寒く凍える夜を一声で春に変えた事を、お前は知らないのだろう。

俺は直接その瞬間に立ち会った訳ではない。蓮華から聞いた話だ。
ぶわりと歌が止まらない。聞き慣れた自分のものとは違う、新しい歌声が分娩室いっぱいに広がって。張り詰めていた空気は一気に柔和なものとなり、その場にいた医師や看護婦からの祝福が更にその歌を盛り上げていたそうだ。おめでとうございます、と。身体が弱り、意識が朦朧とする中、その事だけははっきりと覚えていたそうだ。

「産声って、一番最初に歌う歌だから、録音する制度が出来たらいいのにって思っちゃう」

産後から、俺は病院に通い続けた。あのボディガードの依頼を受けてから、裏稼業の仕事は少しずつ調節して減量していっている。いきなり辞められるものではない。今のうちから根回ししておかなければ。時間が、ない。精神的にも肉体的にも疲労は溜まっていたが、蓮華の顔とレンの顔を交互に見ればそれも軽減される。
今日は珍しく午前で仕事を切り上げる事が出来たので早速病室に来てみれば、いつもより調子がいいらしい蓮華はレンの頬をつついて満足げに笑っている。上半身を起こしている姿は久しぶりに見た。刺さりっぱなしの点滴の管は、へその緒に似ている。自分自身の力だけでは生きていけない証拠だ。痛々しい。引き抜きたい衝動に駆られるが、抜いてしまったら蓮華は。しばらく動けないでいると、俺に気付いたあいつがこちらを見て、窓から差し込む太陽光を背負って開口一番にそう言った。

「いかにも歌手が考えそうな事だな」
「だって素敵でしょう。レンのおうたもねー、元気いっぱいでお母さん感動しちゃった」

ベビーベッドからレンを抱き上げると、随分と細くなった両腕であやして揺らす。ようやく病室に踏み込めた俺はその様子を立ったままベッドサイドで黙って見つめていた。こいつは今、確かに、母親だ。ファンとやらが見たら、嘆くのだろうか。自分の知っている円城寺蓮華ではないと。

何よりも楽しそうに歌っていた。幼い頃から、歌うのが好きだった。それに救われた事もある。大切に、気持ちを込めて歌うものだから、惹き込まれてしまうのだ。俺は別に、音楽に詳しい訳じゃあない。音が外れている、くらいは聞けばわかるが、技術面についてはからっきしだ。時には、音楽そのものを煩わしく思う瞬間もある。裏の世界では綺麗事が通用しない。夢や希望を歌われても受け入れがたい。
しかし、蓮華の歌だけは違う。身内の贔屓目もあるのかもしれないが、心にすんなりと入って来た。整った設備がなくても、思い付いたメロディを口ずさめば。悪い事ばかりではない。明日へは前向きに進める。自分を許してもいい。無理をしなくてもいい。そう思わせてくれる。
ファンはそんな蓮華の歌声と、それから歌う姿勢に魅せられる。こいつの歌をもっと聴いていたいと願う。ステージで、華やかに、軽やかに、強く、楽しく。励まされ癒され、満たされる。

母親として命を削る事を反対する輩も当然いる。拠り所を奪われたくないのは誰とて同じだ。レンを産み、育てる。本当に良かったのか。もう子どもは二人もいるのだから、危険な状態に追い込まれるまで無茶をして、産まなくても良かったのではないか。薄汚くなってしまった俺は、新たな命より今ある命の方が惜しい。レンが産まれる前に確認した蓮華の意志が固い事は、重々承知していた。

「眉間に皺が寄ってるわよ。レン見てー」
「俺がそいつを幸せにしてやれなかったら、お前はどうする」
「円にしては随分弱気だなぁ」
「蓮華」

レンを、お前のように真っ直ぐ愛せる自信がない。
もしお前が、考えたくもないが消えた時、レンを責めずに、何も心配するなと抱き締めてやれるとでも思っているのだろうか。買い被り過ぎだ。どう考えても、お前の死の原因の一端はレンだろう。重くなった空気を察して泣き出しそうな瞳は、お前によく似ている。この瞳を見る度に俺は苦しみ続ける。いなくなったお前を思い出す度に、この小さな命を憎みそうで怖い。面影を、追い続けてしまいそうで。言葉にならずに目を伏せると、蓮華が息を小さく吐く。


