬くんの家から駅までの、長くて短い15分間が終わってしまった。とん、と荷台から降りて、肩から手を離す。
「送ってくれてありがとう」
ほら、顔が見えていれば、こんなに簡単。唇だって自然と笑ってる。そのうち、もっと七瀬くんのことがわかるようになったら、背中越しでも緊張しないで話せるようになって、二人乗りでごちゃごちゃ悩んだりすることもなくなるんだろう。
「なあ」
来た道を帰っていく七瀬くんの後ろ姿を見送って、私も数分も経たずにやってくる電車に乗って帰る。今まで毎回そうだったから、七瀬くんがスタンドを蹴って自転車を止めたのに少なからず驚いて、なあに?と聞き返すのが一拍遅れた。
「送ってくの、迷惑か?」 「…えっ?」 「ほとんど話さないし、本当は嫌なんじゃないのか?」 「ちっ、違う!!」
七瀬くんの目がわずかに見開かれる。思ったより大きな声で、語尾にかぶるくらいに食い気味に言ったことに自分でも動揺して、かあ、と頬に熱が集まるのを感じた。「……違うよ、」トーンを下げて続けた声はみっともなく震えている。
「緊張してるだけだから、嫌とか、全然そんなんじゃないよ」 「どうしてそんなに緊張するんだよ」 「えっ、……あー、それは、」
視線も言葉もまっすぐだった。曖昧に取り繕ったってダメなんだと思い知らされる。戸惑う私を見かねた七瀬くんが口を開く。声を遮るように、電車の音が近づいてきた。私が乗る電車だ。――良かった、と、思ってしまった。無意識のうちに安堵からくるため息がこぼれていて、はっと気づいて口をつぐんでも遅かった。左の手首をつかまれる。七瀬くんの瞳に、顔に、はっきりと感情が浮かんでいた。
「話の途中だ」
キイイ、と電車のブレーキ音が響いた。つかまれた手首がどくどくと脈打つ。次の電車はいつなんだろう。いつもこの電車に間に合うようにしていたから、ちっともわかんないなあ、と、どこか頭の隅のところで考えていた。 電車が行ってしまうと、手首がするりと楽になった。それなりの力でつかまれていたみたいで、指の感触がまだ肌に残っている。右手でそっと触れてみたら、今度はその手をやわらかく手のひらに乗せられた。私と同じくらいの、ぬるい温度。指先に視線を落とした。手を引かれるままに駅に入って、ひとつきりのベンチに並んで座る。もともと人の少ないのもあって、私たち以外誰もいなかった。
「七瀬くん」
つないだままになっている手のぬくもりは、くすぐったくてあたたかい。
「怒らないで、聞いてほしいんだけど」
臆病な前置きは、内容による、と、もっともな言葉にあっさり砕かれてしまった。…横顔を盗み見る。 七瀬くんって、あんまり喋らないから、顔を見て話してないと、嫌なこと思わせてないかなって、不安になるの。なんでも話せなんて無茶なことが言いたいんじゃないんだけど。私のせいでなにか思っても、言ってくれないんじゃないかなって。だから背中しか見えないと、なにを話したらいいのかわからなくなって、電話もメールも、失敗しそうでこわい。七瀬くんのことがもっと知りたい。ねえ、七瀬くん、
「呆れた?」 「…いや、でも」 「うん」 「ちょっとめんどくさいと思った」 「うっ、あの、うん、ごめん…」 「嫌なわけじゃない」
ぎゅ、と、手を握り締められた。かんたんに、喉の奥につまったままだった言葉が溶けていく。ありがとう、に返ってきたのは、まっすぐな視線だけだったけれど、それで充分だった。まばたきを惜しむ。青い瞳が、月明かりの中でゆらりと光った気がした。
「もし嫌だったらはっきり言えばいいんだろ」 「う、うん…うーん……それはそれで傷つくというか…」 「なんだそれ、やっぱりめんどくさいな」
内容に似合わない、とてもやさしい声。口元の微笑み。今度は私が目を見開く番だった。――七瀬くん、笑ってる。今まで見てきたなかで、とびきりだ。そのまま、目に焼きつけて、大切にしまい込んだ。
ひとさじの海
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