事務室のすぐ隣の会議室の棚の左上のスペースにはお菓子が常備されている。品揃えはよく言えば幅広く、身も蓋もない言い方をするなら寄せ集めのようにしか見えない。というか事実、寄せ集めのようなもので、スーパーに行けば百円もしないポテトチップスの袋の下から老舗の和菓子屋の包装が覗いていたりする。
そして、棚のお菓子を切らさないように確認して、時にはコンビニやスーパーで買ってきて補充しておくことが、ここで働き始めて間もないわたしの仕事のひとつであり、悲しいことに、書類の処理よりもなによりも最優先にするべきことらしかった。


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ガララ、とお菓子の棚を開けて覗き込んで、平べったくて大きい包みを取り出した。瑛一さんがレギュラーで出ている番組から頂いた、有名な洋菓子店のクッキーの詰め合わせ。わたしもこっそり狙っていたから、食べられちゃってなくて良かった、なんて。

「ナギくん、クッキーでいい?」
「うん、いいよー」

ソファーに座って紅茶をすすっているナギくんに形だけの確認を取って、対になっているソファーにわたしも座る。もともとあまり使われていなかったこの会議室は、給湯室が向かいにあるのもあって、今ではすっかり休憩室のような場所になっている。使っているのはもっぱら、ナギくんとわたしなんだけれど。
思えば、わたしが自分で食べようと棚にしまっておいたお菓子をナギくんが気に入ったのがきっかけで、わたしはお菓子係(ナギくん命名)になったのだ。曰わく、わたしの選ぶお菓子にははずれがないらしい。わたしにしか出来ない、と言えば聞こえはいいものの、実際は買ってきたお菓子をナギくんと一緒に食べて、お喋りをしているだけのような気がしなくもない。最初は落ち着かなかったミーハー心も、今ではすっかり落ち着いている。今をときめくアイドル、というより、ちょっと生意気なかわいい男の子、というのがナギくんに対する正直なところ。
きれいに並んだ白い歯が、四角いクッキーをかじった。

「ねえ、名前ってさあ、僕たちの中で誰の声がいちばん好き?」
「HE★VENSの中でって意味?」
「うん、そう」

灰色の瞳がにっこり笑う。この笑い方は、ファンサービス用の。そこらの女の子よりよっぽどかわいらしい笑顔はナギくんの最大の武器だ。どのクッキーを食べるか悩んでいた指先をいったん引っ込めて、ふむ、と考えてみる。

「綺羅くん、かなあ。わたし低音に弱いんだよねえ」
「えー、事務所の人間がメンバーに対して不平等なのってどーなの?」
「ナギくんが訊いてきたんじゃない」

笑って、楕円形のクッキーをつまんでかじった。さすが有名なだけあって、甘さも舌触りも上品なかんじがする。横に裏返してあった蓋を手に取って、真ん中に流れるような書体で描かれているお店の名前を眺めた。

「そっかあ、綺羅ねえ」
「なあに、にやにやしちゃって」
「…宇宙レベルでキュートな僕の笑顔に対してすっごく失礼なのは置いといたげる」
「それはどうも」
「でさ、綺羅のどこがいいわけ?」
「え?」
「僕を差し置いて綺羅を選んだんだから、単なる好み以外の理由もあるんだよね?」

ずいっと身を乗り出すナギくんの瞳が興味津々だといわんばかりにかがやいている。と同時に、話さなきゃいけないと思わせるような威圧感。たぶん、いや、ぜったい、にやにやしてるって言われたことを根に持ってる。だって目が笑ってない。
そうだねえ、とクッキーを選ぶふりをしながら目を逸らして、一昨日会ったきりの綺羅くんの姿を思い浮かべてみた。すらりとした長身に、真っ黒な髪と、光があたると金にも見える薄い茶色の瞳。しなやかな黒い獣を連想したくなるような容姿だけれど、それ以上に理性的なイメージが強いのは、彼が感情的になっているところを見たことがないことも理由のひとつ。もともと無口な綺羅くんはファンの前でもそのスタンスを貫いていて、彼が自ら口を開くことがあればそれだけで女の子たちの黄色い悲鳴が聞こえる。わたしたちだって、あいづち以外で綺羅くんの声を聞くことはほとんどない。
唯一の例外は歌で、普段の言葉少なさが嘘みたいに伸びやかな声を存分に響かせて、聞くひとたちみんなを魅了するのだ。

「やっぱり、普段とのギャップかな。素敵な声なんだからもっと喋って欲しい気はするけど、無口なぶん歌ったときに映えるのかも」
「へーえ?」
「あ、そうそう、綺羅くんに耳元で囁かれたいって言ってた子がいたんだけどね、それもわかる気がするし」
「女の子ってホントそーゆーの好きだよねー。ねっ、綺羅?」
「…えっ?!」

わたしを通り越した先を見ている視線はふりなのかと一瞬考えたけれど、すぐに打ち砕かれた。本当に、ドアの前には綺羅くんが立っていて、一昨日見かけたときと変わらない感情の読めない表情を浮かべてわたしたちを眺めている。いったい、いつから。
え、あれ、これは、聞かれてた、の?だとしたら、どこから?

