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いい加減集中力が切れてきた。テキストに並んだ数字や記号を見ていると頭がぐらぐらしてくる。というか、霞んでみえる。眠い。しかしこれは明日提出の宿題であるためどうしても今日中に終わらせなければならないのだ。今はまだ夕方だけど、せっかくの休日なのにもかかわらず朝早くから始めたのにまだ半分も片付けていない。応用問題とかいって、今後生きていくにあたってこんな図形の面積求めることを必要とされるときなんて今だけに決まっている。

ゴンッ

「痛っ」

頭をあげてられないぐらいの睡魔が襲ってきて机に額を打った。痛いんだけどなんとなく痛みがとおいような感じ。眠気はピークに達している。限界、頭が働かない、これは一度寝たほうが…きっと…効率が…
そのとき携帯からけたたましい音で着うたが鳴り響いて、半分寝ていたため驚いて肩がびくりと反応する。のろのろとした動きでベッドに放り投げてあった携帯を開くと、新着メールが一件。謙也からだった。


【 数学終わったん? 】


いままさに眠気に負けそうになっていて数学死ねと思って瞬間にこのメール。謙也はどこからわたしを見ていたんじゃないのかというぐらいタイミングが良い。


【 むりや 】


返信後十秒しないうちに返事が返ってくる。さすがスピードスターやな。とお決まりの突っ込みを入れてみる。


【 いつものとこ集合な 教えたる 】


いつものとことは近所の河原にある公園だ。公園といっても子供が遊ぶような遊具はなく、ただベンチが置かれているだけという簡素なもので、人はいつもあまりいない場所だった。わたしと謙也はよくここでくだらない話をしたり意味もなく集まったりしていて、いつのまにか「いつものとこ」で伝わるぐらいお馴染みの場所となっていた。


「よう」
「数学に呪いかけよ思てたときやってん。ありがと」
「呪いて…何を物騒なこと…まあなまえ絶対できてへんやろなと思っててん。俺やさしいやろ」
「やさしいなあ菩薩に見えるわあ〜」
「目を見て言え目を」


数学のノートを丸めて頭を謙也にぽかりと叩かれた。いまこの瞬間に脳細胞死滅したやんというと、大した脳細胞ないくせにとむかつくことを言われた。いつものなら倍返しにして言い返すけど今回は数学の宿題がかかっている。なので黙る。我ながら正しい選択だと思う。せやけど覚えとけよ謙也の奴…


「ほんでどこがわからんかったん?」
「ええと、図形のやつ」
「ああ、あれな」


わたしが教科書を出すとぺらぺらと問題の載っているページをめくり、こちらに教科書を向けて図形を指差す。


「まず、図のここに直線引いて」
「うん」
「そうすると2つ形できるやろ」
「うん」
「でもこれやとまだ公式使えへんやん。ここまでわかるか?」
「なんとか」
「せやからこっちにまた線足すねん」
「なるほどなあ、そないな発想わたしにはない」
「これでやってみ」
「オッケー」
「図形問題は線引いたらなんとかなんねん」
「どこに引いたらええんかがわからんねんもん」


ほとんど書き込まれていないわたしの教科書に謙也の書き込みが書き足される。すらすらと書く様子はくやしいけれど頭よさげであった。数学が得意な謙也はこうして苦手なわたしにしょっちゅう教えてくれる。だからわたしの教科書は謙也の筆跡だらけでまるで謙也のものみたくなっていた。


「なんでこんなんせなあかんのやろ」
「受験生やからな」
「数学でわたしの人間性がわかってたまるかっちゅーねん」
「べつに数学だけで判断するわけちゃうやん」
「ああ受験めんどい…ああ…」
「高校受験なんて楽らしいで。大学受験の比にならんらしい」
「そんなんそのときやし」
「まあなあ」


