捕食って言葉が似合うなあ、と、御子柴は松岡の、躍動し続ける筋肉を見つめながらぼんやりと思った。白い歯のように並びプールをぐるんと囲んだジャバラが水を飲む、ずぞぞぞ、という下品な音も気にせず、腕を、足を、頭を揺らし続ける。集中して無心なのだろう。体にかかる負荷を殺し、赤紫の髪を滲ませる。サンゴだか海藻だかにも、あの鮮やかな色彩を持つ生物がいた気がした。
あと五分ほどで今日の部活動は終了する。と言っても、片付けの分は差し引いてあるので実質は三十分ほどあるのだが。気の早い後輩はそそくさとバケツでプールサイドのタイルに水を撒く。本来ならば注意しなければならないが、それどころではなかった。びしゃん、びしゃんと、これまた不快感を煽る旋律が生まれる。どうしても世界は、御子柴が松岡を静かに見守るのを邪魔したがった。普段女性へと都合のいい言葉を並べる彼への報復かもしれない。
琥珀色と白色の眼球から送られてくる熱に、当の本人は水面を割るばかりだった。それどころか、脳味噌の代わりに詰められた固執でただ一人の、自由で、今は腑抜けている、天然水に近い青年の事ばかり、考えているのである。こんなにも塩素臭い人口水の中にいるというのに。追いかけて、追いかけて。突き放されてしまったとしても、相手が変わってしまっていても、どうしたって青年の、ひらりとかわしてばかりの踵を掴みたいのだ。驚き、動揺し、次々と作り出される波線を止められたとしたら。その場面はゴーグルの中で無声映画として繰り返される。松岡が水温三十度に包まれている間中、ずっと。
一層速度を増した泳ぎに、御子柴は嘆息した。今日の鮫は、焦燥感に引き摺られ過ぎて体が悲鳴を上げている。普段から少々無理をしているのに、これ以上酷使してはどうなるかわからない。自己管理は出来ているので大目にみていたが、様子がおかしい。
声をかけようと水中を進むと、爪先にこつりと当たる物があった。潜り拾い上げれば、固形塩素だった。先程の後輩が投げ込んだらしく、まだ溶け始めて間もない。いちかばちか、やってみようと、その瞬間閃く。利き手にその塊を持つと、二十五メートルプールの隅にいた松岡めがけて、目いっぱいの力で投げる。
びゅん、ぼちゃん、と連なった後、プールに唯一歪みを作っていた松岡が、動きを止める。御子柴が投げたソレは彼の進行方向に落ち、彼の上がりきった心拍数や理想に対する欲望、脳味噌を占領していた青年すらも、一瞬で消し去ってしまったのだ。動き続けているのは、心臓だけだった。はくはく、と短い呼吸が響く。何故あんなにも興奮していたのか、何故こんなにも冷静になったのか。たったひとつの小さな優しさで、一気に押し寄せた現実感に、松岡は羞恥を感じた。もう誰も、泳いでいない。チャイムが鳴った。デッキブラシやホースの話し声が大きくなる。緊張感のなくなった空間、数秒前の出来事を口にする者はいない。松岡は奇特な存在として、認識されていたからである。
「片付け、早く上がれっての」
ざばざばと乱暴に水を掻き分けて寄ってきた御子柴に乱暴に頭を撫で回され、いよいよ耐え切れなくなって、コースロープを乗り越え、解放を味わう。あのまま続けていたら、きっと、人間に戻れなくなっていた。なにかもっと、異形の、なにかに、なってしまっていただろう。漠然としていて形がわからない恐怖に、溺れそうになったのだ、無意識のうちに。魚にでもなりそうな勢いで。
「……なにやってんだ」
下唇からはいつもより濃厚な、薬品の味がした。みっともない。こんな風に、粗雑に扱いたくはないのだ、幼少期から続けてきて、好きで好きでたまらない、神聖な行為を。だからこそ、幼馴染に執着しているのだ。のらりくらりと先を行くのが許せない。
「頭から沈んできそうな泳ぎすんなよ、な、もうちょっと気楽に構えろ」
耳に入った水を片足で立ち抜きながら、御子柴は柔らかい声で諭すように告げる。松岡を支配する感情や劣等感を彼は知らなかったが、他の部員達にはない重さを一見軽やかに見える姿勢から察していた。思春期の男子高校生ならば、誰にでも悩みはある。その根深さは人によってさまざまではあるが、出来る限り力になりたいと思ったのだ。
「そんな簡単な事じゃないんすよ」
顔を上げた松岡の、両目にめらりと浮かんだ仄暗い劣情を目にして、今度は御子柴が動きを止めてしまった。言葉を、黙殺されてしまったのだ。息を飲むような、その、怒りとも悲しみとも取れない表情に。
後輩のガシュ、ガシュ、とタイルを擦る音と、御子柴の心に傷がつく音と、松岡の心にヒビが入る音はすべて、同じだった。
END
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