「円は、レンを産んだせいで私がこんな風になっているって思ってそうだから言うね。寧ろ、逆だと思うの。余命わずかな私の所に、神様が、最後に希望をくれたんだよ、きっと。だって、何もない、って言ったら誤解を招くからなー。うーん。この身一つだったとするじゃない。そんな時にもうすぐあなたは死んでしまいますよーって言われたらどうなるかな。おばあちゃんまで、あの人と子どもたちと、歌と、ファンのみんなと生きて行こうって思っていたのに、突然そんな風に言われたって受け入れられる自信、それこそないなぁ。悲しくって悔しくって、おかしくなっていたかもしれない。暴れちゃったりして、色んな人に八つ当たりしちゃってたかもしれないよ。円は私の事強いって思ってるみたいだけど、そうでもないの。こっそり涙を流した事もあったしねー、なんの時かは言わないよ。もう昔の話だし。とにかくよ、そう、私が私でなくなっていた可能性がすごく高いのね。でも、私のお腹には、この子が宿ったでしょう。その時に違和感を感じたから、神様やるなーって思った。この子は私がいないと、この世界に産まれて来る事すら出来なかったんだもの。自暴自棄になった私がさっさと死んじゃったら、この子はここに居なかったんだもの。レンはね、私の、いなくなった後も輝き続ける大切な光なんだ。お腹の中にいる時からたくさん歌って聞かせてきたから、音感リズム感共にバッチリ。アイドル円城寺蓮華のお墨付きよ、絶対なんだから。ワクワクしながら、ここまできたの。身体が言う事を聞かなくて、叫びたくなる時は、レンがどんな風に育って行くか考えるんだ。私みたいに、歌う事を好きになってくれたら嬉しいなぁ。アイドルは大変だから、なってもならなくても、どっちでもいいよ。初めて喋る言葉はまま、か、まどか、がいいね。幼稚園か小学校で初恋かな。中学生になったらテストで学年一位かも。高校生は反抗期が来ちゃうのかぁ。大学に行っても就職してもいいな。愛する人と結婚して、子どもが産まれて、おじさんになって、おじいちゃんになって。ママ似に育って欲しいよね、やっぱり。でも長生きじゃないと嫌。こうやって考えたら、私は、もう、幸せが溢れて止まらなくて、どうしようもなくなっちゃう。こんなに幸せなのに、この子を産まない方が良かった、なんて思わないよ。一回も、そんな事、思ってないよ。最後まで、私らしく生きて行こうって、この子がいるから思えるの。レンって名前ね、円が呼ぶ度に、私の事も一緒に考えてくれるようにって思って付けた部分もあるんだよ。ほらー、あの人そういうセンスないし?あ、別に誠一郎って名前が悪いって意味じゃないの、もちろん。……レン。私が感じている幸せを、この子がこの先同じ位、ううん、それ以上、感じられるように、円に見守っていて欲しいの。あの人は素直じゃないから、心が少し弱いから、頼めない。あなただから頼むのよ。魂を分けて産んだレンを、導いてあげて。憎んでも、いいよ。惜しみない愛情だけを注いで、とは言い切れない。純粋な好きだけじゃ、相手を思い続けるのって難しいもの。多少はいいの。でもねえ、円のだーいすきな私の子どもだから、すぐにまるっと好きになっちゃう気がする。その愛情の中に多少の、憎しみとか苦しみとか、あってもいいからね。人間ってそんな風に出来てるんだよー。面白いね。……久しぶりにいっぱい喋ったら喉渇いちゃった。持ってきてくれた果物、美味しく切り分けてよ、円お兄ちゃん」


長い長い蓮華の本音に、俺はいつの間にか、涙を流していた。とても死期が近付いている人間とは思えない、透明で、邪気のない、気持ちばかりが形になってこの四角く真っ白な監獄を埋めた。自分がひどくちっぽけな存在だと気付かされる。自分の息子を憎んでもいいなどと口にする母親がかつていただろうか。俺は知らない。強くないなんて嘘を吐け。これほどまでに強かで美しい奴はいない。
奥歯を噛み締めると、涙をゆっくりとだが止まった。カゴに入った果物を包むビニールを剥がす。少々乱暴に。

「愛してる、ありがとう、二人とも」

聞えた声の凛々しさは、いつまでも胸の中に残っている。






「法的に大人になったからな、もう話してもいいだろうと思った」
「二十歳になって早々、とんでもないプレゼントをありがとう」

レンの飲んでいるワイングラスに、ぽたりと一滴、これもまた透明なものが落ちる。塩気が増して味が変わってしまったそれを、口元に持って行ったはいいものの、そこから動かなくなってしまう。言いたい事はなんとなくわかった。これだけ長く面倒を見ていれば、嫌でもピンときてしまうものだ。

「朝になったら、墓参りに行くぞ。そこで一曲歌ってやれ、そうすれば喜ぶ」
「……そうするよ」

END



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