謙也は部活動の成績が校内一すばらしいテニス部に所属していたために、推薦入試でもうすでに県内の勉強もスポーツも有名な私立高校に進学することが決まっていた。ちなみに白石くんも同じとこらしい。テニス部さすがや。
謙也はもう勉強せんでええから楽やなと思った。けれどもそれは謙也が三年間頑張ったからこその結果なわけであって、楽やなとは言えなかった。謙也は頑張ったから今休憩。わたしは何もしてなかったから今頑張るとき。


「…やっぱ、受験勉強辛いやんな」
「元が勉強嫌いやから拷問やわ」
「拷問…」
「まあ今頑張るときなんやしやらなあかんねんけど」
「お、俺数学教えたるし!」
「それめっちゃ助かるわ」


あれだけ解けなくて悩みに悩んだ問題があっさり解けた。数学は大嫌いだけど、問題が解けたときの爽快感はなかなか気持ちいいもんだなと思う。それからここで終わらしてしまえという謙也の言葉に甘えて黙々と宿題をやりすすめた。その間謙也は携帯を弄りながら、ときどき問題の要点を教えてくれたりした。わたしが1人でやるより何倍もはやいペースで宿題は消化されていった。


「お 終わった…」
「おう、ようやったなお疲れさん」
「ほんま謙也のおかげやで〜」
「俺何もしてへんで、なまえが頑張ったからや」


そう言ってニッと笑った謙也がわたしの頭をぐしゃりと撫でる。わたしもニッと笑った。


「……俺な」


頭を撫でる手が突然止まり、謙也がじっとわたしの目を見つめる。妙に真剣な面持ちの謙也。なんなんやろ。しばらく謙也は何も言わず、わたしも何も言えず、ただ目がずっと合わさっていた。


「……」
「……」
「…あーやばい何やこの緊張」
「一体何言おうとしとんの」


ぱっと目を逸らし、下を向いた謙也はあーでもないこーでもないとひとり考えを巡らしているようだった。謙也はすぐ態度に出る。何を考えているかここまでわかりやすい人間はわたしの周りでは謙也くらいだなと思う。
ぼんやりそんなことを考えていたらいきなり頭をあげた謙也にガッと肩を掴まれた。


「え、ちょ、なに」
「俺!なまえのこと好きやねんずーっと前からめっちゃ好きやって、そんで、高校行っても一緒におりたいねんせやから!………お、俺とおんなじとこ受けてください」


あまりにも早口でまくしたてたことにまず驚き、発言にも驚いて何も言えなかった。でもなんか言わなあかんと思って出てきた言葉はしょうもないことで


「……ま、またえらい…早口…」
「そこなんかい…」
「あ、いや、ごめん、おもわず…びっくりして…」


気付けば謙也の顔は真っ赤に染まっていた。夕焼けのせいもあるだろうけど、それだけじゃないことははっきりわかる。


「なんてゆったらいいんかわからんけども……その…わたしも、おんなじとこ行きたい、から、数学教えてください」


謙也とは今までずっとめっちゃたくさん話してきたのに、こんなに緊張したのも体温が上がったのも初めてで何だか変な気持ちだった。友達だとずっと思っていたけど、なんかいつのまにか、そんなんじゃなくなっていたみたいだ。上がる体温とばくばくうるさい心臓の音がすべてを物語っている。今まで気付かなかったなんてわたしはいつからこんなに鈍感になってしまったんだろう。


「す、数学なんいくらでも教えたるから」
「お願いします」
「…なまえなんで敬語やねん」
「…そっちこそなんでやねん」


緊張していた表情を緩めて笑う謙也がまたわたしの髪をぐしゃりと掴んだ。この動作がすごく好きだといまこの瞬間に気付いた。


「いまめっちゃ謙也のこと好きやなと思った」
「……あほ、そんなん俺毎日思ってたっちゅー話や」


きらきらと眩しい金髪が近づいて、眩しくて目を閉じる。やさしくくちづけられたのは、そのすぐ後だった。


きらめきは死なない


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