「ど、どうしたの、綺羅くん」
「…ふたりがここだと、聞いたから」
「そっかー。あ、良かったらクッキー食べてって?わたしお茶淹れてくるね!」
「僕にもおかわりちょーだい」
「はいはい!」

ナギくんのカップを引ったくるように受け取って、余計なことは言わないでねと小声で念を押す。返ってきた笑顔に正直いい予感はしないものの、これ以上は逆にボロを出してしまいそうだったからぐっとこらえた。
すぐ向かいの給湯室に駆け込んだら、思わずため息。綺羅くんから尋ねることはまずないだろうから、心配なのはにこにこと楽しそうに笑っていたナギくんがぺらぺら喋ってしまわないかということだった。


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「お待たせ〜…」
「おっそーい!」

むっと口をへの字に曲げて足をぶらぶらさせているナギくんはかわいかったけれど、かわいさ余ってなんとやら、という言葉がふとよぎる。もちろん言わないけど。
綺羅くんはナギくんの向かい、つまりわたしの隣に座っていた。カップも置いてあるし、わざわざ移動するのもおかしいからそのままもとの場所に座る。二人掛けとはいってもゆったりとしたサイズだから、近すぎることもない。

「綺羅くんは雑誌の撮影だったんだよね?お疲れさま」
「…ああ」

カップを前に置いたら、綺羅くんは無言で会釈をしてからカップに手を伸ばした。ナギくんは甘いものを食べるときでも砂糖もミルクも入れるけれど、綺羅くんはそこまで甘党ではないらしく、ストレートのまま。気分によって変わるのかもしれないけれど、一応、覚えておこう。
テーブルを囲むのが三人に増えたところで話しているのはやっぱりナギくんとわたしの二人で、綺羅くんは、こう言ったらなんだけど、ぼーっとしているようにしか見えない。帰ら、ないのかなあ。このあと仕事は入ってなかったはずだけど…、と綺羅くんのスケジュールを思い返してみる。なにか用事があって、それまで時間をつぶしているのかもしれないけれど。

「ねえ名前」
「ん?」
「綺羅が言いたいことあるんだって」
「え?あっ、もしかして、撮影でなにかあった?」

新人のわたしが直接どうこうできるわけじゃないけれど、代わりに先輩に話を伝えておくことくらいはできる。体ごと綺羅くんの方を向くと、目が合った。自分に話が振られても、表情がほとんど動かないんだなあ、と、ついまじまじと見つめてしまう。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………?」
「…………」
「…………??」

……これは、もしかして、わたしからなにか言うべき、なのかな。ちらりと目だけでナギくんを窺ってみてもにこにこ笑いながらわたしたちを見ているだけで、助け舟を出してくれるつもりはちっともないらしい。普段はことあるごとに綺羅くんに同意を求めてるくせに、薄情者め。
とりあえず会話の糸口をつかもうと口を開いた、ら、綺羅くんが、近かった。さすがは人気アイドル、これだけ近くで見ても非がない、なんて、どうでもいいことをどこかで考える。あ、まつげも長い。のんきな頭が状況を理解しようとするより早く体が後ずさろうとしたけれど、腕をやんわりとつかまれてしまった。うごけない。目の前に映るのはワイシャツの襟と、そこで鈍くひかる金色のうさぎ。ほんとう、近いん、だけど、

「……名前」
「ひっ」

耳、くすぐったい。
そこから熱が広がるみたいだった。びくんと跳ねた肩がこわばって戻らない。今のは、いったい、え?言いたいことって、これ?ぐるぐるから回る。耳に息がかかった感触が残っている気がして、思わず手で覆った。わたしの耳元に顔を寄せていた綺羅くんは、表情にわずかな困惑をにじませてわたしを見下ろしていた。いやいや、綺羅くんがしたことでしょう?
混乱するばかりの思考を断ち切ったのは、ナギくんの笑い声だった。

「あはは!名前の顔真っ赤!」
「えっ」
「綺羅に耳元で囁かれたいって言ってたから、僕が頼んであげたんだよー?」
「い、言ったけど!言ってない!」
「…………」
「あああごめんね!綺羅くんは悪くないから!」
「なーにそれ。僕が悪いとでも?」
「じゃなきゃなんなの!もう!」
「耳まで真っ赤だよー、ぷぷ」
「わああああ」

もうやだ帰りたい。でもまだ仕事があるから帰れない。悪くないから、とは言ったものの、ナギくんの冗談を真に受ける綺羅くんもどうなんだろう…。だめだ、思い出すと耳が落ち着かない。
用事は済んだとばかりに帰った綺羅くんと、「あー、おもしろかった!」、と言い残して次の仕事に向かったナギくんを見送って、ひとりソファーに沈む。ナギくんにはちょくちょくからかわれてきたけれど、今日のは今まででいちばんかもしれない。次はないだけ、ましなんだけど。はあああ、と、幸せが逃げきってしまいそうなくらいのため息がこぼれた。


チューリップ革命


後日ナギくんから一部始終をおさめた画像を見せられて青ざめたのはまた別の話である。