ひしめく本を収めて整然の並ぶ本棚。本棚の何倍も高さのある天井。天井と床とのちょうど中間のあたりにある窓。窓から差し込む青白い月明かりと、手元のランタンの橙色の灯り。湿り気のあるどこかこもったようなにおい。昔は武器庫だったのを中身だけ入れ替えて書庫としているこの場所は、無骨な外観とは裏腹に今日も密やかに息づいている。
ページを捲るたびに微かに紙の擦れる音がする。静謐な空間は、日常から綺麗に切り取られた別の世界のようだった。
端が薄茶に変色した古ぼけた本から、知らなかったことをひとつずつ拾っていくのは楽しかった。あいにく、内容は「様々な状況下における巨人への対処法」だなんていうとてもつまらないものだったけれど。
コツン、コツン、と、規則正しい足音が近づいてくる。本棚の影から姿を現したのはジャンだった。今日はどんな本を選んだんだろう、と視線を手元に滑らせる前に、違和感に気づく。横顔が月明かりに照らされた。ワイシャツの上に暖かそうなセーターを着ているジャンの頬が赤く腫れている。言いかけた言葉を飲み込んだ。代わりにはあ、とわざとらしくため息をついて、隣の椅子を少し引く。

「またエレンと喧嘩したの?」
「…アイツが悪い」
「別にそういう話じゃないんだけど」
「…………」

無言のまま、わたしが引いた椅子に座る。これ以上話すつもりはないのか、すでに目線も意識も本に向けられていた。なんとなく、いつもと様子が違う気がしたけれど、恋人どころか友人と呼べるかも危うい、ただの同期がなにを考えているのか興味はあってもわざわざ聞く気にはならなかった。
こうして二人で書庫で過ごすようになったのはいつからだったのかあまり覚えていない。晴れた日だった気もするし、一日中厚い雲に覆われていた日だった気もする。と言ってもそれはここ数ヶ月の話で覚えていてもおかしくはない。けれど状況としては二人でいるものの本の内容について熱い議論を交わすなんてことはまるでないし、それどころかわたしたちは最初と最後にほんの少し話す程度の仲だった。つまりジャンがここに来る前後で変わったことなんて特になくて、印象も薄かったんだろう。
ページを捲る。「巨人との戦闘が避けられない場合、」文章を目でなぞって、頭の中で組み立てていく。単独だったら、仲間がいたら、または――どんな状況にせよ、最善の結果に行き着くための最善の方法。たとえこれが机上の空論じゃないとして、自ら壁外に出るつもりなんてさらさらないわたしの興味は引かれない。座学が多少出来てもそれ以外はすべて凡庸の一言で済む成績じゃ、上位を狙おうなんて無謀なことも思わない。

「なあ」
「…なに?」
「おまえ、確か駐屯兵団に入るつもりなんだったよな」

まるで、見透かしたようなタイミング。
思わず顔を上げる。横顔は相変わらず本を見て、けれどどこか遠くを見つめているようで。よく見てみると、頬の腫れは引いてきているものの、唇の端が切れていた。痛そうだな、なんてぼんやり思う。
訓練兵の中で知らない人がいないくらい、ジャンとエレンは仲が悪い。エレンになにか言うか言われるかして、喧嘩になった挙げ句に手も出して。出会った当初からそうだと聞いているけれど、三年目になっても相変わらずというのは逆にすごい気さえしてくる。
今回の喧嘩のきっかけは、言うまでもない。

「……急になに?」
「いや、その」

力のある者はその力を存分に生かすべきだというエレンの意見は至極真っ当であって、だからこそ目を背けたくなる。そんなものは綺麗事だと吐き捨ててしまいたくなる。なにも出来なくたって構わないから、何事もなく過ごしたいし安全な場所にいたい。そういう意味では、わたしとジャンは似ている。
たっぷり時間を置いてから、やっぱりなんでもない、とジャンは言った。

「どうしたの?わたしは駐屯兵団、ジャンは憲兵団、でしょ?」
「俺は…」

静まり返っているのに、聞きそびれてしまいそうなほどに小さな声。言葉を濁すジャンにならって本に視線を落としてみても、内容はちっとも頭に入ってこなかった。
わたしたちは似ているけれど、根本的に違っていた。生きるための強かさ。ジャンのように臆することなく言うことなんて、わたしには到底できそうにはない。

「……俺は、憲兵団に入って内地へ行く」
「知ってる、もう聞き飽きたよ」

息をのむ音がした。突き刺さるような視線には、本を読むのに没頭していて気がつかなかったことにする。ガタッと椅子が鳴って、拍子に手元のランタンも小さく音を立てた。

「部屋に戻る」

おまえもほどほどにな、なんてらしくないことを言い残して、ジャンはわたしに背を向けた。コツコツと足音が遠ざかっていく。すぐに後ろ姿は見えなくなって、棚を隔てた先で、扉の開閉する音がした。
まるで自分に言い聞かせているようだった。聞き飽きたはずの言葉がぜんぶ異質で、耳障りで。思い返すだけで息が詰まりそうになる。ジャンはこれからも、ふらりとここを訪れるだろう。これが最後だった、なんてことにはならない。それでも、今日のことはなにひとつ忘れられないままで過ごしていくのだという確信めいたものがあった。きっとわたしは、ひとり置いて行かれてしまう。