※黒子が吸血鬼、いかがわしい





海の中みたいだと思った。月明かりを背負う中でぎらりと輝く黒子くんの瞳も、彼の荒い呼吸だけが弱々しく空気を揺らす静かな部屋も、ほんのりとくすんだ水色に染まっている。ゆらゆらと視線を泳がせて、部屋をぐるりと見回してから、私に覆い被さって見下ろす瞳を見つめ返した。こんなにぎらぎらしているくせに、雄弁なのはその瞳だけ。
水面を探す手のひらで、黒子くんの頬に触れた。

「つめたいね」

言葉だけを海に置き去りにして、酸素を肺いっぱいに取り込んだ。私は、海では生きていられない。




ぱしんと掴まれた手首が、白いシーツの波に沈められる。一瞬、顔をしかめてしまうくらいの力が入っていたけれど、すぐに、ゆるく握る程度になった。

「すみません、」

海で上手に息をすることができない黒子くんは、相変わらずひどい顔色をしていた。続くはずの言葉は音にならないまま、ぼたぼたと唇の隙間から落ちていく。私の手首から離れた手が、彼の口元を覆った。
普段よりさらに青白い顔のままくるしそうに息を荒げる黒子くんが死んでしまいそうな気がして、そして、そんな彼をすくうのが私であるのだと思うと、からっぽだった部分が満たされたような気持ちになった。
自由になった両腕を首と背中に回して、優しく抱き寄せる。首筋にかかる吐息はあついのに、身体は頬と同じくらいにつめたい。

「……は、」

掠れた短い声、に、一拍遅れて、皮膚の破られる音が耳朶をうつ。黒子くんの隠し持つするどい牙が私に荒々しく、けれど優しく食いついた。目をつむる。
人魚姫は王子様を抱えて岸まで泳いだけれど、ただの人間でしかない私には、ほんの少しの酸素を渡してあげることしかできない。
びく、と跳ねてしまった手に、黒子くんが意識を向けたのがわかったから、大丈夫と言葉にする代わりに抱きしめる腕に力をこめた。
ぐっ、とより深く牙が食い込む。痛覚だけが遮断される不可思議な感覚にはもう慣れたけれど、肌に埋まっていく硬い感触にはいまだに慣れることができないまま、そこから血液以外のなにかも一緒に流れ出るような喪失感がじわりじわりと広がっていく。それでも、そのなにかが黒子くんの一部になるのだと思えば、なくしたものがどんなものであろうと、構わなかった。

「っ…」

牙が抜けていくとき、どうしても、背骨が震えるような心地がして、そのたびに奥歯を噛みしめてさの感覚をやり過ごして、なんでもない風を装った。
抱きしめていた腕をほどいてシーツに下ろせば、濡れた赤い牙を口の端から覗かせた黒子くんと目が合う。

「は、あ」

ぎらぎらは鳴りを潜めて、顔色も心なしか良くなった。とは言っても、空腹の獣が餌を目の前にしたも同然の状況にいるくせに、黒子くんは強靭とも呼べる理性でそれをねじ伏せて、じっと私を見つめる。最初のときにそうだったように、私が少しでも怖がったりしてみせたら、おしまいにするつもりなんだと思う。静かに深呼吸をしながら見つめ返すとき、私は笑っていたような気がした。
長かったような、もしかしたら数秒にも満たないような。ふっと視線を逸らして、ゆっくりとまばたきをした黒子くんが親指で血を拭って、赤い舌でぺろりと舐めとった。そのまま、噛み痕を覆うように、湿った唇が押し当てられる。肌を撫でるだけの牙も、血を舐めるためにうねる舌も、くすぐったくて、どこか後ろめたくて。ほとんど波立っていなかったシーツをそっと握りしめて、水面を揺らす。




はたして黒子くんの欲求が充分に満たされているのかはわからないけれど、最初に噛みつかれたときにできる傷をかさぶたが覆う頃には、吸血行為が終わる。黒子くんが上手なのか、それともそういうものなのか、文字通り一滴残らず飲み干して、肌に血は残さない。耳たぶに血が跳ねていたのか、最後に柔らかく唇で食んでから、黒子くんは身体を起こした。

「…大丈夫ですか?」
「うん、平気だよ」

指先でかさぶたのそばをなぞってみせたら、不意に走った小さな痛みに、昨日紙で切ってしまったか細い傷がいまだに指先に残っていることを思い出した。一方で、あれだけ血が流れても朝にはかさぶたもきれいに取れて薄皮が張っているのだから、噛みつかれても痛みを感じないことも、傷が治るのがはやいことも、やっぱり、私の身体の変化というわけじゃなく、黒子くんの特殊なちからのおかげでしかないというわけで。
黒子くんが私のとくべつであるように、私も彼のとくべつに、なれたらいいのに。
どさりと、黒子くんの身体が私のすぐ隣に横たわった。肩も足も触れ合う距離。シングルにふたりで並ぶのは少し窮屈だけれど、さみしさが入り込む隙間がないのはいいことだと思う。瞼を下ろしたまま、呼吸だけを淡々と繰り返す横顔をじっと見つめる。今、黒子くんの肺を膨らませて、命を巡らせているのは、私の一部だったものだ。

「そんなに見つめられると恥ずかしいです」
「黒子くんがきれいだから、つい」
「ボクは男ですよ」
「もちろん、わかってるよ」

目を細めて、密やかに笑う。ぬるい空気の中に伸ばした手のひらが、温かい頬に触れた。


きらきらのアクリルに閉じ込めて