text | ナノ




「…怒ってる?」
「別に」

絶対怒っている。
いつも昼休みは若くんのお気に入りの場所である、屋上へ続く階段で待ち合わせて他愛のない話をするのが日課。今日も急いでお弁当を食べ、いつもの階段に向かうといつもと同じようにわたしよりも早く若くんはそこにいた。大体文庫本を片手に待っている若くんなのに、珍しく文庫本はなくて、ぼんやりとどこかを見つめていた。声を掛けると、明らかに機嫌の悪い声で「遅いです」と返されてしまった。


「うそだ、絶対怒ってるじゃん」
「怒ってないです」
「…わたし何かした?」
「別に何も。というか怒ってないですから」


そんなことを言われてしまったらしつこく聞く方が迷惑で、怒らせてしまうような気がしてこれ以上は何も聞けなかった。若くんは口数が多いほうではないので、多少の沈黙は当たり前だからいつもは気になることもないのに、今日は少しでも沈黙を作るのが怖くてどうでもいいこともたくさん話した。だけど若くんの表情は全く崩れることはなく、無情にも昼休みは終わってしまう。


「…じゃあ、若くん。部活でね」
「…はい。今日は委員会とか、ないんですか」
「あ、うん。今日はないから…最初から部活に行くよ」
「…」
「…どうしたの?」
「いえ、何でも。じゃあまた後で」
「うん…?」


…なんか、部活にも来てほしくないような雰囲気だったような気がする。
若くんが怒っていないと言っていたのだから、それを信じたほうがいいのだと思う。だけど彼はあまり気持ちを表に出すタイプじゃないから、何か思うところがあって嘘をついているのかもしれない。もしわたしが何かしでかしていて、それで若くんが我慢していたらどうしよう。考え出すとどんどん不安になってきてしまって、午後の授業もまったく集中できず、あっという間に部活の時間を迎えてしまった。


「みょうじ、ドリンクー!」
「あ、向日くん…はいドリンク」
「サンキュ!ていうかどうしたんだよ、明らかに元気ねーじゃん」
「え、あ、ごめん!(顔に出してしまった…)」
「別にいーけどよ。話ぐらい聞いてやるから無理すんなよー!」


向日くんはドリンクを一気に飲み干すと、元気にとび跳ねながら練習に戻っていく。明らかに元気がないと言われ、はじめて表情に出してしまっていたことに気付いた。部員を支えるのがマネージャーなのに、逆に気を遣わせてしまうなんてマネージャーとしてどうなんだろう…。


「岳人の言う通りやんな、みょうじがそないな顔すんの珍しい」


向日くんと入れ替わりにやってきた忍足くんがベンチに腰掛けながら言う。ドリンクを差し出すと、自分の隣をポンとたたいてわたしも座るように促してくれた。

「向日くんにも忍足くんにも気を遣わせちゃったよね、ごめん…」
「まあ、人間やしそんな時もあるやろ。何かあったん?」
「…うん、あのね、」


「先輩。今いいですか」


目の前に影ができて、人が立っている気配に下を向いていた視線を上げると、そこにいたのは若くんだった。どこか不機嫌な表情は昼間見たものとまったく変わっていなくて、瞬時に体が縮こまる。若くんに腕を引かれた勢いでつま先をひっかけながら、軽く駆け足するようなかたちになってしまい、忍足くんに断りも入れないまま若くんについていく。コートを出て、部室のなかへ迷わず進んでいく若くんは何も言わない。部室のドアを閉めるとわたしの腕はようやく解放された。「すみません、無理やり」と謝る声にうまく反応できなくて、「あ、う」と何が言いたいのかよくわからない返事になってしまい、恥ずかしい。若くんは大きくため息をひとつ吐くと、わたしのほっぺたを両手でぐっと挟んで目が合うように上に向けた。


「…先輩、俺怒ってないって言いましたけど、怒ってます」
「わ、わかしくん、顔べたついてるから、は、離してほし…」
「先輩ってどうして隙だらけなんですか」
「え」
「距離が近いんですよ。…忍足さんとか」
「え、ええ?」
「先輩に近づくのも触るのも…先輩のこと、特別だって想うのは俺だけでいい」


ようやくほっぺたを挟んでいる手を離してくれたと思ったら、若くんはそのまま腕で顔を隠してしまった。顔の隠し切れていない部分が真っ赤になっているのが見えて、自分の顔も真っ赤に染まっていくのがわかる。胸がきゅっと締め付けられて、若くんが好き、いとしいという気持ちがどんどん膨らんできて苦しい。どうしても我慢できなくて、若くんに抱きつくと、いつもどおりを装ったみたいな声で「いきなりなんですか」とそっけない返事をしながら、わたしの背中に腕が回る。


「機嫌が悪かったのも、部活に来てほしくないような態度をとったのも、全部ヤキモチだったの?」
「…悪いですか」
「悪いよ、すごい不安になった…」
「ちょっ…泣かないでくださいよ!…先輩を不安にさせてしまったことは、謝ります。すみません」
「うん、もういい。若くんが妬いてくれたの、嬉しいからもういい」


さっきみたいに、ほっぺたを挟むんじゃなくてやさしく掌で上を向かせてくれた若くんと、ぎこちなく唇が合わさった。いつもは1回で終わるのに、何度も合わさる唇がとても恥ずかしい。


「先輩が好きだから、こんなに余裕がなくなる…」


熱っぽい若くんの視線に、体がもっと熱くなる。
そんな顔をするのは、わたしの前だけじゃないといやだと、誰に対するでもない嫉妬をした。



ひそやかな鼓動


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